☆ 応永の外寇 ; Wikipedia ➕❗;
( おうえい、の、 がいこう ) は、
室町時代の応永 26年
( 1419年 ) 、 に起きた、
李氏朝鮮による、 倭寇、 への討伐を、
名目とした、 対馬への攻撃を指す。
糠岳戦争 、 とも言う。
朝鮮では、
自分たちが、 その過去に、
何度も、 日本人たち、への、
強姦と虐殺に拉致行為らとから成る、
不意打ち、な、侵略行為ら、を、
成して来てあり、
いわゆる、 和寇 、 は、
その、 日本人たちから成る、
当初においては、
反社会的な、 儒教型の、部族倫理員である、
事を、 通例としてある、
シナ朝鮮人らへ対する、
倫理的にも、妥当な、 報復であり、
偵察でもあった、が、
朝鮮人らによる、 この侵略行為を、
己亥東征 ( 기해동정 ) 、 と、 言い、
いつものごとく、
本当は、 全くの、 加害者であり、
犯罪加害性ら、への、 事後での、
共犯員でもある、
自らの側の、 凶悪な、
一般の、 倫理的な反社会性、を、
批判する、事を、 無しに、
全くの、 犯罪被害者である、
日本人たちの側に、 非がある、
ように、 事実らにも基づかない、
主張な事らを成して観せてある❗ 。
・・当時は、 足利義持将軍が、
明使を追い返す、 などして、
日明関係が悪化していたこともあり、
京都では、 当初は、 これを、
シナからの侵攻、 と誤解したために、
伏見宮貞成親王の『看聞日記』には、
「 大唐蜂起 」 、 と記されている。
朝鮮軍は、 227隻の船に、1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞茂の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した[1][3][4]。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であった[5]が結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
高麗史によると、倭寇は元寇以前にも存在したが[6]その活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった[7]。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという[8]。このため、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出した[9](康応の外冦)。
高麗が李氏朝鮮に代わった後にも倭寇は半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、幕府で足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事など、特に日本側の対策により、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。
しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
経緯(朝鮮側の記録)
対馬側には同時代資料がないため、ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。西暦日付はユリウス暦で示す。
対馬侵攻の決定
朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが[10]、応永26年5月7日(1419年5月31日)、数千名の倭寇が朝鮮の庇仁県を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した[11]。この倭寇は5月12日(6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し[12]、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した[13]。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬からの倭寇という事を知り[14]、5月14日(6月7日)、対馬遠征を決定。世宗に出征を命じた。
朝鮮側は5月23日(6月16日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[15]、5月29日(6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した[16]。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。
対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた[17]。
朝鮮軍の目的について、太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じたと『老松堂日本行録』に記述があるが、実際には交通の要衝を遮断し、占領を目的としていた[18]。
糠岳での戦闘
編集
6月19日(7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した。[19]
6月20日(7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。島の賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した[20]。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れ険阻な場所へ走り込む[21][22]。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、対馬の宗貞盛に送った。だが答えがないと[23]、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした[24]。また同日、倭冦に捕らわれていた明国人男女131人を救出する[25]。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、長く留まる意を示す[26]。
6月29日(7月21日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する[27]。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北。百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、対馬側は退いた。
6月29日、遠征の報告のため朝鮮に戻っていた従事官、趙義昫が対馬に帰ってきた[29]。この時、崔岐という太宗の使いが同行しており、遠征軍に二つの宣旨(手紙)を届け、全てを仔細に李従茂と論じたとおりせよと命令した[30]。その内容は、「7月は暴風が多いため、長期的に留まることを避けること」[31]、および「李従茂は宗貞盛及びその他の日本人に太宗の意を論ぜよ」[32]というものであった。このような楽観的とも言える宣旨がなされたのは、この時点では朝鮮軍が敗北したとの報告が太宗には届いていなかったためであった[33]。また、宗貞盛からも「朝鮮軍が長期間留まることを恐れるため、修好と撤退を願う。7月は暴風が吹くため大軍が留まるのは(朝鮮側にとっても)良いことではない」との文書が送られた[34]。7月3日、軍船は対馬から巨済島に戻った。
『世宗実録』では6月29日の戦いで死者百数十人[35]、7月10日(8月1日)の記録として戦亡者180人となっている[36]
糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に返還できない」という左議政(高位官吏)の主張があった[37]。
