城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

城陽文化財巡り・P2<<水主神社>>

2013年07月24日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。

大きな地図で見る

これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

まーゆっくりと楽しみましょう

 

P2ページ(2)は枇杷庄水主に鎮座する

その名も「水主神社」です。上の『20』番です

城陽市文化財

 

石碑と参道

田圃の中にぽつんと杜が見え石柱と鳥居が現れます

一の鳥居と神社の杜

二の鳥居

拝  殿(割拝殿(横長拝殿の中央の床を落として土間の通路としている))

(入母屋造・間口八間半・奥行二間・瓦葺)

本  殿(一間社流造り・桧皮葺)・こちらが「城陽市文化財」です

古代豪族・水主氏の祖先を祭る氏神として建立されたが詳細は不明です。ただ、『文徳実録』の天安2年(858年)に雨乞いの祈祷を行った記述があり、その頃は建っていたようです。又、寛政10年(1798年)に再建されているようです

水主神社は往古より世にきこえた名神大社なり。其の祭神は天照御魂神(饒速日尊)、天香語山神、天村雲神、天忍男神、建額赤神、建諸隅命、建筒草命、建多背命、倭得玉彦命、山背大国魂命の十柱にして、天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。第十世山背大国魂命にいたり山背に移り大に其国に功烈あり。之を尊みて山背大国魂命という。其の子孫山代水主連となり世々其の祀を奉せしものなり。延喜式には水主社十座並大月次新嘗と定められ、特に天照御魂神と山背大国魂命とは四季祭相嘗祭に預かり、又祈雨大神の内に加わり、仁寿貞観の頃加茂両社松尾稲荷住吉大社等諸社と共に新年祈雨の奉幣あり。朝家御崇敬上下帰依信仰尤も厚しと伝う。 「神社由緒より」

当社には太陽神信仰があったと推測され、ここと水度神社を結んだ線が夏至日の朝日の遥拝線と重なるようです。

本殿測「面(西)屋根のラインが美しいです。桧皮葺が緑に苔むしていい感じです

殿背面・透塀がいいですね

蛙股(蟇股)や屋根裏の造作

境内社/式内・樺井月神社・月読命を祭神とし牛馬の守護神として祈願されています

こちらは御神木。城陽市の名木・古木」に選定されています

今日知ったのですが、十のご祭神の最後「山背大国魂命」の塚が近くにありました。

神社参道入り口より南に約100mを、東に50mを北に向くと見えます。

 

地図ではここです

確かに丸く小山になっています

これも史跡ですね

もうひとつ気になったのが、この南にある

 

水主村中にある「金刀比羅神社」と「室城神社」です

 

地図ではここです。直線で塚より100m足らずです

 

特に「室城」が気になります。先に水主神社の由緒より山代水主連の事が書かれていますが、

 

室城は室樹のことで、水主神社は古代豪族・榎室連(エムロ ムラジ)がその祖先と思われます。水主連は室樹連だったのですね。そのためここに水主神社の室樹神社がお祀りされているのですね。社外摂社だと思われます。

さらに時代はさがって、15世紀にはここには御厨子(水主)城がありました。

 

この法念寺の前辺りにあったのではないでしょうか

 

気になる石垣、城といっても砦のような物だったのでしょう

 

なにやら気になる石が転がっていました。遺跡の物なのでしょうか?・・・(ロマン?)ここまで


城陽文化財巡り・P1<<正道官衙(しょうどうかんが)遺跡>>

2013年07月19日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。


大きな地図で見る

これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

まーゆっくりと楽しみましょう

 

まずは、手始めに寺田、万葉の昔に「鷺坂」と呼ばれたところの、

東に存在した奈良時代の官営「正道官衙」

紹介しましょう。

国の史跡

 

詳しい事はこれを見ていただくとして、概略だけを説明しますと

ここは奈良時代の郡衙(郡の役所)であった建物郡です。

又この遺跡は、5世紀は小規模な古墳と、6~7世紀の集落遺構、

7世紀以降の大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構が重なり合う複合遺跡です。

現在は国の史跡に指定、整備され、建物がイメージ復元されています。

推定イメージ復元図

右上が北、左下が南、右が東、左上が西です

これが今のパノラマ

右が北、左が南、上が西、下が東です 

こちらは反対側の西から見たパノラマ

それでは一つずつ見てゆきましょう

南が正面で南の門から入るようです。役所を取り囲む築地塀があったようです。

上の図では左になります

内側から見た門

外側から見た門と築地塀

築地塀の両側(内外)には溝が掘られています

こちらは内側

柱は12本

シンメトリーで美しいですね

南門から見た北の様子 

門を入ると右側(東)に「向屋」

本当はこの地下に柱跡などは残っています

図では真ん中の建物

その先(北)には「東屋」。西側に「西屋」が在った可能性もあるそうです

図では右の建物になります

そして北を向くと

ここがこの遺構の中心とされる「庁屋」

L字形の塀が設けられています。

何となく中心と云う感じがします。山城地方、久世郡の役所だったのですね

東西9本、南北5本、総計45本の掘立柱の建物だったようです

  

柱組みもこのようだったのでしょうね

北の建物から南の門までが見通せます

東から見るとこんな感じです

俯瞰図と比べると様子が分かります

その北の建物は「副(そえの)屋」と呼ばれます

奈良時代の一般的な建物配置だそうです

何故か藤棚になっていました

西側から見たところ。東西8本、南北3本、総計24本の柱

北側へ凸型に膨らんだところから見たところ

そこを南側から見ると北側には建物は在りませんでした

手前の東側には「正倉」と呼ばれる建物がありました

総柱で高床式で校倉造りの倉庫だったようです。

そうあの奈良「正倉院」の倉庫ですね

ここ城陽は古くから和歌に読まれている京都~奈良の真ん中にありました。

城陽を詠んだ和歌も多くあり、この遺跡にも紹介されていました

遺構内の樹木は、奈良時代の「万葉集」に詠まれている「万葉植物」もあり、

万葉花を添えて紹介されております。

史跡として大切にされ、後世に残されて行きます