☆ 神川の戦い❗ ;
歴史拾遺 ヒロイ ;
☆ 真田幸隆氏と昌幸氏~ ;
「 智謀 」で、 戦国に挑んだ父子❗ ;
『 歴史街道 』 2015年10月号 ;
[ 総力特集:真田幸隆と昌幸 ]より転載。
2015年 9月30日 公開 ;
平山優氏 ( 歴史家・大河ドラマ ;
「 真田丸 」 、 では、 時代考証 ) ;
真田氏の居城・上田城 ;
2016年の大河ドラマ ; 「 真田丸 」。
主人公の真田信繁氏 ( 幸村 )、は、
戦国随一の人気を誇る武将だが、
彼の祖父と父もまた、
上杉謙信氏や武田信玄氏が、
一目を置く武将であった。
真田幸隆氏と、昌幸氏。
この父子を抜きにして、
信繁氏を語ることはできない。
真田信繁 氏( 幸村 ) 、をはじめとする、
戦国時代の信州真田氏といえば、
綺羅星の如く居並ぶ戦国武将の中でも、
1、2を争う人気を誇ります。
しかし、その一方で、
「 真田の活躍の多くは、
『 伝説 』、 に過ぎず、
過大評価されているのではないか 」、
という、 声を耳にすることも、
少なくありません。
しかし、 私は、 2つの点で、
そうした論調とは、
異なる考えを抱いています。
まず、 真田氏の活躍は、
「 伝説 」、 に拠るところが、多い、
と、 捉えられがちですが、 彼らは、
決して、 史料に乏しい、
一族では、ありません。
真田氏は、独立大名となる前は、
数カ村単位で、 地域を支配する、
「 国衆 」、 と呼ばれる存在でした。
実は、 戦国の国衆の中で、
圧倒的に、史料が残っているのが、
真田氏であり、 むしろ、
「 恵まれている 」 、 と、 言えます。
後述しますが、 それは、
信繁氏の祖父と父にあたる、
真田幸綱氏 ( 幸隆 )・昌幸氏、な、
父子が、 武田信玄氏・勝頼氏、への、
右腕として活躍したことと、
無関係ではないでしょう。
そして、 もう1つ、 真田氏に対する、
評価は、 決して、
「 過大 」、 では、ありません。
かく言う、私も、 当初は、
実力・実績以上の評価を受けている、
意目侍を抱いていました。
しかし、 研究を進める過程で、
たとえば、 昌幸氏が、 いわゆる、
「 天正壬午の乱 」、 で、
北条氏、徳川氏、上杉氏、 という、
錚々たる大大名と渡り合った姿に、
一次史料で、 触れ、過大評価どころか、
むしろ、 過小に評価されているのでは、
ないか……。 そう、 考えるようにすら、
なりました。
ゼロから出発しながらも、
智謀を武器に、 戦国の荒波を潜り抜け、
これほど、 ドラマティックに、
乱世を歩んだ一族は、
真田氏を置いて、 他に存在しません。
そして、 最初の一歩を踏み出し、
文字通り、 真田の躍進への礎を築いたのが、
幸綱氏であり、 その跡を継ぎ、
独立大名としての地位を築いたのが、
昌幸氏でした。
真田氏の中では、 昌幸氏の息子で、
来年の大河ドラマの主役でもある、
信繁氏にばかり、目を向けられがちですが、
その祖父と父の存在に触れずして、
信繁氏を語ることは、できません――。
戦国以前の真田氏については、
その発祥は、 上野 コウヅケ の国 ;
( 群馬県 ) 、 である、 という説が、
一部から提起されるなど、今も、
多くの謎に包まれています。
清和天皇の子孫を称する、
名族、な、滋野一族の、
海野氏の嫡流、 ともされますが、
近年の研究では、 完全なる脚色、
と、 考えられています。
恐らくは、 真田氏が自称したのでしょうが、
これは、 滋野姓海野氏を名乗ることが、
豪族を束ねる上で、 効果的であったからで、
当時においては、
珍しいことでは、ありません。
そんな一族が、
歴史の表舞台に登場したのが、
真田弾正忠幸綱氏の代でした。
幸綱氏の誕生は、 永正➕年 ;
( 1513年 ) 、 ですが、
諱 イミナ ( 実名 )、 が、
よく、 問題にされます。
幸綱氏は、 一般的には、 「 幸隆 」、
の名で、知られます。
確かに、 江戸幕府が編纂し、
幸綱氏の孫な、信之氏が健在の時代に、
成立した、 『 寛永 諸家系図伝 』、にも、
「 幸隆 」、 と、記録されています。
しかし、 一次史料を追うと、
壮年期まで、 「 幸隆 」、 と、
記されたものは、 皆無です。
様々な史料を照らし合わせれば、
幸綱氏は、 出家を契機として、
「 幸隆 」、 に改名した、
と、考えるのが、 自然であり、
ならば、 読み方は、
「 こうりゅう 」、 ではないか……。
以上が、 現時点での私の考えです。
信州小県、の、真田郷を本拠としていた、
幸綱氏ですが、 大きな転機が、
天文➕年 ; ( 1541年 )、の、
海野平合戦でした。
幸綱氏は、 村上義清・武田信虎氏らの、
連合軍に敗れ、 故郷を追われます。
幸綱氏と村上義清氏は、 以前より、
小競り合いを繰り返していましたが、
その上で、 武田氏まで加われば、
多勢に無勢、 幸綱氏は、
上州への亡命を余儀なくされました。
「 必ずや、故郷を取り返す」 。
幸綱氏は、 心中で、 断乎たる、
決意を固めたことでしょう。
この時、幸綱氏とともに落ち延びたのが、
縁戚関係にあった、 ともいう、
海野氏の宗家な、海野棟綱氏の一族で、
彼らの多くは、 関東管領、な、
上杉憲政氏を頼りました。
関東管領といえば、 当時は、
トップブランドであり、 誰もが、
「 寄らば、大樹の陰 」、と、
考えたわけです。
しかし、 幸綱氏は、 異なりました。
真田関係の軍記物 ; 『 加沢記 』
、 によれば、 幸綱氏は、
「 信州で仄聞していたが、
憲政氏が、 うつけたる大将だ、
というのは、 間違いない。 いかに、
関東管領の高位にあるとはいえ、
あまりにも、 事々しい。 上杉家は、
将来が危うく見える 」
、と、 冷静に分析し、
「 恃みにならぬ、 上杉についても、
我らの旧領の回復には、
何の足しにもならない 」、 と、
早々に見切るのです。
そして――幸綱氏が、 最終的に、
身を寄せたのが、 甲斐の武田晴信氏 ;
( 信玄 )、 でした。
幸綱氏にとって、 武田氏は、
信虎氏の代に、 村上義清氏とともに、
自分たちを真田郷から追い払った、
仇敵に他なりません。
しかし、 幸綱氏は、
信虎氏を家中から放逐した信玄氏が、
上杉氏を上回る勢力をもつこと、また、
真田郷を占拠する村上義清氏と、
対立関係に入った、 との、情報を入手し、
幸綱氏を求める武田氏の、
ヘッドハンティングに応じる、
決断を下すのです。
私は、この判断に、 幸綱氏の、
「 凄み 」、 を感じずにはいられません。
現在に喩えれば、 多くが、
関東管領、という、 大企業にいれば、
「 何とかなる 」、 と思っている中で、
情報収集能力と分析力を駆使して、
経営の危うさを見抜き、
若手社長の率いる、
ライバル企業の一員となって、
自らの志を遂げる……。
権威よりも、 己の考える、 戦略や戦術、
情勢判断を信用したわけですが、
この、 「 したたかさ 」、 は、
幸綱氏以降の真田一族にも、
共通するものです。
そして、 関東管領の上杉氏が、
ほどなくして、 没落し、 武田氏が、
大躍進を遂げたことからも、
幸綱氏の眼力が正しかったことは、
歴史が証明しているでしょう。
そして、 幸綱氏自身も、
