夜桜や 夢に紛れて 降る、寝酒・・

観念らの規定性らによる、事象らの成り立ちようらへの解枠にも絡めて、 天下経済系の可能的な成長の度合を増すべき事らを述べる

非理法権天。 解放を急ぐべき、 シナによる、 桜木琢磨市議ら 実質 拉致事件ら❗

2019-08-03 20:51:31 | 政治・経済
@ 楠木正成どんに大軍を預けていたら、
余裕で、 圧勝だったな
2019/ 7/31 22:00 ;
6/ 6 ( 土 ) ; 4:58:17.23 ;

@ >>65 ; 新田スレか、
足利新田スレで、 前に議論してたけど、
正成どんが布陣した、 会下山は、
戦場の西に位置する小山、
総大将の、 義貞どんの布陣したのが、
和田岬 。

つまり、 正成どんの布陣した場所は、
水軍を持っている、 足利勢が、
正面衝突を避けて、 回り込むと、
新田勢は、 東に向くから、 簡単に、
分断されてしまう。
もちろん、 新田勢は、それを阻止すべく、
脇屋・大館が備えていたが、 定禅どんは、
上陸地点を変えて、 あっさりと、
陽動に成功。

足利軍は、 最初から、 新田勢を、
東に引っ張りだし、 会下山の楠木勢を、
まず、 孤立させて、殲滅し、
その勢いを駆って、 新田勢を殲滅、
という、 分断撃破を考えてて、
迎撃は、 当初から、 水軍力を持っている、
足利勢のほうが、 有利。
だから、 基本的には、 楠木勢は、
退路を確保し、 兵力を温存して、
引き上げるしかない。
正成どんが、 新田勢への援護で、
分断を防げる、 と信じていたとしたら、
甘いし、 新田義貞どん自身が、
遅くまで、 戦っていたことを考えたら、
相当な、 バクチ性の作戦になるのは、
事前に覚悟してたんじゃなかろうかね。

正成どんが、 会下山に布陣した時に、
手勢が、 しつこく、
強襲を繰り返しているのは、
そのためじゃない? 。
新田どんも、 それは、理解していたから、
あえて、 総大将の権限を行使して、
布陣を変えさせる事をしなかった。

本当に、 梅松論にあるように、
正成どんが、 義貞どんを、 合戦の直前に、
讒言したのかって、 結構と、疑問が多い
( 他の史料では、 確認されてない ) 、
が、 両将が、 無理を承知で、
戦わざるを得ない状況だった、
とは、 言える。

@ 新田軍は、 西宮まで後退したあと、
生田まで戻ってきてるから、
会下山を包囲した上陸軍の背後を、
攻めようとはしてるんだが、その頃には、
楠木勢は、 兵が逃亡して、壊滅。
生田の森を、 防壁的に使った新田軍は、
楠木勢の残兵を収容しつつ、
一連の合戦らの中で、 最大の戦闘が、
勃発しているから、 楠木勢の布陣って、
陸路の足利軍への足止めどころか、
早期での殲滅で、 兵力の、
無駄な損耗になってしまうのだよね。
おそらく、 新田勢としても、
生田のあたりで、 退路を確保しつつ、
戦う気で、兵力差を補うために、
楠木勢の兵力も、
欲しかったんじゃなかろうか。

このあたりは、 出陣への直前に、
何らかの問題で、 公卿たちと対立した、
正成どん自身のメンツの問題も、
絡んでいる気がする。
義貞どんでさえ、 なかなかに、
引き揚げなかったくらいだから。

@ 実際は、 どうだったのか。
太平記では、 楠木どんは、 讒言を行わず、
叡山への後醍醐帝の遷幸を提言して、
却下され、 現地で、 新田を励ましつつ、
布陣し、 執拗な突撃を繰り返している❗。

だけど、 陸路の足利軍を足止めしつつ、
生田まで、 兵を収容しつつ、 引いて、
合流するつもりが
( 主力の新田勢は、 最初から、
生田を想定戦場にしていた節があるから ) 、
重囲に陥って、 失敗したんじゃないかね。
千早赤坂でも、 正成どんは、
緒戦の段階で、 幕府軍に押し込まれた、
経験をフィードバックして、
長期戦を戦ってるが、 今回は、
その暇もなかった、 という、
あたりじゃないのか。

@ 楠木どんの作戦は、要は、
戦わずに、 京都を放棄して、
足利軍を京都市街へ引き入れ、
後醍醐天皇を比叡山へ移し、
京都の近郊に、 後醍醐軍が展開して、
京都市街を包囲し、封鎖する❗。

こんな作戦、 うまくいくわけがない。
泥縄式に、包囲網を作っても、
足利軍の兵力は、 後醍醐軍と比べても、
圧倒的に、多い❗ 。
しかも、 近江の佐々木、や、
播磨の赤松が、 足利どんへの、
強固な味方だし、 丹波には、
足利氏の直轄領がある。
あっという間に、 京都への包囲網は、
突破されて、 終わり 逆に、
比叡山こそが、 包囲されるのが、 オチ。

@ 後に、 足利勢は、 南朝や、
反乱大名らに、 京都へ攻め込まれると、
京都を、いったんは、 放棄して、
近江か美濃へ退却し、味方の大軍を集めて、
京都を奪還する、 という、
作戦を成功させた❗。

ある意味で、 楠木どんの作戦を、
足利どんが実行して、 成功する、
とは、 皮肉だが、 足利勢が成功したのは、
京都を捨てても、 敵を上回る、
大軍を集められると、 わかっているから。
建武政権の場合は、 敵の足利と比べても、
兵が集まらんし、京都を放棄したら、
もっと、 兵の集まりが悪くなる。

