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映像と文化通信『デジタル時代に“アナログをいく”』太田 順一展再考

2009年04月27日 05時27分05秒 | 写真・映像・アート
 去る3月東京の銀座ニコンサロンで太田 順一展

[父の日記]を見そびれて、大阪梅田
で見ることになった。

筆者の父の膨大な遺稿は手書きのデジタルだった。
(つまり数字がグラフにびっしり手書きで書かれていた)。

 太田 順一展の『父の日記』にも生い立ちのこと述懐しているところがあった。(父 中野政次郎氏は1920年 大正9年 石川県生まれで学校を卒業してすぐ大和郡山に奉公「勤務」に出たことなど)


 ところが筆者の父(中野政次郎氏より6歳年長)は文字書きのプロであったが、母が亡くなってからの“手記”はデジタルのワープロで表した。生い立ちのことや戦争・軍隊体験、世相批評、短歌などを残した。このデジタルとアナログの対比にいろいろ考えさせられる。
 
 80歳だった頃の筆者の父がワープロ(digital)で“手記”残し、一方で手書きの遺稿は殆ど数字(digital)ばかりだった。


 太田順一氏のケースは
アナログのカメラと銀塩のフィルムで手書きの父親の日記を撮られて、太田順一展とされた。

 かえるの子はかえるという。

 父の日記をほぼ”そのまま”みせる“反“写真展で太田順一展とする。
つまり自分をも見せて表しているのだとう思う。

 当然のことだが筆者も父の子で父をみると自分がわかる面がある。
 それゆえdigitalに傾いているのだろう。

 例えば茶碗、何万円かで買った茶碗、それが骨董点で数十万円になったとき確かな手ごたえを感じる。評価が数値化されたのだ。

 こういう数値化やdigital世界と真っ向から反する世界を表現しているのが「父の日記」太田順一展だったと思う。

 
 太田順一展の「父の日記」、
 ここではあくまでレンズのぬくもりを通して、紙のぬくもりの上に書かれた温もりを感じられるペン書きの文字。

 年老いても、ひとり暮らしでも必死でみずからに張頑れと自分を奮い立たせて生きようとする強い意志を感じさせる。

 永年仕事で頑張ってこられた父親の強い意志力がみなぎっていたとおもう。

 最後は施設に入られ、認知症が進行するのだが、奈良から息子夫婦がきてくれたときちんと書いておられる。大好きな、愛する息子夫婦がきてくれたことがよほどうれしかったと思われる。

 遠い奈良から茨城県まできてくれた息子夫婦。
こういう親子の関係は数値化できない貴重なものである。

 万能振りを発揮する(digital)ケータイ時代だからこそ、

digital文化が人間をおかしくしている時代だからこそ

「父の日記」太田順一展の意味は小さくない。


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