武田氏の躍進での立役者の1人でした。
幸綱氏の活躍といえば、
天文 20年 ; ( 1551年 ) 、
の、 砥石城への攻略が挙げられます。
砥石城は、 真田氏への怨敵な、
村上義清氏の拠点であり、
信玄氏でさえ陥とせなかった要害でした。
しかし、 幸綱氏は、
砥石城を独力で攻略してのけ、 信玄氏に、
その功績を讃えられて、 「 悲願 」、の、
旧領の回復を成し遂げます。
幸綱氏の采配ぶりは、 史料からは、
なかなか窺えませんが、いずれの文献も、
「 乗っ取る 」、 という、
表現で記しています。
戦国時代の、「 乗っ取り 」、 といえば、
密かに敵城に近づき、 手引きする、
人間を通じて、 城中に雪崩れ込み、
一気に城を制圧するのが、常套手段でした。
砥石城の戦いは、 真田関係の史料にも、
家臣の戦死の記録が、ほとんどなく、
また、弟・矢沢頼綱氏が、
砥石城内にいたことからも、
幸綱氏の戦いぶりが、 まさに、
それであったことが、窺えます。
派手な陣頭指揮でなく、まさに、
孫子の兵法を地で行く、
「 戦わずして、 勝利をおさめる 」、
のが、 幸綱氏の戦い方であり、
だからこそ、 難攻不落の砥石城を、
攻略できたのでしょう。
かくして、
天正 2年 ; ( 1574年 ) 、に、
この世を去るまで、 幸綱氏は、
武田家を支え続けるのです。
幸綱氏の活躍もあり、 真田氏は、
武田家臣団の中でも、 極めて、
特異な存在となります。
というのも、 外様で、
真田氏ほど取り立てられた一族は、
皆無だからです。
幸綱氏の三男が、 信玄氏の母方の、
大井一族の武藤家に、 養子入りし、
奉行 ; ( 官僚機構を担う一員 ) 、
を務めたのも、 顕著な例といえますが、
この三男・武藤喜兵衛氏こそ、
後の真田安房守昌幸氏でした。
外様で奉行を務めるのは、 前例のない、
「 快挙 」、 でしたが、これは、
幸綱氏の威光のみによるものでは、
ないでしょう。
昌幸氏は、 当初は、 人質として、
信玄氏のもとに送られましたが、
信玄氏の身の回りの世話をする、
奥近習衆に取り立てられて、頭角を現わし、
奉行を任されるに至りました。
信玄氏は、 昌幸氏を、
「 武田の宿老分にしたい 」、 とまで、
語った、 と、 いいますが、
幼いころから、 昌幸氏の将才は、
抜きん出ていたのです。
昌幸氏もまた、父・幸綱氏の智謀を、
色濃く継ぎつつも、 名将・信玄氏から、
薫陶を受け、多くを学びました。
外交、調略、用兵、作戦立案、
軍の編成、実戦指揮……。
昌幸氏にとって、 信玄氏の教えは、
乱世を生き抜く上での、
大きな糧となったことでしょう。
そんな昌幸氏の運命を変えたのが、
幸綱氏が逝去してから、 1年後に勃発した、
天正 3年 ; ( 1575年 ) 、の、
長篠合戦でした。
昌幸氏は、 武藤家の当主として、
参戦していましたが、
真田の家督を継いだ長兄・信綱氏と、
次兄・昌輝氏が、 奮戦の末に戦死。
合戦の後に、図らずも、 昌幸氏が、
真田の家を継ぐことになったのです。
真田の当主となった昌幸氏は、
武田勝頼氏から、 上野への、
侵攻戦での指揮を一手に任された事もあり、
本領と甲府との行き来で、
多忙な日々を送るなど、求められる、
役割も、変化しました。
以降は、 武田家を支える柱石として、
遺憾なく、才能を発揮した昌幸氏でしたが、
織田信長氏の侵攻を受けて、
天正 ➕年 ; ( 1582年 ) 、
武田家は、滅亡❗ 。
そして、 その、半年ほど後の、
本能寺の変での、 信長氏の横死を受けて、
惹起したのが、 天正壬午の乱です。
旧武田領をめぐり、 北条氏直、
徳川家康、上杉景勝氏が、
三つ巴の争奪戦を始め、
甲斐・信濃は、 弱肉強食の時代に、
逆戻りしました。
主家を失った、信濃の小勢力に過ぎない、
真田氏は、その立場を、
大いに脅かされることとなります。
昌幸氏は、 しかし、幸綱氏が、
塗炭の苦しみを経て奪還した、
真田領への死守は、 もとより、
独立大名の座を勝ち取るべく、
北条、徳川、上杉と、
渡り合っていきました。
その手並みは、 戦国史上でも、
類を見ないほどの鮮やかさです。
当初は、 昌幸氏は、上杉に従属しますが、
北条軍の信濃への侵攻を目前に、
北条に鞍替え。
ただし、昌幸氏は、 この時に、
その弟な、 真田昌春氏は、 そのまま、
上杉に仕えさせています。
このあたり、真田ならではの、
巧みさでしょう。
その後に、 上杉と北条は、
川中島で睨み合い、やがて、
氏直氏は、 徳川の侵攻に対応すべく、
甲斐に転進しますが、 昌幸氏は、
氏直氏に、 「 自分が、 本領に残留して、
上杉の追撃を食い止める 」、 と進言、
氏直氏も、
「 土地鑑のある真田に任せれば、 安心 」
、と、 怪しむことなく容れました。
しかし、 実は、 昌幸氏は、 上杉が、
新発田重家氏の存在があるために、
南下できない、 と、 読み、 この機に、
北条と、 自然な形で距離を置こう、
と、 考えたのです。
結果にて、 昌幸氏は、
北条軍から切り離され、
フリーハンドの立ち位置を得るのですが、
これが、 独立への、
大きな変わり目でした。
その後に、 昌幸裏は、 北条から、
徳川へ鞍替えし、さらには、
徳川とも、手を切ります。
いよいよ、 独立への総仕上げに、
かかったわけですが、 家康氏が、
放っておくはずが、ありません。
8千の兵で、 2千人が拠る、
昌幸氏の居城な、上田城へ攻め寄せました。
第1次上田合戦 ;
( 神川合戦 ) 、 です。
上田合戦についても、
史料の乏しさが指摘されますが、
昌幸氏が、 徳川軍を挑発して、
城を攻めさせ、 伏兵で、 散々に叩き、
神川へ追い落とす―― という、
『 三河物語 』、 の記述は、
正しいようです。
昌幸氏の嫡男な、信幸氏が、
側面から攻撃して、
徳川勢を混乱に陥れたのも、
他の史料から窺えるので、
史実でしょう。
次男の信繁氏に関しては、
上田合戦に参戦していない、
とも、 いわれますが、 私は、
可能性は、ゼロではない、
と、 考えています。
いずれにせよ、天正壬午の乱から、
上田合戦までの昌幸氏の活躍ぶりは、
幸綱氏、や、 信玄氏から学んだ、
軍略の集大成であった、
と、 いえるでしょうし、 それによって、
「 独立大名 」、 としての、
地位を固めるとともに、
真田の名を全国に轟かせたのです。
幸綱氏と昌幸氏を比べると、
2人の違いも見えてきます。
幸綱氏は、 信玄氏個人から、
非常に信頼されながらも、 一匹狼的に、
武田軍団の中で、 活躍しました。
一方の昌幸氏は、
武田の重臣の末端に、 初めから、
位置づけられて、成長していきます。
幸綱氏が、 調略を用いて、 1人で、
敵を切り崩すのを得意としたのに対して、
昌幸氏は、 軍事指揮官でもあるので、
自ら、 軍勢を動かしつつ、
領土を制圧しました。
この違いは、2人のバックグラウンドが、
影響しているのでしょう。
しかし、根本の部分に注目すると、
真田一族の芯が、見えてきます。
常識に囚われず、大勢に流されず、
かつ、 情にも流されない。
この3つを1つの原則としつつ、
即断即決で動く。
もちろん、 即断即決が、 拙速となり、
事態が不利に転じる可能性もあります。
しかし、 真田一族は、