@ 得宗への被官の時代は、
楠木氏は、 反幕府勢力への討滅に成功して、
戦上手として、勇名を轟かせている。

あと、京都は、 盆地だから、
突破しようとすると、
得意のゲリラ戦に持ち込めるから、
成功の可能性は、 高い❗。

@ 劣勢な宮方は、 足利勢を、
隘路に引き込んで、 正面攻撃を強要させて、
大損害を与える、という、戦い以外では、
勝てない、 が、 淀川や、 その他の河川が、
入り組んでいる、 摂津の地形では、
後年の山崎天王山の合戦や大阪の陣みたいに、
結局は、 数の力で押しきられるか、
迂回されるか、って、 結果になるだけだ。

☆ 『 梅松論 』、 で、 自分領の、
京都を、 敵方へ占領させてから、
それを、 包囲しても、 勝ち目がある、
とする、 戦略を、
楠木氏に述べさせている、 のは、
足利勢が、実際に、それを、やって観せた、
のを受けて、 一定数の人々が、
楠木氏も、
そうした事を考え得ていたのでは、
と、 推量し、 議論などもしていた、
流れらがあって、
そうした推量をもまじえた、
歴史事らへの関係者らの、
証言らに触れた人々が、
『 梅松論 』、 への著作者、や、
その足しに成った人々へも影響性を成した、
という事なのかも知れない。

☆ 楠木氏、 本姓を、 橘氏とする。
一般に、 伊予橘氏
( 越智氏の分家 ) 、 の、
橘遠保氏の末裔、 という
( 『 系図 纂要 』 、 など )。
が、 楠木正成氏を以て、 前の系図は、
諸家で、 一致せず、確実なのは、
河内の悪党ら、への、 棟梁格だった、
ことだ。

得宗な、 北条氏への被官として、
楠木氏は、 戦功を挙げており、
反体制員としての、 悪党らを、
取り締まる、 幕府側の立場にあった、
とも、 観られている。

『 尊卑分脈 』( 橘氏系図 )、や、
『 太平記 』 、 は、 正成氏の出自を、
橘氏の嫡流な系統の為政氏の後裔とする。

また、 諸家には、 同じく、
橘姓の熊野国造和田氏の出身とする、
系図もある。 事実として、
正成氏の一族以外の子孫員らが、 多くは、
和田氏 、 を称している。

東国の武家集団が、 北条得宗家、への、
被官 ( 御内人 ) 、 として、
赤松氏と共に、 播磨や摂津に、
南河内や、和泉、 などの、
北条氏の守護国などの、得宗領に移住し、
そのまま、 土着したとする説もある。

『 吾妻鏡 』 、 によると、 楠木氏は、
元は、 関東にいた御家人で、
玉井氏・忍氏・岡部氏・滝瀬氏らな、
武蔵七党の横山党や、猪俣党と並ぶ、
家柄であり、 もとは、
利根川の流域に基盤をもつ、
東国武士の有力集団の一派だった、
という。
また、 駿河国は、 入江荘楠木村
( 現、 静岡市は、 清水区 ) 、
を出自とする、 武士、 ともいう。

鎌倉幕府が、 1293年に、
楠木村を、 鶴岡八幡宮に寄進した、
という、 記録がある上に、
当時は、 幕府の有力な御家人だった、
長崎氏の出自は、 楠木村の隣の、
長崎郷で、 河内に領地を保有していた。
その関係で、 楠木氏が、河内に移った、
と言う。

千333年の公家の日記に、
「 楠木の根は、 鎌倉に成るものを… 」、
と言う、 落首が記録されている、
ことも、 楠木氏が、 元は、
東国の出だったことを意味している、
と、 言われている。

なお、現在も、 清水区には、
「 楠 」、 「 長崎 」 、 の、
地名が残っている。
( 古文書には、 「 楠木 」、
「 楠 」 、 の両方が出てくる )。

@ 岩手県は、 大船渡市や、
その近隣の市町村にも、
長崎、 だの、 何だの、 と、
鎌倉幕府の御家人らの家名らなどを、
基にした、地名らが、 残っている。

史料らの上で、 はっきりと、
記されているのは、 鎌倉時代の後期に、
楠木正成氏は、 後醍醐天皇が、
鎌倉幕府に対して、 挙兵した、
元弘の乱において、 宮方に従い、
一味散々、の、 1333年、に、
幕府が滅ぼされた、後に成立した、
建武政権に加わり、 南北朝時代に、
南朝 ( 吉野朝廷 ) 、 方として、
活躍した以降の事らだ。

その後に、 正成氏の子の、 正行氏、と、
正時氏や、 正成氏の弟の、 正季氏、
などは、 北朝の足利尊氏との戦いで死に、
生き残った正成氏の子の正儀氏は、
南朝の零落後にも、 有力な武将として、
活躍し、 北朝との和睦を仲介する。

その後に、 正儀氏の子孫員らは、
播磨国で、 平木氏を名乗った、
とも言われている。

楠木氏の一族員らは、 そのほとんどが、
南朝方についた。 それが為に、
南朝の衰退と共に、 一族員らも没落した。

いざ、国、合わそう、の、
1392年、 の、 南北朝の合一、の後に、
後南朝の武将としても、 楠木正秀氏や、
楠木光正氏らな、 楠木氏一族が、
確認できる。
北朝を擁立した、 足利幕府の時代には、
朝廷 ( 北朝 ) 、 に仇をなした、
として、 逆賊として扱われていた。

