城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第三回・後編>

2016年08月09日 | 西国三十三ケ所遍路旅

では第3回を2014年2月13日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては2回目です
第3回に行くところが前後して2回目になったのです
ですから次回は、第2回になります(バスツアーの都合上です)

京都駅八条口を朝8時に出発し第五番葛井寺⇒第八番長谷寺⇒番外法起院⇒第七番岡寺(龍蓋寺)⇒第六番壷坂寺(南法華寺)の順に向かいます
 
前回の第3回前編に続く後編になります
 
 
 
 
お次は第7番を少し北に行った櫻井市にある「第八番・豊山 長谷寺

長谷寺の「総門」で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門

現在の建物は明治27年に再建されました

 
「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆

 
立派な龍の彫り物が掛けられていました
 
 
 
両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像が安置されております

朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇のために「銅版法華説節相図」を初瀬山西の岡に安置されのが始りとされています

 
登廊( のぼりろう)」
平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造られました
百八間、399段、上中下の三廊に分かれています
 
 
 
両側に寒牡丹が咲き誇っていました
 
 
下、中廊は明治27年再建で、風雅な長谷型の灯籠が吊るされています
この「繋屋」で折れ下、中廊を繋いでいます

 
神亀四年(727)徳道上人(法起院創建)が聖武天皇の勅願によってご本尊十一面観世音菩薩を東の岡にお祀りになり、西国三十三ヶ所観音霊場を開かれ、長谷寺は根本道場とも呼ばれ、長谷詣で長谷信仰は全国に広がったそうです
平安時代は貴族の間に「初瀬詣」が大いに流行し「蜻蛉日記」「更級日記」の作者らも詣で、「枕草子」「源氏物語」にも長谷寺は描かれています
伊勢参詣が盛んになってくる室町時代には、道筋にある長谷寺へも決まりのように初瀬詣は庶民にも広まりました

 
ご本尊十一面観音菩薩は右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。現在のご尊像は、室町時代の天文七年(1538)に大仏師運宗らによって造立され、像高三丈三尺六寸(1018cm)の我が国で最も大きな木造の仏さまでお姿はこちら
雨宝童子立像は本尊に向かって左脇侍で初瀬山を守護する八大童子のひとり、また天照大神としても信仰されており、頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏っておられます

 
 
徳川家光光の寄進により慶安三年に入母屋造りの正堂(内陣)と礼堂(外陣)をひとつにした双堂と呼ぶ様式で前面に懸造りの舞台が付く建築となっています

 
鐘楼が登り楼の向こうに見えます



紀貫之故里の梅
「人はいさ心も知らず故里の花ぞ昔の香に匂いける」

 
画像はないですが「蔵王堂」・天正五年の創建で、現建物は慶安三年徳川家光公の命により再建されました

 
 
梅心院」・長谷寺六坊の一つで、慶長の頃、参拝の砌り徳川家康の命により建立されました

 
道明上人御廟塔
「銅版法華説節相図」を初瀬山西の岡に安置され、「徳道上人」と共に創建された方です

 
後生車(ごしょうくるま)・丸い石板を一回転させると経を一回読んだこととなるという、マニ車と同じと云われる説と、輪を回し死者に呼びかけたり、吉凶や天気を占ったり、使者への供養や後生の安泰を祈るとされる説があるようです

 
帰りも同じ「登り廊」を下ってかえりました

 
寒牡丹に藁でこしらえた雪除けが掛けられていました
実はH26年、翌2月14日は大雪が降りこの雪除けは大いに役立ったのではないでしょうか
牡丹献木運動を実施しておられます(一口壱千円より)
 
 
次の法起院への道筋の門前通り。昔からの趣が残っていました

 
こちらは奈良漬屋さん

 
長谷寺参道(旧初瀬街道・伊勢街道)のこの左が「番外・法起院」

番外・法起院」・天平7年(735)に長谷寺を造立された徳道上人により創建されました

 

「長谷寺開山徳道聖人廟塔」碑と道祖神でしょうか?

本堂・開山堂
『養老二年、突然の病のために仮死状態にあった上人、夢の中で閻魔大王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、そして三十三の法印を与えられて仮死状態から開放されました。上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく法印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。二百七十年後の永延二年(988)に、花山法皇がこの法印をお掘り出しになり、今日の三十三カ所を復興なさいました。』(法起院リーフレットより)



「徳道上人お姿」

  

「観音堂」「聖観音立像」
この院は上人が隠棲されたところで、開山堂に上人自作の像を安置し、松の上から「法起菩薩」と化し去ったといわれ、院の名前もそこからつけられました

「地蔵菩薩」「道祖神」など石仏

こちらに「徳道上人御廟」の十三重の塔

「十三重の塔」

天竺招来仏足石

 

お釈迦様が「寂滅」になると、もう一度お姿を拝みたいと云う願いが高まり、足を拝むと云う当時の信仰の形から「仏足跡」が刻まれたそうです

徳道上人「沓脱の石
松の木から法起菩薩として化し去られたされた沓脱の跡が残ったと伝えられます
この石に触れると願いが叶うと伝えられているそうです

布袋様のようです

お参りも終わりましたので一寸門前をぶらりと見ましょう
煙出しが見え土壁がむき出しになっていますね。小屋根が年月を経て波打っています
この先に「初瀬街道(伊勢街道)」がありお伊勢さんへと続いています


黒漆器に白い虫籠窓、出格子に、犬矢来、白壁の蔵と、いい風情です

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中之橋と譽喜天満宮御旅所
なにやら、この天満宮に「天照大神」が降臨されたとも、長谷寺鎮守聖廟とも、記されていますよ

初瀬川
平安時代に大いに流行した「初瀬詣」や和歌にに良く出てくる川です

今日は13日、明日があの有名な「だだおし」行事の日のようです


 

「連歌橋」と「譽喜山天然記念物暖帯林案内板」
「素盞雄神社」と譽喜山にある譽喜天満宮のへの参道に架かる橋

この道を石段を登ってゆくと「譽喜天満宮」
土壁の古き日本の民家の面影を残す原風景です

初瀬川のせせらぎと長閑な里山の風情といったところでしょうか

今回は五番を除き、山の中で石段あり一寸疲れました。次回はどうなるでしょうか?



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