「 情報 」、 を重んじていたために、
即断ながら、 過つことは、稀でした。
また、たとえ、不利に転じたとしても、
次の手をすぐに打つことで、
事態を好転させる――それが、
真田の流儀だった、と、いえるでしょう。
翻って、現代は、
「 先行き不透明 」 、と、 いわれて、
久しいですが、 その点は、
戦国時代と同様です。
そんな時代だからこそ、
戦国乱世を最も鮮やかに、かつ、
ダイナミックに、
智略ひとつで、 生き抜いた、
真田幸綱・昌幸父子の姿から、
私たちは、 学ぶべきものが、
多いのではないでしょうか。
《 PHP文庫 ; 『 大いなる謎
真田一族 』、より 》 ;
@ 幸綱氏が張り巡らせた、
調略のための情報網❗ ;
真田幸綱氏が、 抜群の功績をあげ得た、
のは、 彼の調略が、 実に、
うまくいったからです。
幸綱氏な自らの才覚が秀でていた、
ことは、 間違いないでしょう。
しかし、 それだけではなく、
彼が培っていた人脈による、
ところが、 大きいのではないでしょうか。
では、 その人脈は、 いかにして、
形成されたか、 といえば、 やはり、
滋野氏族、 という、 括りで考えるのが、
一番でしょう。
真田氏は、 滋野氏族の一員であり、
滋野氏族は、 先にも紹介したように、
信濃、上野の両国に、 広く分布し、
繁栄していました。
幸綱氏は、 このコネクションを利用し、
調略の手を伸ばしていった、
と、 みられます。
この同族関係を利用して調略した事例は、
息子・昌幸氏にも引き継がれています。
たとえば、 天正➕年 ( 1582年 )、
の、 6月。 本能寺の変の直後に、
越後の上杉景勝氏は、
川中島地方を制圧し、
真田昌幸氏を従属させました。
さらに、 上杉氏は、 別働隊を編制し、
越後に匿っていた、 小笠原洞雪斎玄也
( 貞種 ) 、 氏を押し立てて、
深志城への攻略を実施させます。
この時に、 上杉氏は、 川中島から、
深志へ抜ける、 北国街道沿いの要衝な、
青柳・麻績 〈 おみ 〉 城を支配する、
青柳頼長氏や、 会田海野氏、への、
調略を行いました。
彼らが、 味方にならなければ、
深志への侵攻などは、到底に、
不可能だったからです。
この重要な役目を担ったのが、
真田昌幸氏であり、 会田に海野氏らは、
同じ滋野氏族なので、説得が容易だった、
と、 伝えられます ;
『 箕輪記 』、 『 信府統記 』。
各所に、 味方を埋伏させていた幸綱氏は、
敵方の調略を察知することにも、
しばしば、 成功していました。
代表的な事例は、 上野国の安中城主な、
安中越前入道 ( 重繁氏 )の、
謀叛未遂事件です。
これは、 永禄 7年 ( 1564年 ) 、の、
11月に起きたもので、 結局は、
不発に終わるのですが、
幸綱氏の諜報網によって発覚しています。
当時は、 幸綱氏は、
武田信玄氏の命令により、
倉賀野城に在り、 安中城主が、
上杉謙信氏の調略に応じ、
碓氷峠の関門である、
松井田城を乗っ取ろうとしている、
との、 情報を掴みました。
幸綱氏は、ただちに、 信玄氏に報告し、
驚いた信玄氏は、 松井田城に在った、
その重臣な、小山田虎満氏へ宛てて、
永禄7年11月8日付で、
密書を送っています。
残念なことに、一部が欠損していて、
その全貌は、 把握できませんが、
書状の内容を紹介しましょう。
当時は、 甲府の信玄氏のもとに、
小山田虎満氏の息子な、藤四郎
( 後の小山田備中守昌成 ) 、 氏がいて、
信玄氏は、 彼に、 その父な、
虎満氏宛の密書を託し、届けさせました。
その手紙で、 信玄氏は、
「 真田幸綱から届いた密書により、
上野衆・安中越前入道が、秘かに、
上杉謙信に内通しており、
松井田城への乗っ取りを企んでいる、
とのことだ。 だが、
確実な証拠を掴んでいる訳ではないので、
決して、 表情には出さず、
内心の用心が、大事だ。 詳しくは、
藤四郎に言い含めておいたので、
よく聞くように 」 、
と、 述べています。
情報を掴んでいた武田方の、
厳重な警戒のため、 安中越前入道は、
謀叛を諦めたようであり、 彼は、
その後も、武田氏に忠節を尽くしています。
このように、 幸綱氏は、
上野に在陣しながら、 上杉方の、
動向と情報らを収集しており、
その過程で掴んだ情報は、 逐一に、
信玄氏に報告され、不測の事態を防ぐ、
ことに、繋げ得てもいたわけです。
幸綱氏が張り巡らせた、
調略のための情報網は、
敵方から伸びる謀略を防ぐ、
役割をも担っていた、 といっても、
過言ではないのです。
☆ Wikipedia ➕ ;
1582年、 な、 天正 ➕年 、の、
3月に、 織田信長氏が行った、
甲州への征伐により、 武田氏は、 滅亡❗。
甲斐から、 信濃、と、上野に及んだ、
武田の遺領は、 織田家の臣 オミ 、
らへ分与され、 武田の旧臣の、
信濃の国人衆らは、 織田政権に臣従した。
同い年の6月に、 京都で、
1585 ; 一期 イチゴ 、 を、
半分 ; 、 にされる形で、
織田信長氏が、 横死 ;
( 本能寺の変❗ ) 、 し、
織田家と友好な関係性を成していた、
北条家が、 北条氏直氏の率いる、
5万6千の兵で、
織田領な、上野 コウヅケ 、に侵攻し、
織田政権の関東管領と目される、
滝川一益氏の率いる、 2万を、
神流 カンナ 川の戦いで、 撃破し、
滝川一益氏は、 その本拠地の、
伊勢まで敗走する❗ 。
これに前後して、 甲斐の河尻秀隆氏が、
一揆により、 討ち死にし❗ 、
北信濃の森長可氏も、 その旧領の、
美濃に撤退し、 南信濃の、
毛利秀頼氏も、 尾張へと撤退すると、
織田領な、 信濃、甲斐、上野が、
一気に、 空白状態となり、
越後の上杉景勝氏や、
相模の北条氏直氏、と、
三河の徳川家康氏、 などの、
近隣の勢力らが侵攻し、
旧織田領を巡る、 天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した、 徳川家康氏が、
南信濃へ、 上杉氏は、北信濃へ、
北条氏は、 上野国から、 碓氷峠を越えて、
東信濃へと侵攻した。
このとき、 東信濃から西上野に、
勢力を保っていた、 真田昌幸氏は、
北条方に属していたが、
徳川方の、 依田氏の工作により、
離反する。
➕月には、 徳川と北条との間で、
和睦が成るが、 その条件として、
徳川の傘下となっていた、
真田氏の上野の沼田領と、
北条氏が制圧した、 信濃の、
佐久郡とを交換することとした。
翌る、 天正 11年 ; 1583年 、
から、 昌幸氏は、
上田城へ構築に着手しており、
沼田領や吾妻領を巡り、
北条氏と争っていた。
1585年な、 天正 13年 、には、
家康氏が、 甲斐へ着陣して、
昌幸氏へ、 沼田領の、 北条氏への、
引き渡しを求めるが、 昌幸氏は、
徳川氏から与えられた領地では、ない❗ 、
ことを理由にして、 拒否し、 さらに、
その敵対関係にあった、 上杉氏と通じた。
同い年の7月に、 浜松に帰還した、
家康氏は、 真田氏の造反を知ると、
八月に、 真田への討伐を起こし、
家臣の鳥居元忠、大久保忠世、
平岩親吉氏らな、 約 7千の兵を、
真田氏の本拠な、上田城に派遣する。
徳川軍は、 甲斐から、 諏訪道を、