寛正元年 ( 1460年 ) 、の、
3月28日に、 楠木氏の一族が処刑された、
際に、 東福寺の大極正易師は、
その日記の、『 碧山日録 』 、に、
楠木氏は、 無辜の民を戮殺した、
積悪への報 ムクイ 、 によって滅びた、
と、 記している。

が、『 太平記 』 、 の流布により、
正成氏に対する、同情的な見方が広がった、
戦国時代には、
楠木正成氏の末裔と自称する、
楠木正虎氏、なる、 人物が現れ、
逆賊な扱いであった楠木氏の、
名誉の回復のために、
朝廷や、 松永久秀氏へ、援助を求めて、
名誉の回復に尽力した。
その結果にて、 永禄2年
( 1559年 ) 、の、 11月20日に、
楠木氏は、 正親町 オオギマチ
天皇より、
朝敵とされていた事、 への、
赦免を受けることになった。

後に、 正虎氏は、 能書家として、
織田信長氏や、 豊臣秀吉氏からも、
重用された。

この、 正虎氏の家系は、
北畠氏に仕えた伊勢の国人 コクジン 、
な、 楠 クス 氏 ( 伊勢諏訪氏 )、の、
末裔が、 河内に移住して、
正成氏の末裔を名乗ったもので、
正成氏との血縁関係は、 ない、
とも言われている。

俗説では、 江戸時代に、
『 慶安の変 』 、 を起こした、
由井正雪氏が、 正虎氏の子孫、 という、
楠木不伝氏に軍学を学び、
その養子となった、 というが、 これは、
実録小説な、 『 慶安太平記 』、 などの、
脚色だ。

南朝を、 正統な朝廷とする、
史観が定着すると、 楠木正成氏や、
楠木氏は、 忠臣の代表として、賞賛され、
顕彰されるようになる。
しかし、
明治政府の国家権力をもってしても、
楠木氏の末裔を称する氏族は、多いものの、
楠木氏の直系の子孫を確認する事は、
できなかったので、 同じ南朝の忠臣でも、
菊池氏や、名和氏などは、
その子孫員らが、 華族に列したが、
楠木氏からは、華族は、生まれていない。

ただし、 傍系であれば、
華族になった者は、おり、
伊勢楠木氏の庶流な、 木俣氏が、
井伊家の家老を代々に務めた氏族のため、
男爵に叙されている。
木俣氏の中興の祖な、 木俣守勝氏には、
実子が無く、 養子の守安氏が、
木俣氏の当主を継いだために、
現在の木俣氏の宗家は、
楠木氏と血筋上の繋がりは、無い。

明治の末から、 昭和の初期の、
作詞家な、 野口雨情氏の先祖は、
正成氏の弟にあたる、 楠木正季氏である、
といい、 地理学者・地球物理学者で、
南極観測隊長を、3次にわたって務めた、
楠宏氏は、 楠木正成氏の子孫にあたる、
という。

1937年 ( 昭和 12年 )、の、 5月25日に、
楠木氏の子孫によって、 湊川神社内に、
楠木同族会が結成された。
初代会長は、 伊勢楠木氏の末裔の、
山下太郎氏だ。

伊勢楠木氏は、 正成氏の曾孫な、
正顕氏が、 応永の乱における、
応永6年、の、 12月の末
( 1400年、の、 1月 ) 、 の、
堺の落城により、 伊勢国へ落ち延びた、
ことをもって、 始まり、
第8代の当主な、 楠木盛信氏が、
小牧・長久手の戦いの中の、
加賀野井城の陥落により、
天正12年、の、 5月7日
( 1584年、の、 6月14日 ) 、に、
敗死したことをもって、 断絶した、
が、 血筋上の長子の直系である、
刀工、な、 千子正重氏の系統は、
少なくとも、 1662年ごろまでは、
存続した、 ことが、
刀剣の銘によって、 確認できる。

楠木氏の棟梁な、 楠木正儀氏の息子の、
数や長幼については、 不明、
とされる点が、多く、
確かなことは、 わからないが、
伊勢楠木氏の家系図は、
正顕氏の父な、 正勝氏を、
正儀氏の長男にして、
「 南朝棟梁之臣 」 、 と主張しており、
その主張を信じる限りにおいては、
この系統が、 楠木氏の嫡流、
ということになる。

伊勢楠木氏の最大の特徴とも言えるのが、
当主を含む、 多数の人材が、
伊勢国は、 桑名の刀工、な、
村正氏を祖とする、
千子派の刀工 、 となったことだ。

第2代の当主の、 初代の正重氏と、
第3代の当主の、 二代正重氏は、
村正氏に弟子入りし、
刀鍛冶の技を教え込まれた。

千子正重氏は、 200年以上を続く、
千子派の一大派閥になり、
桑名宗社の奉献刀の正重に、
寛文2年1月 ( 1662年 )、の、
銘が切ってある。

刀工としての、 正重氏は、
楠木でも、橘でもなく、
藤原の銘を打つが、 身分を隠したのか、
師の村正氏が、 藤原、なことに、
拠ったのかは、 不明だ。

二代正重氏の次男な、 千子正真氏の、
一派も、 名工として知られ、
酒井忠次氏の愛刀な、 猪切や、
本多忠勝氏の愛槍な、 蜻蛉切、などが、
正真氏の作だ、 という。

