シリーズとしてUPして行きたいと思っております
郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します
それらを紹介するとともに、自分の知識として、
又、記録として残してゆきたいと思っております。
これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です
平成4年現在ですので変更があるかもしれません
これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です
では巡礼といきますか!?
これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。
因みにこれは平成4年現在ですが、現在は55件(平成25年)となっています
まーゆっくりと楽しみましょう
P5ページ(5)は富野荒見田に鎮座する
「荒見神社」で「本殿」国重要文化財&
「御霊社」府登録文化財&
「神門」「透垣」「中門」城陽市文化財
を
紹介しましょう。
上記『23』番+αです
「荒見神社」正面南向きに建っております
旧富野村の産土神で、社伝によれば、大化三年長池の東方山中の元五社ヶ谷にありましたが、室町時代に現在地に遷宮したといわれます
明治21年1月9日に荒見神社と改称するまでは、阿良美五社大明神とか安羅見五社天神宮と称しされていました
古くより宮座があり、西冨野宮座は珍しく今も現存しております。
薬医門 ・「神門」」城陽市文化財
屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくるため、前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になっているそうです。
薬医門は神仏習合の特徴と云われます
五七の桐の神紋 、菊花紋神紋
頑丈そうな門です。乳鋲も見えます
薬医門の内側
棟瓦には鯱 軒瓦には獅子
境内の拝殿、拝所、本殿
荒見(荒海)とは荒水の転訛によるものとみられ、木津川などの水禍を避けるために水神を祀ったといわれます。
荒見神社には豪族・水主(みぬし)氏(前回の水主神社)が関わったとも云われます。
見つかった棟札によると江戸時代(1604年)、現在の本殿が建立されました。
拝殿正面
「中門」城陽市文化財
こちらにも五七の桐の神紋、菊花紋神紋額が掲げられております
中門全体・透垣に囲まれここより本殿に入ります
側面・蟇股、木鼻、梁、降懸魚棟瓦が見えています
左)木の端は「木鼻」と呼ばれ、こちらの物は雲の形をしています 右)桁を隠すものを降懸魚(くだりげぎょ)と呼ばれ、こちらの物は若葉です
「本殿」国重要文化財(元国宝)
ご祭神は天火明尊、天香語山尊、天村雲尊、阿比良依姫尊、木花開耶姫尊の五体です
本殿正面左右
上の重さを支えるための物を蟇股と云い、こちらの彫物は唐獅子と左右は16菊花紋です
『山城国風土記』には荒海の社祇社、御名は大歳の神とあり、穀神(豊穣の神)だったようです。
「三間社流造」社殿は間口三間・奥行二間半・屋根は檜皮葺です
桃山時代の三間社流造で冨野の有力大工が手掛けたと伝わっています。
棟に瓦、棟飾りの獅子口が二つ据えられ、木鼻は若葉が飾られています
柱の間に渡した部分を梁と云い、こちらの物は海老虹梁(えびごうりょう)となっています
本殿裏面
「透垣」」城陽市文化財
背面側
内側にはがっしりと石柱で支えられています
「御霊社」府登録文化財 ご神体は天児屋根命
組物、 木鼻は近世のもので本殿と共通しています
蟇股は本殿のものより古い室町後期頃の特徴を持っています
一間社流造、棟は瓦で総檜皮葺
石橋と掘割
境内全域が森(神社の森-文化環境保全地区)に覆われ、周囲は堀割で囲まれています
門前の燈籠・天保15年 手水舎、水盤
1985年には、神道日垣の庭、菊水の神座、天津新水の真名井が完成しています。
「菊水は長命の泉にして、此の水は荒見の神がその身に召します水の衣なり。この水を汲む者真心こめ合掌禮拝すれば身健かに人生豊かとなるべし」
門前の常夜燈・天保15年・・ 春日社明神御宝前 側面・延宝六年城州久世郡
山城久世郡富野村 側面・享保四年・・ 右は中門下の石段の矩面・寛延二年・・
「城州名跡誌」に1711年、「天満宮」とされていたようで瓦に梅小鉢紋です。又、巴紋も見えます
左は透垣の屋根の棟瓦・四方に亀が載っていました
「式内荒見神社」の自然石碑。『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「荒見神社」に比定、只、近代になり、久御山町の同社号の荒見神社が式内社として治定されているようです
毎年干支が変わる絵馬 今年は「巳」でした
皆さんが健康でありますように・・
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