北国街道に進み、 上田盆地の、
信濃の、 国分寺の付近に、 兵を展開。
これに対して、 真田方は、
約 千2百人であった、 と言われ、
昌幸氏は、 上田城に、
その長男な、 真田信幸氏は、
その支城な、戸石城にこもった。
また、 支城の矢沢城には、
昌幸氏への従兄弟な、 矢沢頼康氏が、
上杉の援兵と共に、 こもった。
閏 ウルウ 8月2日に、
上田城に攻め寄せた、 徳川方は、
二の丸まで進むが、 ここで反撃を受け、
撃退される。
更に、 後退の際に、 城方の追撃を受け、
戸石城の信幸氏らも、 横合いから、
徳川勢を攻めるに及び、 ついに、壊乱し、
追撃戦には、
矢沢勢も加わり、 神川で、
多くの将兵らが、 溺死した❗ 。
この真田方の地の利を活かした、
戦法により、 徳川軍は、
千3百人もの、 戦死者を出した❗ 、
と言われる。
一方で、 真田軍は、
40人ほどの犠牲ですんだ。
翌る日に、 徳川方は、 近隣の小豪族で、
真田氏に味方した丸子氏 ;
( その後に、 真田氏へ臣従 ) 、
の篭る、 丸子城を攻めるが、
これも、 要害と、
頑強な抵抗性に阻まれ、 攻略できず、
以後は、 20日間程を、 対陣を続ける ;
( 丸子表の戦い❗ ) 。
この間に、 上杉勢の援軍との、
小競り合いや、 更なる増援の報に接し、
家康氏は、 援軍 ;
( 井伊直政氏 ; その一部の隊は、
当初より、 参陣 )、
大須賀康高氏、 松平康重氏の、 5千 ) 、
を出すと共に、 一時撤退を下令、
これを受け、 徳川軍は、 28日に、
上田より撤退した。
その後も、 大久保忠世氏らな、 諸将は、
小諸城に留まり、 真田勢と、
小競り合いを繰り返すも、 11月には、
徳川への、 譜代の重臣な、
石川数正氏が、 豊臣家に出奔する、
事態に至り、 完全に、 撤退する。
合戦の記録は、 真田家の、
『 真田軍記 』、 のほかに、
徳川方の、 『 三河物語 』、 にも、
記されている。
この戦いで、 昌幸氏は、
優れた智謀の主である、
と、 評されることとなる。
また、 この合戦によって、
徳川家康氏の、 真田氏に対する、
評価は、高まり❗、 結果として、
本多忠勝氏の娘である小松姫を、
真田信之氏へ嫁がせて、
懐柔する、 きっかけ、ともなった。
真田氏は、 その後に、
豊臣政権に臣従しており、
上田合戦に至るまでの、
諸勢力との外交や、 数ヶ郡を支配する、
勢力の拡大は、 真田氏が、
小領主から、 大名化していく、
過程な事らである、
と、 指摘される。
上田市立博物館には、
神川合戦の合戦図が、所蔵されている。
なお、この上田合戦に連動して、
1583年、 な、 天正 13年 、 の、
9月から、 ・・86年、 な、
天正 14年 、の、 5月までの間に、
沼田城にも、 北条氏が、 数回に渡って、
攻撃を仕掛けていたが、
昌幸氏への叔父にあたる、 城代、な、
矢沢頼綱氏 ; ( 矢沢頼康氏の父 ) 、
が、 撃退に成功している。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
「放漫財政安倍政権」という藁人形❗
2019-12-21 8:49:00
三橋貴明オフィシャルブログ
「新世紀のビッグブラザーへ blog」
チャンネルAJER
『安倍内閣は「最悪の政府 三冠王」(前半)』三橋貴明 AJER2019.12.17
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https://youtu.be/RTvKPvw1GuA
本日は、冬季シンポジウム「令和の政策ピボットは実現可能なのか?」開催日です。
ご参加頂く皆様、よろしくお願いいたします。
さて、実際には緊縮財政の安倍政権が、財務省配下のメディアにより「放漫財政」という印象をつけられる。結果、次の政権が、
「安倍政権は放漫財政だったが、我々は違う。政府の無駄を削ります!」
と叫び、国民の喝さいを浴び、さらなる緊縮財政が進む。財務省は、間違いなくこのストーリーを描いています。
各マスコミの見出しを見てみましょう。
『(NHK)歳出膨張 来年度予算案 総額102兆円超 きょう決定』
『(共同通信)来年度予算102兆6580億円 看板政策の社会保障費が膨張』
『(日経)景気・防災 膨らむ財政 来年度予算案 歳出102兆円超』
『(日経社説)[社説]財政の持続性に不安残す来年度予算案』
『(毎日社説)過去最大の102兆円予算 「身の丈」に合わぬ放漫さ』
凄いですね。膨張。膨らむ。持続性に不安。放漫。見事なまでのテンプレ、乙! という感じでございます。
情けないのは、安倍政権が本当に財政を拡大しているならば、
「いや、安倍政権の財政拡大はデフレ脱却のために必要なのだ。断じて、放漫財政とやらではない! というか、放漫とか膨張とか持続性とか、定義を示せ!」
と、議論できるのですが、実際には安倍政権は緊縮財政。
日本の現在の予算が増えるのは、高齢化で社会保障支出が増える以上、当たり前なのです。
というわけで、PB黒字化目標があるため、
1.社会保障支出の増加は可能な限り抑える
2.社会保障以外の支出は削減する
3.増税及び社会保障費の負担増を進める
という三本柱になっています。
そもそも、「放漫財政」の政府が、新規国債発行を抑制するはずがないでしょうに・・・。
【日本の新規国債発行(当初予算・実績)の推移(億円)】
http://mtdata.jp/data_67.html#sihiki
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※2月15日まで、竹村公太郎先生の「日本文明の誕生~神話から歴史へ~」がご視聴頂けます。
もっとも、プロパガンダとはこんなものです。
「財政を拡大している放漫財政の安倍政権」
という藁人形をでっちあげ、それを「攻撃」「批判」することで、放漫財政安倍政権という印象を国民に刷り込み、「次なる緊縮財政」につなげる。
もっとも、藁人形プロパガンダを展開されている安倍政権にしても、そもそも緊縮財政という間違った政策を採っています。藁人形プロパガンダを展開する財務省・マスコミも、安倍政権も、どっちも「悪」という最悪の状況にあるわけです。
さて、この何重にも歪んだ状況を何とかするには、どうしたらいいのでしょうか。
とりあえず、国民にできるのは「政治」を動かすこと以外にはありません。つまりは、問題の本質を「政治家」に知らしめる必要があるわけです。
さもなければ、例えば自民党が再び下野したとして、若手の自民党国会議員たちが、
「我々は、今の与党よりもムダの削減を実現します!」
と、自己陶酔して叫ぶバカになるという、2010年と同じ光景が繰り返されることになってしまいます。
無論、理解している政治家もいます。
というわけで、本日は理解している代表的な政治家である安藤裕衆議院議員、西田昌司参議院議員をお招きし、令和の政策ピボットの大シンポジウム(&懇親会)を開催するのでございます。
プロパガンダに打ち勝つには、正しいことをひたすら繰り返す以外に方法はありません。
「正しいことを繰り返そう!」に、ご賛同下さる方は↓このリンクをクリックを!
☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。
日本人たちには、核武装❗、と、地下避難網ら❗、が、より、日本の内外に、本格的な平和性らを成し付け得てゆく上でも、必要❗。
この事らを、 より、 日本人たちへ、
伝える措置を自ら成さない、 者らは、
より、 反日員としての、
負の度合いを、 自らへ宛てて、
観積もらせる、 筋合いを余計に成し、
より、 伝える措置を自ら成す主らは、
より、日本人たちの一般の、
足しに成り得る向きに、 働き得た主として、
正の向きの度合いを、 自らへ宛てて、
観積もらせる、 筋合いを成す。
差し引きで、 より、
どちら側であるかの、度合いを観積もられ、
その度合いらに相応しい処遇を、
宛てられるべき立場にも、
誰もが、ある。
歴史拾遺 ヒロイ ;
☆ 真田幸隆氏と昌幸氏~ ;
「 智謀 」で、 戦国に挑んだ父子❗ ;
『 歴史街道 』 2015年10月号 ;
[ 総力特集:真田幸隆と昌幸 ]より転載。
2015年 9月30日 公開 ;
平山優氏 ( 歴史家・大河ドラマ ;
「 真田丸 」 、 では、 時代考証 ) ;
真田氏の居城・上田城 ;
2016年の大河ドラマ ; 「 真田丸 」。
主人公の真田信繁氏 ( 幸村 )、は、
戦国随一の人気を誇る武将だが、
彼の祖父と父もまた、
上杉謙信氏や武田信玄氏が、
一目を置く武将であった。
真田幸隆氏と、昌幸氏。
この父子を抜きにして、
信繁氏を語ることはできない。
真田信繁 氏( 幸村 ) 、をはじめとする、
戦国時代の信州真田氏といえば、
綺羅星の如く居並ぶ戦国武将の中でも、
1、2を争う人気を誇ります。
しかし、その一方で、
「 真田の活躍の多くは、
『 伝説 』、 に過ぎず、
過大評価されているのではないか 」、
という、 声を耳にすることも、
少なくありません。
しかし、 私は、 2つの点で、
そうした論調とは、
異なる考えを抱いています。
まず、 真田氏の活躍は、
「 伝説 」、 に拠るところが、多い、
と、 捉えられがちですが、 彼らは、
決して、 史料に乏しい、
一族では、ありません。
真田氏は、独立大名となる前は、
数カ村単位で、 地域を支配する、
「 国衆 」、 と呼ばれる存在でした。
実は、 戦国の国衆の中で、
圧倒的に、史料が残っているのが、
真田氏であり、 むしろ、
「 恵まれている 」 、 と、 言えます。
後述しますが、 それは、
信繁氏の祖父と父にあたる、
真田幸綱氏 ( 幸隆 )・昌幸氏、な、
父子が、 武田信玄氏・勝頼氏、への、
右腕として活躍したことと、
無関係ではないでしょう。
そして、 もう1つ、 真田氏に対する、
評価は、 決して、
「 過大 」、 では、ありません。
かく言う、私も、 当初は、
実力・実績以上の評価を受けている、
意目侍を抱いていました。
しかし、 研究を進める過程で、
たとえば、 昌幸氏が、 いわゆる、
「 天正壬午の乱 」、 で、
北条氏、徳川氏、上杉氏、 という、
錚々たる大大名と渡り合った姿に、
一次史料で、 触れ、過大評価どころか、
むしろ、 過小に評価されているのでは、
ないか……。 そう、 考えるようにすら、
なりました。
ゼロから出発しながらも、
智謀を武器に、 戦国の荒波を潜り抜け、
これほど、 ドラマティックに、
乱世を歩んだ一族は、
真田氏を置いて、 他に存在しません。
そして、 最初の一歩を踏み出し、
文字通り、 真田の躍進への礎を築いたのが、
幸綱氏であり、 その跡を継ぎ、
独立大名としての地位を築いたのが、
昌幸氏でした。
真田氏の中では、 昌幸氏の息子で、
来年の大河ドラマの主役でもある、
信繁氏にばかり、目を向けられがちですが、
その祖父と父の存在に触れずして、
信繁氏を語ることは、できません――。
戦国以前の真田氏については、
その発祥は、 上野 コウヅケ の国 ;
( 群馬県 ) 、 である、 という説が、
一部から提起されるなど、今も、
多くの謎に包まれています。
清和天皇の子孫を称する、
名族、な、滋野一族の、
海野氏の嫡流、 ともされますが、
近年の研究では、 完全なる脚色、
と、 考えられています。
恐らくは、 真田氏が自称したのでしょうが、
これは、 滋野姓海野氏を名乗ることが、
豪族を束ねる上で、 効果的であったからで、
当時においては、
珍しいことでは、ありません。
そんな一族が、
歴史の表舞台に登場したのが、
真田弾正忠幸綱氏の代でした。
幸綱氏の誕生は、 永正➕年 ;
( 1513年 ) 、 ですが、
諱 イミナ ( 実名 )、 が、
よく、 問題にされます。
幸綱氏は、 一般的には、 「 幸隆 」、
の名で、知られます。
確かに、 江戸幕府が編纂し、
幸綱氏の孫な、信之氏が健在の時代に、
成立した、 『 寛永 諸家系図伝 』、にも、
「 幸隆 」、 と、記録されています。
しかし、 一次史料を追うと、
壮年期まで、 「 幸隆 」、 と、
記されたものは、 皆無です。
様々な史料を照らし合わせれば、
幸綱氏は、 出家を契機として、
「 幸隆 」、 に改名した、
と、考えるのが、 自然であり、
ならば、 読み方は、
「 こうりゅう 」、 ではないか……。
以上が、 現時点での私の考えです。
信州小県、の、真田郷を本拠としていた、
幸綱氏ですが、 大きな転機が、
天文➕年 ; ( 1541年 )、の、
海野平合戦でした。
幸綱氏は、 村上義清・武田信虎氏らの、
連合軍に敗れ、 故郷を追われます。
幸綱氏と村上義清氏は、 以前より、
小競り合いを繰り返していましたが、
その上で、 武田氏まで加われば、
多勢に無勢、 幸綱氏は、
上州への亡命を余儀なくされました。
「 必ずや、故郷を取り返す」 。
幸綱氏は、 心中で、 断乎たる、
決意を固めたことでしょう。
この時、幸綱氏とともに落ち延びたのが、
縁戚関係にあった、 ともいう、
海野氏の宗家な、海野棟綱氏の一族で、
彼らの多くは、 関東管領、な、
上杉憲政氏を頼りました。
関東管領といえば、 当時は、
トップブランドであり、 誰もが、
「 寄らば、大樹の陰 」、と、
考えたわけです。
しかし、 幸綱氏は、 異なりました。
真田関係の軍記物 ; 『 加沢記 』
、 によれば、 幸綱氏は、
「 信州で仄聞していたが、
憲政氏が、 うつけたる大将だ、
というのは、 間違いない。 いかに、
関東管領の高位にあるとはいえ、
あまりにも、 事々しい。 上杉家は、
将来が危うく見える 」
、と、 冷静に分析し、
「 恃みにならぬ、 上杉についても、
我らの旧領の回復には、
何の足しにもならない 」、 と、
早々に見切るのです。
そして――幸綱氏が、 最終的に、
身を寄せたのが、 甲斐の武田晴信氏 ;
( 信玄 )、 でした。
幸綱氏にとって、 武田氏は、
信虎氏の代に、 村上義清氏とともに、
自分たちを真田郷から追い払った、
仇敵に他なりません。
しかし、 幸綱氏は、
信虎氏を家中から放逐した信玄氏が、
上杉氏を上回る勢力をもつこと、また、
真田郷を占拠する村上義清氏と、
対立関係に入った、 との、情報を入手し、
幸綱氏を求める武田氏の、
ヘッドハンティングに応じる、
決断を下すのです。
私は、この判断に、 幸綱氏の、
「 凄み 」、 を感じずにはいられません。
現在に喩えれば、 多くが、
関東管領、という、 大企業にいれば、
「 何とかなる 」、 と思っている中で、
情報収集能力と分析力を駆使して、
経営の危うさを見抜き、
若手社長の率いる、
ライバル企業の一員となって、
自らの志を遂げる……。
権威よりも、 己の考える、 戦略や戦術、
情勢判断を信用したわけですが、
この、 「 したたかさ 」、 は、
幸綱氏以降の真田一族にも、
共通するものです。
そして、 関東管領の上杉氏が、
ほどなくして、 没落し、 武田氏が、
大躍進を遂げたことからも、
幸綱氏の眼力が正しかったことは、
歴史が証明しているでしょう。
そして、 幸綱氏自身も、
武田氏の躍進での立役者の1人でした。
幸綱氏の活躍といえば、
天文 20年 ; ( 1551年 ) 、
の、 砥石城への攻略が挙げられます。
砥石城は、 真田氏への怨敵な、
村上義清氏の拠点であり、
信玄氏でさえ陥とせなかった要害でした。
しかし、 幸綱氏は、
砥石城を独力で攻略してのけ、 信玄氏に、
その功績を讃えられて、 「 悲願 」、の、
旧領の回復を成し遂げます。
幸綱氏の采配ぶりは、 史料からは、
なかなか窺えませんが、いずれの文献も、
「 乗っ取る 」、 という、
表現で記しています。