他に、伊勢楠木氏から出た刀工として、
雲林院政盛氏や、 坂倉関正利氏、
などがいる。
正利氏は、 良業物に位列され、
代表的な作品として、 丹羽氏次の愛槍な、
「 岩突 」 、 などがある。

第2代の当主な、 楠木正重氏
( 初代正重氏 ) 、は、
後南朝の争いには、 加わらなかったが、
弟の、 楠木正威氏は、 禁闕の変
( 1443年 ) 、 に参加して、 死に、
のちに、 もう一人の弟の、
楠木正理氏も、 文安4年、の、12月
( 1448年、の、 1月 ) 、 に、
紀伊国は、 北山の蜂起に加わったが、
戦死している。
第3代の当主である、 二代正重氏は、
楠木姓を避けて、 川俣正重を名乗り、
伊勢川俣氏の祖となった。
四代正重氏は、 当主の座を継がず、
傍系の正充氏が、 第4代の当主な、
三代正重氏への養子となって、
第5代の当主を継いだ。
その息子の、第6代の川俣正忠氏の時代に、
楠木氏が、 朝廷から、
先祖を朝敵とする事についての、
御免を得た、ことにより、
楠木に復姓するよう、
六角氏から通達され、楠木正忠となる。

伊勢楠木氏の中興の祖な、 第7代の、
正具氏は、 北畠具教氏への家臣となり、
北畠氏の本拠な、 大河内城に住居を移す。

『 勢州軍記 』 、 によると、
神戸具盛氏 ( 血筋は、 北畠氏 )、の、
男子を、 楠木氏の婿に入れるなどし、
北畠家との関係の強化に努めていたらしい。

永禄4年 ( 1561–1562年 ) 、 には、
八田城に移り、 尾州への押さえ、に、
任じられる。
永禄十年 ( 1567年 )、に、
第6代の正忠氏は、 織田軍の攻撃に対し、
楠城に籠って奮戦するも、衆寡敵せず、
降伏。 恭順して、
高岡城への攻略に参加する、
そぶりを見せた後に、 すぐに離脱した。

同じ年に、 第7代の正具氏も、
八田城に籠城するが、こちらは、
わずかに、 5百の手勢で、
織田軍を撃退している❗ 。

永禄11年の、 織田軍の再侵攻にも、
正具氏は、 籠城戦で勝利するが、
主家の北畠氏が、 信長どのに降伏し、
孤立無援となってしまった。

それが為に、 伊勢を出奔した正具氏は、
永禄12年 ( 1569 ~ 1570年 ) 、に、
本願寺に入り、 剃髪して、
顕如法主 ホッス 、 への客将となる。

元亀2年 ( 1571年 )、に、
信長どのの意向で、 第6代の正忠氏が、
強制的に隠居させられた為に、
家督は、正式に、 第7代の正具氏へ移った。

その後に、 正具氏は、顕如師の配下として、
織田軍と戦うが、 天正4年
( 1576年 )、 に、 天王寺の戦いで、
落命。

第7代の正具氏には、 男子がなかった為、
娘の子が、 第8代の当主な、
楠木正盛氏 ( 盛信 、 とも ) 、として、
後を継いだが、
天正12年 ( 1584年 )、に、
小牧・長久手の戦いで、 峯城の戦いに、
織田信雄側で、 参加し、敗北、のちに、
加賀野井城でも敗北し、わずか、
数えの、 16歳で、 斬首されて、
伊勢楠木氏の嫡流は、 絶えた。

正富氏と、 その甥の、
名称が不明の人物は、 神戸
( 今の三重県は、 鈴鹿市の神戸 )、
に移住して、 木俣氏への祖となり、
その子孫員の、 木俣守勝氏は、
徳川家康氏、や、井伊直政氏に仕えて、
後裔が、 彦根藩の家老の家格に、
明治に至って、 男爵に叙された。

アラビア石油への創業者の、山下太郎氏、
と、その縁戚が所有する、
『 山下・楠 楠系図 』 、 によれば、
第7代の正具氏は、 顕如法主、への、
客将となってから、 討死するまでに、
正実氏、 という、 息子を儲けており、
正実氏は、 伊勢神宮の外宮御師、 な、
橘季家への養子となって、 橘正実となり、
御師の名跡としては、 代々に、
「 朝田彦太夫 」 ( 従四位の家格 )、
を名乗り、 その傍系が、 現在の、
秋田県は、 横手市平鹿に移って、
『 楠 』、 に復姓し、途中で、
楠氏と山下氏の二氏に分かれ、
その山下氏の嫡流が、 山下太郎氏だ、
という。
山下太郎氏は、 湊川神社に、
大鳥居や神饌田、 などの寄進を行い、
楠木同族会の初代会長を務めている。

三重県は、 津市の、 高野尾町の、
旧家な、 高楠家に残る、
『 高楠系図 』 、 によれば、
第7代の正具氏が、 伊勢長島城、 の、
陥落後に流浪して、 近江は、
篠原村に滞在中にもうけた息子が、
楠一角正治氏で、 その正治氏の子が、
高楠家の初代な、 伝三郎氏だ、 という。

高楠家の第十代の当主な、 邦三郎氏、
の、 弟な、 孫三郎氏への婿養子になった、
のが、 仏教学者の、 高楠順次郎氏。


☆ 室町幕府の第2代の征夷大将軍 ;
足利義詮 ヨシアキラ 氏 ;

