日本人にとって「フラメンコは踊り」というイメージが強い。それは間違いではないけれど、フラメンコは踊りだけではない。その真髄はカンテ(唄)だといわれ、そこにギターがあり、パルマ(手拍子)があり、何よりも考え方や生き方そのものであったりもする。もともとは、スペインの最も南の地方アンダルシアに流れ着いたロマ(ジプシー)たちが仲間内だけで歌い踊っていたのが広まっていき、芸術的なレベルにまで達して現在のスタイルが確立したものだ。彼らの暮らしは厳しく、度重なる迫害や貧困に耐えてきたからフラメンコのカンテには彼らの嘆きや哀しみが満ち溢れている。でもその中に強靭なしたたかさや嘆きさえも生きる力に変えるような柳のようなしなやかさが潜んでいるのだ。もちろん様々なリズムの曲種の中には「アレグリアス」という明るく楽しいものや、「セビジャーナス」などお祭りでみんなが歌い踊るようなものもある。
日本は本国スペインに次いでフラメンコが盛んな国なので教室などもたくさんあり、一流のアーティストたちが頻繁に来日公演を行ってくれる。また、食事やお酒を楽しみながら生のフラメンコが観られるタブラオなども幾つかあり、日本にいながらにして本場の雰囲気を体験することができる。それでもスペインに行ってフラメンコに触れると、やっぱりその空気のちがいに圧倒されるのだ。劇場やタブラオに流れる空気の濃さ、観客達の熱さ、絶妙のタイミングでかかるハレオ(掛け声)。また白い街並みが眩しいシエスタ時、めまいがしそうな中を歩いていると、どこかの家の開いた窓から気だるく聴こえてくるカンテ。そんなフラメンコは日本では決して味わうことはできない。
フラメンコは自分を飾る必要はない。バレエのように美しく痩せている必要もない。ありのままの自分でいいのだ。赤ちゃんから老人まで、フラメンコには年齢もない。
フラメンコには「ドゥエンデ」という感覚があり、それは本人にも意識することなく訪れる瞬間で、人の心を捉えて離さない鳥肌がたつような感覚なのだそうだ。
また、フラメンコには西洋音楽とちがって楽譜などない。もちろん現代では採譜されて楽譜になっているものがたくさんあるけれど、フラメンコはより生身の人間に近い。かつての日本の音楽のように親から子へ、師匠から弟子へと伝承されていく世界なのだ。
フラメンコギターは伴奏だけに留まらず、ソロでもひとつの世界を確立している。フラメンコギタリストの神様と言われるパコ・デ・ルシア以降、ベースやパーカッション、フルートなど様々な楽器とコラボレーションするスタイルも一般的になった。またピアノによるフラメンコなど、現代的な感覚で演奏される「音楽」としてのフラメンコも多様化している。伝統を忠実に継承する者と、その時代の感覚で変化させていく者。どちらも真実で、どの世界にも起こっていることなのだと思う。それでも革新者は言う。「フラメンコの根を大切にすること。そして、フラメンコに敬意を払うことを忘れてはいけない。」のだと。
フラメンコの手は葡萄を摘む手。葡萄を摘み、唇へと運び、その実を食べて、皮を地面に捨てる。そんな動きだと聞いたことがある。そして葡萄を踏む足。豊穣な大地の恵みで作られたワインは人々の喉を潤し、人々は歌い、そして踊る。ロマの人々にとってフラメンコは呼吸するのと同じであり、生きることそのものなのだという。
人生の喜怒哀楽。あらゆる感情と情熱がその中にある。生も死も、人が避けて通れない悲しみも、そして溢れる喜びも、すべてを内包しているからこそフラメンコは人の心を打つ。そしてそれは大きな勇気や生きる力を与えてくれる。フラメンコのリズムに身も心も委ねて、今この瞬間を彼らのように精一杯生きていきたいと、いつも願うのだ。
日本は本国スペインに次いでフラメンコが盛んな国なので教室などもたくさんあり、一流のアーティストたちが頻繁に来日公演を行ってくれる。また、食事やお酒を楽しみながら生のフラメンコが観られるタブラオなども幾つかあり、日本にいながらにして本場の雰囲気を体験することができる。それでもスペインに行ってフラメンコに触れると、やっぱりその空気のちがいに圧倒されるのだ。劇場やタブラオに流れる空気の濃さ、観客達の熱さ、絶妙のタイミングでかかるハレオ(掛け声)。また白い街並みが眩しいシエスタ時、めまいがしそうな中を歩いていると、どこかの家の開いた窓から気だるく聴こえてくるカンテ。そんなフラメンコは日本では決して味わうことはできない。
フラメンコは自分を飾る必要はない。バレエのように美しく痩せている必要もない。ありのままの自分でいいのだ。赤ちゃんから老人まで、フラメンコには年齢もない。
フラメンコには「ドゥエンデ」という感覚があり、それは本人にも意識することなく訪れる瞬間で、人の心を捉えて離さない鳥肌がたつような感覚なのだそうだ。
また、フラメンコには西洋音楽とちがって楽譜などない。もちろん現代では採譜されて楽譜になっているものがたくさんあるけれど、フラメンコはより生身の人間に近い。かつての日本の音楽のように親から子へ、師匠から弟子へと伝承されていく世界なのだ。
フラメンコギターは伴奏だけに留まらず、ソロでもひとつの世界を確立している。フラメンコギタリストの神様と言われるパコ・デ・ルシア以降、ベースやパーカッション、フルートなど様々な楽器とコラボレーションするスタイルも一般的になった。またピアノによるフラメンコなど、現代的な感覚で演奏される「音楽」としてのフラメンコも多様化している。伝統を忠実に継承する者と、その時代の感覚で変化させていく者。どちらも真実で、どの世界にも起こっていることなのだと思う。それでも革新者は言う。「フラメンコの根を大切にすること。そして、フラメンコに敬意を払うことを忘れてはいけない。」のだと。
フラメンコの手は葡萄を摘む手。葡萄を摘み、唇へと運び、その実を食べて、皮を地面に捨てる。そんな動きだと聞いたことがある。そして葡萄を踏む足。豊穣な大地の恵みで作られたワインは人々の喉を潤し、人々は歌い、そして踊る。ロマの人々にとってフラメンコは呼吸するのと同じであり、生きることそのものなのだという。
人生の喜怒哀楽。あらゆる感情と情熱がその中にある。生も死も、人が避けて通れない悲しみも、そして溢れる喜びも、すべてを内包しているからこそフラメンコは人の心を打つ。そしてそれは大きな勇気や生きる力を与えてくれる。フラメンコのリズムに身も心も委ねて、今この瞬間を彼らのように精一杯生きていきたいと、いつも願うのだ。