戦国時代の、「 乗っ取り 」、 といえば、
密かに敵城に近づき、 手引きする、
人間を通じて、 城中に雪崩れ込み、
一気に城を制圧するのが、常套手段でした。
砥石城の戦いは、 真田関係の史料にも、
家臣の戦死の記録が、ほとんどなく、
また、弟・矢沢頼綱氏が、
砥石城内にいたことからも、
幸綱氏の戦いぶりが、 まさに、
それであったことが、窺えます。
派手な陣頭指揮でなく、まさに、
孫子の兵法を地で行く、
「 戦わずして、 勝利をおさめる 」、
のが、 幸綱氏の戦い方であり、
だからこそ、 難攻不落の砥石城を、
攻略できたのでしょう。
かくして、
天正 2年 ; ( 1574年 ) 、に、
この世を去るまで、 幸綱氏は、
武田家を支え続けるのです。
幸綱氏の活躍もあり、 真田氏は、
武田家臣団の中でも、 極めて、
特異な存在となります。
というのも、 外様で、
真田氏ほど取り立てられた一族は、
皆無だからです。
幸綱氏の三男が、 信玄氏の母方の、
大井一族の武藤家に、 養子入りし、
奉行 ; ( 官僚機構を担う一員 ) 、
を務めたのも、 顕著な例といえますが、
この三男・武藤喜兵衛氏こそ、
後の真田安房守昌幸氏でした。
外様で奉行を務めるのは、 前例のない、
「 快挙 」、 でしたが、これは、
幸綱氏の威光のみによるものでは、
ないでしょう。
昌幸氏は、 当初は、 人質として、
信玄氏のもとに送られましたが、
信玄氏の身の回りの世話をする、
奥近習衆に取り立てられて、頭角を現わし、
奉行を任されるに至りました。
信玄氏は、 昌幸氏を、
「 武田の宿老分にしたい 」、 とまで、
語った、 と、 いいますが、
幼いころから、 昌幸氏の将才は、
抜きん出ていたのです。
昌幸氏もまた、父・幸綱氏の智謀を、
色濃く継ぎつつも、 名将・信玄氏から、
薫陶を受け、多くを学びました。
外交、調略、用兵、作戦立案、
軍の編成、実戦指揮……。
昌幸氏にとって、 信玄氏の教えは、
乱世を生き抜く上での、
大きな糧となったことでしょう。
そんな昌幸氏の運命を変えたのが、
幸綱氏が逝去してから、 1年後に勃発した、
天正 3年 ; ( 1575年 ) 、の、
長篠合戦でした。
昌幸氏は、 武藤家の当主として、
参戦していましたが、
真田の家督を継いだ長兄・信綱氏と、
次兄・昌輝氏が、 奮戦の末に戦死。
合戦の後に、図らずも、 昌幸氏が、
真田の家を継ぐことになったのです。
真田の当主となった昌幸氏は、
武田勝頼氏から、 上野への、
侵攻戦での指揮を一手に任された事もあり、
本領と甲府との行き来で、
多忙な日々を送るなど、求められる、
役割も、変化しました。
以降は、 武田家を支える柱石として、
遺憾なく、才能を発揮した昌幸氏でしたが、
織田信長氏の侵攻を受けて、
天正 ➕年 ; ( 1582年 ) 、
武田家は、滅亡❗ 。
そして、 その、半年ほど後の、
本能寺の変での、 信長氏の横死を受けて、
惹起したのが、 天正壬午の乱です。
旧武田領をめぐり、 北条氏直、
徳川家康、上杉景勝氏が、
三つ巴の争奪戦を始め、
甲斐・信濃は、 弱肉強食の時代に、
逆戻りしました。
主家を失った、信濃の小勢力に過ぎない、
真田氏は、その立場を、
大いに脅かされることとなります。
昌幸氏は、 しかし、幸綱氏が、
塗炭の苦しみを経て奪還した、
真田領への死守は、 もとより、
独立大名の座を勝ち取るべく、
北条、徳川、上杉と、
渡り合っていきました。
その手並みは、 戦国史上でも、
類を見ないほどの鮮やかさです。
当初は、 昌幸氏は、上杉に従属しますが、
北条軍の信濃への侵攻を目前に、
北条に鞍替え。
ただし、昌幸氏は、 この時に、
その弟な、 真田昌春氏は、 そのまま、
上杉に仕えさせています。
このあたり、真田ならではの、
巧みさでしょう。
その後に、 上杉と北条は、
川中島で睨み合い、やがて、
氏直氏は、 徳川の侵攻に対応すべく、
甲斐に転進しますが、 昌幸氏は、
氏直氏に、 「 自分が、 本領に残留して、
上杉の追撃を食い止める 」、 と進言、
氏直氏も、
「 土地鑑のある真田に任せれば、 安心 」
、と、 怪しむことなく容れました。
しかし、 実は、 昌幸氏は、 上杉が、
新発田重家氏の存在があるために、
南下できない、 と、 読み、 この機に、
北条と、 自然な形で距離を置こう、
と、 考えたのです。
結果にて、 昌幸氏は、
北条軍から切り離され、
フリーハンドの立ち位置を得るのですが、
これが、 独立への、
大きな変わり目でした。
その後に、 昌幸裏は、 北条から、
徳川へ鞍替えし、さらには、
徳川とも、手を切ります。
いよいよ、 独立への総仕上げに、
かかったわけですが、 家康氏が、
放っておくはずが、ありません。
8千の兵で、 2千人が拠る、
昌幸氏の居城な、上田城へ攻め寄せました。
第1次上田合戦 ;
( 神川合戦 ) 、 です。
上田合戦についても、
史料の乏しさが指摘されますが、
昌幸氏が、 徳川軍を挑発して、
城を攻めさせ、 伏兵で、 散々に叩き、
神川へ追い落とす―― という、
『 三河物語 』、 の記述は、
正しいようです。
昌幸氏の嫡男な、信幸氏が、
側面から攻撃して、
徳川勢を混乱に陥れたのも、
他の史料から窺えるので、
史実でしょう。
次男の信繁氏に関しては、
上田合戦に参戦していない、
とも、 いわれますが、 私は、
可能性は、ゼロではない、
と、 考えています。
いずれにせよ、天正壬午の乱から、
上田合戦までの昌幸氏の活躍ぶりは、
幸綱氏、や、 信玄氏から学んだ、
軍略の集大成であった、
と、 いえるでしょうし、 それによって、
「 独立大名 」、 としての、
地位を固めるとともに、
真田の名を全国に轟かせたのです。
幸綱氏と昌幸氏を比べると、
2人の違いも見えてきます。
幸綱氏は、 信玄氏個人から、
非常に信頼されながらも、 一匹狼的に、
武田軍団の中で、 活躍しました。
一方の昌幸氏は、
武田の重臣の末端に、 初めから、
位置づけられて、成長していきます。
幸綱氏が、 調略を用いて、 1人で、
敵を切り崩すのを得意としたのに対して、
昌幸氏は、 軍事指揮官でもあるので、
自ら、 軍勢を動かしつつ、
領土を制圧しました。
この違いは、2人のバックグラウンドが、
影響しているのでしょう。
しかし、根本の部分に注目すると、
真田一族の芯が、見えてきます。
常識に囚われず、大勢に流されず、
かつ、 情にも流されない。
この3つを1つの原則としつつ、
即断即決で動く。
もちろん、 即断即決が、 拙速となり、
事態が不利に転じる可能性もあります。
しかし、 真田一族は、
「 情報 」、 を重んじていたために、
即断ながら、 過つことは、稀でした。
また、たとえ、不利に転じたとしても、
次の手をすぐに打つことで、
事態を好転させる――それが、
真田の流儀だった、と、いえるでしょう。
翻って、現代は、
「 先行き不透明 」 、と、 いわれて、
久しいですが、 その点は、
戦国時代と同様です。
そんな時代だからこそ、
戦国乱世を最も鮮やかに、かつ、
ダイナミックに、
智略ひとつで、 生き抜いた、
真田幸綱・昌幸父子の姿から、
私たちは、 学ぶべきものが、
多いのではないでしょうか。
《 PHP文庫 ; 『 大いなる謎
真田一族 』、より 》 ;
@ 幸綱氏が張り巡らせた、
調略のための情報網❗ ;
真田幸綱氏が、 抜群の功績をあげ得た、
のは、 彼の調略が、 実に、
うまくいったからです。
幸綱氏な自らの才覚が秀でていた、
ことは、 間違いないでしょう。
しかし、 それだけではなく、
彼が培っていた人脈による、
ところが、 大きいのではないでしょうか。
では、 その人脈は、 いかにして、
形成されたか、 といえば、 やはり、
滋野氏族、 という、 括りで考えるのが、
一番でしょう。
真田氏は、 滋野氏族の一員であり、
滋野氏族は、 先にも紹介したように、
信濃、上野の両国に、 広く分布し、
繁栄していました。
幸綱氏は、 このコネクションを利用し、
調略の手を伸ばしていった、
と、 みられます。
この同族関係を利用して調略した事例は、
息子・昌幸氏にも引き継がれています。
たとえば、 天正➕年 ( 1582年 )、
の、 6月。 本能寺の変の直後に、
越後の上杉景勝氏は、
川中島地方を制圧し、
真田昌幸氏を従属させました。
さらに、 上杉氏は、 別働隊を編制し、
越後に匿っていた、 小笠原洞雪斎玄也
( 貞種 ) 、 氏を押し立てて、
深志城への攻略を実施させます。
この時に、 上杉氏は、 川中島から、