義詮将軍は、 長男では、ありません。
が、 正室な、赤橋登子女史の子だった為に、
最初から、 嫡男 ( 跡継ぎ )、
として、 扱われました。

登子女史の曾祖父が、 鎌倉幕府、の、
第六代の執権、の、北条長時氏なので、
義詮氏には、 北条氏の血も入っており、
室町幕府の将軍は、 その全員が、
義詮氏の子孫員なので、
「 室町幕府の将軍は、 その全員が、
北条氏の女系の子孫でもある 」。

「 義詮氏、への、 異母兄、 かつ、
尊氏どのの長庶子 」 、 という、
立場の人は、 二人がいます。

一人は、 足利竹若丸氏。
側室の生まれ、 とはいえ、 母親は、
足利氏の一族の出でしたので、
順調に行けば、 義詮氏への側近や、
それに準じる立場になっていたでしょう。

長庶子、という、難しい立ち位置の為か、
尊氏どのの手元ではなく、 伊豆山神社
( 静岡県は、 熱海市 ) 、にいた、
と、 いわれています。
鎌倉幕府への打倒の戦いの中で、
尊氏どのが、 六波羅探題を攻撃した際に、
母方の叔父に伴われて、
上洛しようとしたものの、 途中で、
幕府方の刺客に討たれてしまいました。

この時に、 山伏の姿をしていた、
と、 いわれていますので、 元服前ながら、
それなりの年齢になっていた、
と、 思われます。

義詮氏は、 1330年、の生まれで、
鎌倉幕府の滅亡が、 1333年ですから、
倒幕までの戦で、 前線に立つことは、
ありませんでした。

が、 幼いながらに、 父の代理で、
軍中状 ( 武士が、 功績を報告してくる、
手紙 )、 に、 作印していたり、
跡継ぎの自覚を持った行動をしています。

実際には、 家臣の誰かが、 義詮氏
( 当時は、 幼名・千寿王 ) 、の名で、
発行したのでしょうけどね。

まだ、 花押 ( かおう。
名前などを崩して、 文様のように書き、
本人が書いた証明にする ) 、 とかは、
書けなかったでしょうし。

そんな訳で、 義詮氏が成長する頃には、
既に、 鎌倉幕府は滅びていましたが、
皆さんが、 ご存知の通り、そうすると、
今度は、混乱の南北朝時代が始まります。

義詮氏は、 しばらくの間を、
鎌倉の周辺の統治をしていたものの、
室町幕府ができた直後に、 重臣な、
高師直、と、 叔父な、直義氏、との間で、
揉め事が起き、いきなり、 地盤が、
ガタガタになってしまった為に、
トーチャンから呼び出されて、
京都で、 仕事をするようになりました。

この辺りになると、義詮氏も、既に、
20歳前後。
実績もできていたので、 尊氏将軍からの、
信頼も、上々だったようです。

概ね、 問題なく、 権力が移り、
尊氏将軍が亡くなると、 義詮氏は、
二代目として、 将軍の位に就きました。
南北朝の争いは、まだ、
数年を続きますが、 その間も、
訴訟制度への整備などをし、 地味に、
大切な仕事をしています。

尊氏将軍と義詮将軍は、
和歌を得意とする文人でもありました。
ちょっと、意外ですよね。

義詮将軍は、 後光厳天皇へ、
勅撰和歌集の編纂を執奏
( 提案 )、 しており、
陛下が、 それを受けて、
新拾遺和歌集の編纂を命じています。

地味な印象が強い理由は、享年が、
38 、という、 短命性も、
原因かもしれません。

詳しいことは、 わかっていませんが、
三条公忠氏の日記な、 「 後愚昧記 」
( 建武の新政を、 ボロクソに書いている、
日記 ) 、 では、
「 義詮将軍は、 亡くなる二日前に、
大量に、鼻血を噴き出していた 」、
と、 書かれています。

≒ 日頃の、 飲み食いをし付けていた、
宛ての物らに、 タンパク質ら、と、
ビタミンら、に、 ミネラルら、
の、 どれ彼らを、 一定度合い以上で、
欠いてしまっていたのだろう。

義詮将軍は、 わずかに、9歳の、
義満氏へ、
跡を継がせざるを得ませんでした。

義詮氏のお墓は、 三ヶ所があります。

そのうち、 宝筐院
( ほうきょういん。 京都市は、
右京区、の、 嵯峨野 ) 、 のお墓は、
かつての敵な、楠木正行氏の隣にあります。

尊氏どのが、 楠木正成氏を認めていた、
ように、 義詮将軍も、 敵とはいえ、
武士の信念を貫いた正行氏のことを、
尊敬していたので、 そのように、
言い残したのでした。

『 太平記 』 、 では、
他者の口車に乗りやすく、
酒色に溺れた、 愚鈍な人物として、
描かれているが、 実際には、
父の尊氏どのが不在の際に、
半済令を発して、
武家員らの経済力を確保する一方、で、
異母兄の直冬氏からの侵攻により、
幕府が窮地に陥った際も、
神南の戦いから、 京都市中での合戦で、
これを破る、 などし、
内政や軍略で、 功績を残している。

細川清氏の失脚や、斯波氏の一時の失脚
( 貞治の変 )、 に乗じて、
守護勢力を抑制し、
中央の将軍権力を高める、 などの、
政治力も発揮し、 南北朝の動乱を、
ほぼ、終熄させて、 幕府政治に、
安定をもたらし得た。

奥州には、 石橋棟義氏を、九州には、
斯波氏経どのと、渋川義行氏を派遣したが、
九州への平定は、 実現しなかった。
太平記は、 義詮将軍が没し、
細川頼之氏が、 管領に就任する章
( 巻 第三十七 ) 、 で、
物語を終えている。