深志へ抜ける、 北国街道沿いの要衝な、
青柳・麻績 〈 おみ 〉 城を支配する、
青柳頼長氏や、 会田海野氏、への、
調略を行いました。
彼らが、 味方にならなければ、
深志への侵攻などは、到底に、
不可能だったからです。
この重要な役目を担ったのが、
真田昌幸氏であり、 会田に海野氏らは、
同じ滋野氏族なので、説得が容易だった、
と、 伝えられます ;
『 箕輪記 』、 『 信府統記 』。
各所に、 味方を埋伏させていた幸綱氏は、
敵方の調略を察知することにも、
しばしば、 成功していました。
代表的な事例は、 上野国の安中城主な、
安中越前入道 ( 重繁氏 )の、
謀叛未遂事件です。
これは、 永禄 7年 ( 1564年 ) 、の、
11月に起きたもので、 結局は、
不発に終わるのですが、
幸綱氏の諜報網によって発覚しています。
当時は、 幸綱氏は、
武田信玄氏の命令により、
倉賀野城に在り、 安中城主が、
上杉謙信氏の調略に応じ、
碓氷峠の関門である、
松井田城を乗っ取ろうとしている、
との、 情報を掴みました。
幸綱氏は、ただちに、 信玄氏に報告し、
驚いた信玄氏は、 松井田城に在った、
その重臣な、小山田虎満氏へ宛てて、
永禄7年11月8日付で、
密書を送っています。
残念なことに、一部が欠損していて、
その全貌は、 把握できませんが、
書状の内容を紹介しましょう。
当時は、 甲府の信玄氏のもとに、
小山田虎満氏の息子な、藤四郎
( 後の小山田備中守昌成 ) 、 氏がいて、
信玄氏は、 彼に、 その父な、
虎満氏宛の密書を託し、届けさせました。
その手紙で、 信玄氏は、
「 真田幸綱から届いた密書により、
上野衆・安中越前入道が、秘かに、
上杉謙信に内通しており、
松井田城への乗っ取りを企んでいる、
とのことだ。 だが、
確実な証拠を掴んでいる訳ではないので、
決して、 表情には出さず、
内心の用心が、大事だ。 詳しくは、
藤四郎に言い含めておいたので、
よく聞くように 」 、
と、 述べています。
情報を掴んでいた武田方の、
厳重な警戒のため、 安中越前入道は、
謀叛を諦めたようであり、 彼は、
その後も、武田氏に忠節を尽くしています。
このように、 幸綱氏は、
上野に在陣しながら、 上杉方の、
動向と情報らを収集しており、
その過程で掴んだ情報は、 逐一に、
信玄氏に報告され、不測の事態を防ぐ、
ことに、繋げ得てもいたわけです。
幸綱氏が張り巡らせた、
調略のための情報網は、
敵方から伸びる謀略を防ぐ、
役割をも担っていた、 といっても、
過言ではないのです。
☆ Wikipedia ➕ ;
1582年、 な、 天正 ➕年 、の、
3月に、 織田信長氏が行った、
甲州への征伐により、 武田氏は、 滅亡❗。
甲斐から、 信濃、と、上野に及んだ、
武田の遺領は、 織田家の臣 オミ 、
らへ分与され、 武田の旧臣の、
信濃の国人衆らは、 織田政権に臣従した。
同い年の6月に、 京都で、
1585 ; 一期 イチゴ 、 を、
半分 ; 、 にされる形で、
織田信長氏が、 横死 ;
( 本能寺の変❗ ) 、 し、
織田家と友好な関係性を成していた、
北条家が、 北条氏直氏の率いる、
5万6千の兵で、
織田領な、上野 コウヅケ 、に侵攻し、
織田政権の関東管領と目される、
滝川一益氏の率いる、 2万を、
神流 カンナ 川の戦いで、 撃破し、
滝川一益氏は、 その本拠地の、
伊勢まで敗走する❗ 。
これに前後して、 甲斐の河尻秀隆氏が、
一揆により、 討ち死にし❗ 、
北信濃の森長可氏も、 その旧領の、
美濃に撤退し、 南信濃の、
毛利秀頼氏も、 尾張へと撤退すると、
織田領な、 信濃、甲斐、上野が、
一気に、 空白状態となり、
越後の上杉景勝氏や、
相模の北条氏直氏、と、
三河の徳川家康氏、 などの、
近隣の勢力らが侵攻し、
旧織田領を巡る、 天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した、 徳川家康氏が、
南信濃へ、 上杉氏は、北信濃へ、
北条氏は、 上野国から、 碓氷峠を越えて、
東信濃へと侵攻した。
このとき、 東信濃から西上野に、
勢力を保っていた、 真田昌幸氏は、
北条方に属していたが、
徳川方の、 依田氏の工作により、
離反する。
➕月には、 徳川と北条との間で、
和睦が成るが、 その条件として、
徳川の傘下となっていた、
真田氏の上野の沼田領と、
北条氏が制圧した、 信濃の、
佐久郡とを交換することとした。
翌る、 天正 11年 ; 1583年 、
から、 昌幸氏は、
上田城へ構築に着手しており、
沼田領や吾妻領を巡り、
北条氏と争っていた。
1585年な、 天正 13年 、には、
家康氏が、 甲斐へ着陣して、
昌幸氏へ、 沼田領の、 北条氏への、
引き渡しを求めるが、 昌幸氏は、
徳川氏から与えられた領地では、ない❗ 、
ことを理由にして、 拒否し、 さらに、
その敵対関係にあった、 上杉氏と通じた。
同い年の7月に、 浜松に帰還した、
家康氏は、 真田氏の造反を知ると、
八月に、 真田への討伐を起こし、
家臣の鳥居元忠、大久保忠世、
平岩親吉氏らな、 約 7千の兵を、
真田氏の本拠な、上田城に派遣する。
徳川軍は、 甲斐から、 諏訪道を、
北国街道に進み、 上田盆地の、
信濃の、 国分寺の付近に、 兵を展開。
これに対して、 真田方は、
約 千2百人であった、 と言われ、
昌幸氏は、 上田城に、
その長男な、 真田信幸氏は、
その支城な、戸石城にこもった。
また、 支城の矢沢城には、
昌幸氏への従兄弟な、 矢沢頼康氏が、
上杉の援兵と共に、 こもった。
閏 ウルウ 8月2日に、
上田城に攻め寄せた、 徳川方は、
二の丸まで進むが、 ここで反撃を受け、
撃退される。
更に、 後退の際に、 城方の追撃を受け、
戸石城の信幸氏らも、 横合いから、
徳川勢を攻めるに及び、 ついに、壊乱し、
追撃戦には、
矢沢勢も加わり、 神川で、
多くの将兵らが、 溺死した❗ 。
この真田方の地の利を活かした、
戦法により、 徳川軍は、
千3百人もの、 戦死者を出した❗ 、
と言われる。
一方で、 真田軍は、
40人ほどの犠牲ですんだ。
翌る日に、 徳川方は、 近隣の小豪族で、
真田氏に味方した丸子氏 ;
( その後に、 真田氏へ臣従 ) 、
の篭る、 丸子城を攻めるが、
これも、 要害と、
頑強な抵抗性に阻まれ、 攻略できず、
以後は、 20日間程を、 対陣を続ける ;
( 丸子表の戦い❗ ) 。
この間に、 上杉勢の援軍との、
小競り合いや、 更なる増援の報に接し、
家康氏は、 援軍 ;
( 井伊直政氏 ; その一部の隊は、
当初より、 参陣 )、
大須賀康高氏、 松平康重氏の、 5千 ) 、
を出すと共に、 一時撤退を下令、
これを受け、 徳川軍は、 28日に、
上田より撤退した。
その後も、 大久保忠世氏らな、 諸将は、
小諸城に留まり、 真田勢と、
小競り合いを繰り返すも、 11月には、
徳川への、 譜代の重臣な、
石川数正氏が、 豊臣家に出奔する、
事態に至り、 完全に、 撤退する。
合戦の記録は、 真田家の、
『 真田軍記 』、 のほかに、
徳川方の、 『 三河物語 』、 にも、
記されている。
この戦いで、 昌幸氏は、
優れた智謀の主である、
と、 評されることとなる。
また、 この合戦によって、
徳川家康氏の、 真田氏に対する、
評価は、高まり❗、 結果として、
本多忠勝氏の娘である小松姫を、
真田信之氏へ嫁がせて、
懐柔する、 きっかけ、ともなった。
真田氏は、 その後に、
豊臣政権に臣従しており、
上田合戦に至るまでの、
諸勢力との外交や、 数ヶ郡を支配する、
勢力の拡大は、 真田氏が、
小領主から、 大名化していく、
過程な事らである、
と、 指摘される。
上田市立博物館には、
神川合戦の合戦図が、所蔵されている。
なお、この上田合戦に連動して、
1583年、 な、 天正 13年 、 の、
9月から、 ・・86年、 な、
天正 14年 、の、 5月までの間に、
沼田城にも、 北条氏が、 数回に渡って、
攻撃を仕掛けていたが、
昌幸氏への叔父にあたる、 城代、な、
矢沢頼綱氏 ; ( 矢沢頼康氏の父 ) 、
が、 撃退に成功している。
☆ 三橋貴明氏❗ ;
「放漫財政安倍政権」という藁人形❗
2019-12-21 8:49:00
三橋貴明オフィシャルブログ
「新世紀のビッグブラザーへ blog」
チャンネルAJER
『安倍内閣は「最悪の政府 三冠王」(前半)』三橋貴明 AJER2019.12.17