尊氏どの同様に、 文人でもあり、
連歌や和歌が、 多く、
後世に伝わっている他、に、
正平22年3月には、 京都の、
新玉津島神社において、
新玉津島社歌合を開いている。
尾道に、天寧寺を建立した。

☆ 楠木正行氏との関係 ;

義詮将軍の遺言に、
「 自分の逝去後、かねており、
敬慕していた、 観林寺
( 現在の、 善入山宝筐院 ) 、の、
楠木正行の墓の傍らで眠らせ給え 」 、
とあり、遺言どおり、正行の墓
( 五輪石塔 )、 の隣に、 墓
( 宝筐印塔 ) 、 が建てられた、
という、 伝説がある。

義詮将軍が、 黙庵師を崇敬しており、
死の間際に、 何か、後事を託したのは、
一次史料から、 確認できる
( 義堂周信; 『 空華老師日用工夫集 』。

義詮将軍の遺骨が納められたのは、
鎌倉の、 浄妙寺光明院で、
他に、 鎌倉の、 瑞泉寺、と、
円覚寺黄梅院は、 分骨を許可されたが、
それ以外の寺は、 遺命に、ない、として、
分骨を却下されており、
善入山宝筐院に、 足利義詮氏の遺骨は、
存在しない。

ただ、 足利将軍家が、
楠木氏を敬慕していたのは、
足利氏寄りの史書な、 『 梅松論 』、で、
楠木正成氏が、 「 賢才武略の士 」 、
として、 英雄視されている、
ことなどから、 事実である。

☆ 楠木 正行 くすのき まさつら 氏、は、
南北朝時代の武将。 楠木正成氏の嫡男。
「 大楠公 」 、 と尊称された、
正成氏に対して、
「 小楠公 ( しょうなんこう 」、
と呼ばれる。
初名は、 正之 ( まさより、まさこれ ) 、
と伝わる。
父の意志を継ぎ、足利尊氏勢と戦った。

生年については、
明確な史料が、存在しない。
『 太平記 』、には、 父との、
「 桜井の別れ 」、 の当時は、
11歳であった、とある事から、
嘉暦元年 ( 1326年 )、 とも、
推測されているが、 これは、
多くの史家ら、が、 疑問視している。

その事由は、 延元5年 / 暦応3年
( 1340年 ) 、に、 正行氏な自らが、
建水分神社に奉納した扁額に、
「 左衛門少尉 」 、の、 自筆が記された、
ことにより、 『 太平記 』 、の、
記述を疑って、 正行氏の生年を、
もう少し遡らせ、 父の戦死の時点で、
20歳前後だった、 という、
説も、 古くからあるが、
明確な史料が、存在しない。

正成氏の長男として、河内国に生まれ、
幼名は、 多聞丸。 幼少の時は、
河内往生院などで学び、
武芸を身に付けた。

延元元年 / 建武3年 ( 1336年 )、
の、 『 湊川の戦い 』、 で、
父の正成氏が戦死した後に、
覚悟していた、 こととはいえ、
父の首級が届き、 衝撃のあまりに、
仏間に入り、 父の形見の菊水の短刀で、
自刃しようとしたが、 生母に諭され、
改心した、 という。

正行氏は、 亡き父の遺志を継いで、
楠木家の棟梁となり、南朝方として戦った。
足利幕府の、 山名時氏どのと、
細川顕氏どのの連合軍を、 摂津国は、
天王寺・住吉浜にて、 打ち破っている。

正平3年 / 貞和4年 ( 1348年 )、に、
河内国は、 北條
( 現在の、 大阪府は、 四條畷市 ) 、
で行われた、 『 四條畷の戦い 』
( 四條縄手 )、 において、
足利側の、 高師直、と、師泰、な、
兄弟と戦って、 敗北し、
弟の正時氏と共に、 自害して果てた。

従兄弟な、 和田賢快上 ( 新発、賢秀 )、
と、 和田行忠氏もまた、 戦死した。

先に、 住吉浜にて、 足利方を打ち破った、
際には、 敗走して、 摂津国は、
渡部橋に、 溺れる敵兵を助け、
手当をし、 衣服を与えて、
敵陣へ送り帰した。

この事に、 恩を感じ、 この合戦では、
楠木勢として参戦した者が多かった、
と、 伝えられている。

かねてより、 死を覚悟しており、
後村上天皇よりの、 弁内侍、の、
賜嫁を辞退している。
そのときに、 詠んだ歌が、

「 とても世に  永らうべくも あらう身の 
仮のちぎりを  いかで結ばん 」 、
である。

この合戦に赴く際に、 辞世の句を、
吉野の如意輪寺の門扉に、
矢じりで彫ったことも、 有名である。

決戦を前に、 正行氏は、 弟の、
正時氏や、 和田賢秀氏らな、 一族を率いて、
吉野の行宮に参内し、 後村上天皇より、
「 朕、 汝を以て、 股肱とす。 慎んで、
命を全うすべし 」、 との仰せを頂いた。
が、 決死の覚悟は、 強く、 参内後に、
後醍醐天皇の御廟に参り、 その時に、
決死の覚悟の一族・郎党な、
百43名について、 如意輪堂の壁板を、
過去帳に見立て、 その名を記して、
その奥に、 辞世を書き付け、
自らの遺髪を奉納した、 という。

かへらじと  かねて思へば 梓弓
( あずさゆみ ) 
なき数に入る  名をぞとどむる。

地の利を失っては、 勝ち目が薄い。
家督は、 弟の正儀氏が継いだ。

明治維新の尊王思想の模範とされ、
その誠忠・純孝・正義によるとして、
明治9年 ( 1876年 )、 に、
従三位を追贈された。
明治22年 ( 1889年 )、 には、
殉節地の地元の有志等による、
正行氏を初めとする、楠木一族を祀る、
神社への創祀の願いが、 容れられ、
別格官幣社として、 社号を与えられ、
翌る、 明治23年 ( 1890年 ) 、に、
社殿が竣功し、 正行氏を主祭神とする、
四條畷神社が創建された。
さらに、 明治30年 ( 1897年 )、には、
従二位が、 追贈された。

・・四条縄手の戦いに勝ち、
その正月の半ばに、勝ち誇った師直が、
「 吉野退治 」、と豪語して、
三万の大軍を率いて、吉野に迫った。
しかし、 山上には、一兵も残っていない、
のを知って、 腹を立て、 行宮を始め、
蔵王堂や、宿坊の悉くを灰燼に帰した。

 暴行掠奪の限りを極めた師直は、
当麻寺に、 本陣を置いて、 附近一帯の、
南軍への掃射作戦を展開した。
が、
正行氏の亡き後の、 楠氏の三代目の、
棟梁となった、三男の、正儀氏の指揮する、
山民、と、野伏らの激しい遊撃により、
死傷者が続出した。
 ばさら大名の佐々木道誉の子の、
季宗氏を始め、 名だたる勇士が討死し、
道誉氏な自らも、重傷を蒙る、大苦戦で、
師直も閉口し、弟の師泰に任せて、早々と、 都に引き揚げている。
 代った師泰は、 楠木の本城な、
千早城を攻略すべく、河内東条に進攻したが、
正儀氏の巧みな、 持久作戦に手を焼き、
一年後には、 見るべき戦果もなく、
都に引上げ、河内は、再び、
楠木一族の支配下に入った。

 其間に、 後村上天皇は、 五条から、
十津川の天辻峠の中間にある、
穴生 アノウ、 に、 行宮 アングウ 、
を置いて、 体勢を立直し、
 正平五年( 1350年 )、 に入ると、
足利直義氏、と、師直の争いが激化し、
秋になると、 直義氏は、
権力の座から追い落され、思い余った末に、 出家姿で、 都を落ちると、かねて、
敵ながら、 信頼出来る人物、
と、目をつけていた、
楠木正儀氏の門を秘そかに叩いて、
南朝に帰参したい、 と申し出た。

 湊川の父への仇を目の前に見て、
正儀氏は、 北畠親房氏に引き合わせて、
協議の末に、 それを認める事になった。

直義氏は、 南朝の綸旨をかざして、
畠山、桃井の諸大名を味方につけ
忽ち、京都を占領すると、 摂津で、
尊氏どのと師直の軍を大敗させた。

 尊氏どのは、 やむなく、
師直な兄弟の出家を条件に、和議を結び、
都に帰ったが、その後から、
俄坊主になった師直達が、
トボトボとついているのを見た、
上杉憲能氏は、 「 父の怨みを思い知れ 」 、 と、 襲いかかる。
師直、と、師泰は、 一人の郎党からの、
助けもなく、野良犬のように斬り殺されて、 武庫川の河原に、むくろをさらした。

 直義氏は、再び、 幕政を握り、
正儀氏と協議して、 改めて、
南北朝の合一への和議を進めたが、
北畠親房氏は、 王政の復古、と、
幕府への否認を力説して、聞かず、
遂に、 破談となり、
政治的立場を失った、 直義氏は、
都を落ちて、 鎌倉に奔った。
 
正平6年 ( 1351年 )、
の秋になると、 南朝は、 尊氏どのと、
義詮氏からの南朝への降伏を認めると、
直義氏への追討の勅命を発した。
楠木正儀氏は、呆れたが、
これは、 親房氏と尊氏どのとの、
極秘での交渉の結果な事だった。

その約定は、
「 北朝は、廃止し、
神器は、南朝へ返還する。
今後の朝政は、 一切を、南朝に任せるが、
其間に、兵を用いる事は、共に、
決して、しない 」
 という物だったらしい。
 
正平六年 ( 1351年 )、秋には、
崇光天皇と皇太子の直仁親王が廃され、
北朝は、無い事にされた。

正平七年 ( 1352年 )、の正月に、
かって、 北朝を担ぎ出して、
幕府を創立した尊氏どのは、
南朝に降伏して、 北朝を、
あっさりと、 廃した。
親房氏の云うままに、
光厳上皇以下を幽閉し、
神器を南朝方に渡すと、
京都を、 義詮氏に守らせて、慌しく、
鎌倉の直義氏への討伐に向った。

 それを見た親房氏は、 楠木正儀氏、と、
北畠顕能氏へ、京都への進撃を命じ、
親房氏を信じていた、 義詮氏は、
忽ち、 都を追い出される。

 17年振りに、入京した親房氏は、
意気揚々と、 「 京都への回復の、
淮三后の宣旨 」、 を発し、
捕えた北朝の皇族員たちを、
賀名生に送りつけると、
後村上天皇に、 出陣を乞い、
帝も、 勇んで、 楠木氏の根拠地な、
河内東条に入った。