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本日は、冬季シンポジウム「令和の政策ピボットは実現可能なのか?」開催日です。
ご参加頂く皆様、よろしくお願いいたします。
さて、実際には緊縮財政の安倍政権が、財務省配下のメディアにより「放漫財政」という印象をつけられる。結果、次の政権が、
「安倍政権は放漫財政だったが、我々は違う。政府の無駄を削ります!」
と叫び、国民の喝さいを浴び、さらなる緊縮財政が進む。財務省は、間違いなくこのストーリーを描いています。
各マスコミの見出しを見てみましょう。
『(NHK)歳出膨張 来年度予算案 総額102兆円超 きょう決定』
『(共同通信)来年度予算102兆6580億円 看板政策の社会保障費が膨張』
『(日経)景気・防災 膨らむ財政 来年度予算案 歳出102兆円超』
『(日経社説)[社説]財政の持続性に不安残す来年度予算案』
『(毎日社説)過去最大の102兆円予算 「身の丈」に合わぬ放漫さ』
凄いですね。膨張。膨らむ。持続性に不安。放漫。見事なまでのテンプレ、乙! という感じでございます。
情けないのは、安倍政権が本当に財政を拡大しているならば、
「いや、安倍政権の財政拡大はデフレ脱却のために必要なのだ。断じて、放漫財政とやらではない! というか、放漫とか膨張とか持続性とか、定義を示せ!」
と、議論できるのですが、実際には安倍政権は緊縮財政。
日本の現在の予算が増えるのは、高齢化で社会保障支出が増える以上、当たり前なのです。
というわけで、PB黒字化目標があるため、
1.社会保障支出の増加は可能な限り抑える
2.社会保障以外の支出は削減する
3.増税及び社会保障費の負担増を進める
という三本柱になっています。
そもそも、「放漫財政」の政府が、新規国債発行を抑制するはずがないでしょうに・・・。
【日本の新規国債発行(当初予算・実績)の推移(億円)】
http://mtdata.jp/data_67.html#sihiki
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※2月15日まで、竹村公太郎先生の「日本文明の誕生~神話から歴史へ~」がご視聴頂けます。
もっとも、プロパガンダとはこんなものです。
「財政を拡大している放漫財政の安倍政権」
という藁人形をでっちあげ、それを「攻撃」「批判」することで、放漫財政安倍政権という印象を国民に刷り込み、「次なる緊縮財政」につなげる。
もっとも、藁人形プロパガンダを展開されている安倍政権にしても、そもそも緊縮財政という間違った政策を採っています。藁人形プロパガンダを展開する財務省・マスコミも、安倍政権も、どっちも「悪」という最悪の状況にあるわけです。
さて、この何重にも歪んだ状況を何とかするには、どうしたらいいのでしょうか。
とりあえず、国民にできるのは「政治」を動かすこと以外にはありません。つまりは、問題の本質を「政治家」に知らしめる必要があるわけです。
さもなければ、例えば自民党が再び下野したとして、若手の自民党国会議員たちが、
「我々は、今の与党よりもムダの削減を実現します!」
と、自己陶酔して叫ぶバカになるという、2010年と同じ光景が繰り返されることになってしまいます。
無論、理解している政治家もいます。
というわけで、本日は理解している代表的な政治家である安藤裕衆議院議員、西田昌司参議院議員をお招きし、令和の政策ピボットの大シンポジウム(&懇親会)を開催するのでございます。
プロパガンダに打ち勝つには、正しいことをひたすら繰り返す以外に方法はありません。
「正しいことを繰り返そう!」に、ご賛同下さる方は↓このリンクをクリックを!
☆ ガン細胞たちは、
ブドウ糖だけ、 を、
唯一の、主な、栄養分としてあり、
糖質を制限する事を含む、
ビタミン・ケトン療法は、
ガン細胞たちを兵糧攻めにする事でも、
ガン、の、あり得る度合を減らす事になる。
タンパク質たち、と、
ビタミン、たち、に、
ミネラル 、たち、を、 完全以上に、
飲み食いなどして、 摂取し続ける、 事が、
一部の人々を除いた、
ほとんどの人々の健康性を成し続ける、
代謝ら、を、
完全以上に、 成し続ける事に、 必要であり、
これら、を、 より、 欠いてしまう事は、
万病を引き起こす、 可能的な度合ら、を、
より、 余計に、 成す事を意味する。
☆ Cancer cells
Only glucose,
As the only main nutrient,
Including restricting carbohydrates,
Vitamin / ketone therapy
Even if
you make cancer cells attack soldiers,
This will reduce
the possible degree of cancer.
With proteins,
Vitamins,
Minerals, more than complete,
Drink and eat, keep taking,
Excluding some people,
Keeps the health of most people,
Metabolism,
It ’s necessary to continue
to do more than perfect,
The more you miss these things,
Cause all kinds of illness,
possible degree,
More than that, it means to do it.
☆ いずれにせよ、
日本人たちは、 より早くに、
日本人たちの足元の、 地下へ、
より、 どこからでも、
より、 速やかに、 落ちついて、
歩み降りてゆき得る、 避難経路ら、と、
より、 快適に住める、 避難所らとを、
作り拡げてゆく、
公共事業らを成す事により、
日本の、 財務省の役人ら、と、
与野党の、 主な政治家らとが、
英米のカネ貸しらの主張する事らを、
そのまま、自らもまた、
オウム返しにして、主張し、
実行もする事において、
日本政府の財政における 、緊縮 、
を、 繰り返し、 成す事を通して、
彼らへの、 主 アルジ の立場にある、
日本の主権者としてある、日本人たちへ、
物価だけではなく、
その労働らへの賃金らの水準へも、
より、 押し下げる向きへ圧力をかける、
要因らの系である、
デフレ不況性 、を、
押し付け続けて来てある、
その、 デフレ不況性 、を、
解消し去ってゆく、 と共に、
日本人たちの防衛性の度合いを、
飛躍的にも高めてゆくべき、
ぎりぎりの状況にも、 ある 。
地上を襲い、 地上をおおい得る、
あり得る、 災害らへ対して、
地上に、 避難所らや、
避難経路らを設定して、
日本の主権者たちを、
それらへ誘導する事は、
人食い虎どもの住む、 密林へ、
わざわざ、 人々を誘導する事に類する、
行為であり、
日本の主権者としてある、
日本人たちの一般 、へ対して、
個々の日本国民においても、
執事なり、 召し使いなりの立場にある、
公務員などの、 者らにおいても、
成す事が、 許されない 、
行為なり、 態度なり、 であり、
日本人たちの一般の、 あり得る、
福利ら、を、 より、 能くも、
最大限にも、 成す事を、 約束して、
日本の社会に、 存在し、 存続する事を、
日本国民たちの一般から、 許されてある、
筋合いにある者としての、 義務 、 に、
違反性を成す、 行為であり、
それが、 作為型では、 無く 、
無知性と痴愚性とにもよる、
不作為型の、 行為なり、 態度なり、
であっても、
それへの責めを負うべき、 筋合いを、
その主らの側に、 成すものである事に、
変わりは、 無い。
日本人たちには、核武装❗、と、地下避難網ら❗、が、より、日本の内外に、本格的な平和性らを成し付け得てゆく上でも、必要❗。
この事らを、 より、 日本人たちへ、
伝える措置を自ら成さない、 者らは、
より、 反日員としての、
負の度合いを、 自らへ宛てて、
観積もらせる、 筋合いを余計に成し、
より、 伝える措置を自ら成す主らは、
より、日本人たちの一般の、
足しに成り得る向きに、 働き得た主として、
正の向きの度合いを、 自らへ宛てて、
観積もらせる、 筋合いを成す。
差し引きで、 より、
どちら側であるかの、度合いを観積もられ、
その度合いらに相応しい処遇を、
宛てられるべき立場にも、
誰もが、ある。
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