 正平七年 ( 1352年 )、の一月に、
尊氏どのは、 直義氏と和睦して、
鎌倉に入ったが、折しも、
親房氏が、 約定を破って、 都を占領。

後村上天皇が、 賀名生を出て、
摂津の、 住吉に行宮を進め、
宗良親王を征夷大将軍に任じて、
尊氏どのへの追討を命ぜられた。

 三月に、 直義氏が、 南朝に利用される、
のを恐れて、毒殺し、鎌倉を回復した。

同じ頃に、 近江に逃れて、 体勢を整えた、
義詮氏も、 三万の兵を擁して、
反撃に転じ、連戦連勝の勢いで、
都に迫った。

 後村上天皇は、男山八幡宮まで進み、
晴れて、還幸の日を待ちわびていた。
が、遂に、 都の土をふむ日もなく、
五月には、 義詮軍の夜襲をうけて、
四条隆資氏らが、討たれ、
四分五裂となって、潰走した。

  後村上帝の自らが、
三種の神器を葛籠に入れて、
馬の鞍にかけ、雑兵の群に交って、
命からがら逃げ走られ、帝の鎧には、
流れ矢が、 十数本もささっていた、
と云う。

 北畠氏が、 一旦は、 足利側と結んだ、
約定を、 信義を以て、守れば、
少なくとも、 南朝は、
正統の皇室と仰がれ、
二十余年の戦乱を収めて、
万民に泰平をもたし得たはずだった。

後村上帝が、 行宮を、金剛寺に移し、
その十一月から、 6年間が、
この地は、 南朝勢の大本営となり、
 北朝の皇族員は、 その観蔵院に、
囚われの身として、 4年の歳月を、
共にする事にする。

 正平9年 ( 1354年 )、
の暮には、 尊氏どのの庶子な、
足利直冬氏や、 桃井直常氏らが、
南朝に帰順した為に、 その勢力は、
強大となり、 我子に攻められた、
尊氏どのは、 後光厳天皇を擁して、
近江に逃走した。

 明けて、 正平十年 ( 1355年 )、
の、 三月になると、 尊氏どのは、
京の南軍を敗走させて、 再び、
勢力を盛返す。

金剛寺に囚われていた、 光厳上皇らが、
京に帰られたのは、 正平十二年
( 1356年 )、 の春だった。

 正平十三年 ( 1358年 )、
の、 四月に、 北軍の総帥の、
尊氏どのが、 懐良親王を擁する、
南朝の征西府を、 自ら、鎮圧せんと、
準備していた最中に、 急死した。

尊氏どのの亡き後に、
二代将軍となった、義詮氏は、
 正平十四年 ( 1359年 )、も、
実りの秋になると、 紀伊龍門山における、
激戦や、九州は、 筑後川での、
南朝勢の勝利を聞き、
関東勢を召集して、
大挙して、 河内に進撃した。

 後村上天皇は、 当時は、
河内天野の金剛寺を行宮にしていたが、
楠木正儀氏は、
畠山国清氏らの大軍が迫るのを知るや、
後村上帝を、 観心寺に遷し、
金剛寺の松に、 高々と、
非理法権天の菊水の旗を翻えして、
激しく迎え討った。

 善戦して、 三カ月の後、
正平十五年 ( 1360年 )、
の、 三月になると、 幕府勢は、
遂に、 大門を突破して、寺内に乱入し、
三十余坊を焼き立てたが、
正儀氏は、 頑として、守り抜いた。
 
幕府は、遂に諦めて、都に引揚げ、
帝は、再び、観心寺に還えられたが、
土地の名産の餅米で作った、
「 寒晒 」が、 好物と聞いた、
里の人たちは、 競って、
手作りの品を献上して、
お慰さめした、 という。
 
河内や和泉の一円を回復した、
正儀氏は、 勢いに乗じ、
正平十六年の暮に、 突如として、
長駆して、 京に進攻し、
驚いた義詮将軍は、 慌てて、
北帝を擁して、 近江に逃走する。

 この時に、ばさら大名な、
佐々木道誉氏は、 都落ちに際し、
自邸を清め、 山海の珍味と、
茶器の名品を揃え、
屋敷に残る、 僧の二人へ、
そこを訪れる南朝の将が、
誰であろうとも、 賓客として、
もてなして下され、 と、頼んでから、
その屋敷を立ち退き、
その屋敷の様らを観た、
正儀氏を感心させた。

北朝勢が、 大挙して、 京に迫るや、
今度は、 正儀氏が、 同じように、
邸を清め、秘蔵の兜 、 などを、
置き土産にして、 整然と引揚げた。

道誉氏は、 その人柄に惚れ、
義詮将軍と話し合い、 何とか、
正儀氏を話相手にして、戦いを止め、
南北朝を合一して、 泰平の世にし、
民の苦しみを救おう、と、
決意したようだ。
 
幕府( 北朝 )、の、有力大名だった、
細川清氏どのが、 義詮将軍と合わず、
南朝に降参し、
「 先鋒として、都を攻略したい 」 、
と、 申し出てきた。
公卿達は、 喜んで、許そうとしたが、
正儀氏は、
「 今や、 京を取るのは、
我一族だけでも出来る。
しかし、 維持するのは、 困難だし、
敵も、 意地になって、
奪回せんとするに違いない。
いたずらに、 戦いを繰返すより、
此際は、 連戦で疲れた兵や民を休め、
徐ろに、 大局を眺め直して、
事を処すべきである 」、
と、 力説して、 中止させた。

この様な、 正儀氏と、 道誉上が、
後に、肚を割って話し合い、
「 武力で得たものは、 武力で失う。
このままでは、 果てしない争乱の中で、
優れた人材を殺し、罪もない、
民を苦しめるだけだ。 一日も早く、
南北を合の一を実現して、
泰平の世をもたらさん 」
 、との、 結論に達する。

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