その為、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「今回の戦いで死者が、倭人20余名、朝鮮人100余名」と朝鮮側の被害を多く言った。
これについて、崔雲等が、
「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、
太宗がこれに賛同し、中国人たちを明へ帰すこととなった[39]。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂は左軍関連で非難を受けたが、
東征(対馬遠征)にとって、
敗北は少く、勝利は多かった、として、
後に、朴実は、免罪、
李従茂は、昇進する事になった。
また対馬については、
「我が族類にあらず(島倭非我族類)」
、と前言を翻し、さらに、
朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた、
対馬人
≒ 朝鮮人らが、 勝手に、
拉致し宛てていた、 日本人たちである、
可能性がある 、
を僻地に移転させることを決定した。
対馬再征計画
7月9日(7月31日)に、早くも対馬への再遠征が提案されている[42]が、実現しなかった。
対馬には、同時代の記録はない。
日本側の同時代資料には、
少弐満貞氏の注進状がある。
その内容は、以下のようなものであった。
「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。
唐船2万余艘は事実ではないが、戦闘の日付は朝鮮側資料と合致する。満貞は自身が戦闘に参加したと足利義持に報告しているが[44]、朝鮮軍が短期で撤退したこともあって日本本土からの援軍は送られておらず、満貞も戦闘には参加していない。
対馬侵攻が実施されたのは、丁度室町幕府と明王朝との関係が悪化していた時期であった。看聞日記の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」(日付の観点から朝鮮王朝実録にある「5月23日に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝えた」ことを反映したものではない[45])とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。この外寇の真相を究明するため、室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希璟一行が来日する。京都に着いた宋希璟は、初め足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希璟は、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した[46]。
また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介しているが、当時の九州探題は渋川義俊であり、現在は少弐満貞の注進状を基にした偽書とみなされている[47]。
6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。
300年後に編纂された『宗氏家譜』(1719年)では、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退したとしている[1]。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしている[1]。朝鮮側の資料とは大きく食い違うが、探題持範注進状の3700人に近い数字となっている。
対馬の使臣
9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、信印の下賜を求めた[48]。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた[49][50]。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希璟が対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける[50]。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定[51][52]。属州化は有耶無耶となった。これ以降も朝鮮では、対馬が慶尚道に属する朝鮮の島であるという認識が残り[51]、現在でもそのような見方は「対馬島の日」条例などに代表されるように、一部には残っている。
戦後、対馬と朝鮮の間には、
貿易が一時的に縮小されるものの、
使節は相変わらず往来する。
1426年、早田左衛門大郎氏の要請で、
朝鮮は、 釜山浦、乃而浦、 以外にも、
塩浦を開港し、
両国間の貿易が再度活発化した。
しかし、来往する日本人の数が日々増え、
接待費などが朝鮮に負担となり、
1443年、朝鮮は、 対馬と、
嘉吉条約 ( 癸亥約条 ) 、 を結び、
解決する。
朝鮮は、 倭冦制御の一環として、
対馬の色々な人に官職を与え、 特に、
1461年、 貞盛の子、宗成職
(そうしげもと)にも官職を付与した。
以後も、 朝鮮は、 定期的に、
食料の少ない対馬に
( 海賊活動しないように ) 、
米を下賜することになったが、
宗氏の側では、 これを、
朝鮮からの貢物と称して、
日本国内に喧伝した。
朝鮮においても、 帰化・救恤、
等の、 政策を行ったため、
前期倭寇は、 一応は、
衰退していくが、
条約を結んだ翌年である、 1444年 、
をもって、 倭寇の終息を宣言し、
明にも報告した。
海賊貿易である倭寇が減ったことで、
正規の貿易は、増し、制限するために、
通交統制が用いられるようになる。
それが、 恒居倭人
( 朝鮮に居住する日本人 ) 、の、
増加を促し、
三浦の乱が起きた原因となった。
乱後の交渉は、対馬の宗氏が、
偽使を介して行ったので、
以後の日朝貿易は、
事実上の、 対馬による、独占となった。
その後に、 倭寇は、 一時的に、
衰退に向かうが、 約一世紀後には、
明の海禁を破った、 シナ人、と、
日本人とされる者ら、の集団が、
海に繰り出して、
後期倭寇として勃興した。
☆ 刀伊の入寇 ❗ 、へ宛てた、
Wikipedia 、の記述では、
朝鮮人らの証言らによって、
朝鮮人ら、ではない、 人種の人々が、
日本人たちへの、
侵略行為らの犯人らであるかのように、
主張されてある、が、
日本人たちへの侵略行為らへの、
日本人たちによる、
反撃のなされた現場らで、
捕らえられた、敵は、
朝鮮人ら、であり、
その朝鮮人らの証言らが、
自分たちの側には、 無い、 誰彼へ、
自分たちの負うべき、
犯罪加害性らへの責めの宛先、 を、
不当に、付けかえる、もの、で、
あり得る、事は、
シナ朝鮮人らの一般の、
反社会性を極めるべくある、
儒教型の、 土俗的な、 部族倫理性、 から、
当然に、 成され得るべき、
規定性の、 事であり、
全く、 信用するべき、
倫理的な妥当性の、 無い、ものであり、
むしろ、 朝鮮人らが、
主犯らである事への、
肯 ウベ 向きな、 材料になる事でもある。
@ 刀伊の入寇
( とい、の、にゅうこう ) 、 は、
寛仁3年 ( 1019年 ) 、 に、
女真族 ( 満洲民族 ) 、 の一派、
と、 みられる、 集団を主体にした、
海賊が、 壱岐・対馬を襲い、 更に、
筑前に侵攻した事件。
刀伊の来寇 、 ともいう。
刀伊とは、 高麗語で、
高麗の以東の夷狄 ( いてき ) 、
つまり、 東夷を指す、 toi 、 に、
日本文字を当てた物とされている。
この事件に関しては、 『 小右記 』、
『 朝野群載 』、 等が、詳しい。
☆ 日本の沿岸での海賊行為の頻発 ❗;
8百年代な、 9世紀から、
千年代な、 11世紀に掛けての日本は、
『 記録に残るだけでも 』、
新羅や高麗、 などの、
外国の海賊による、 襲撃・略奪を、
『 数十回 』 ❗ 、は、 受けており、
特に、 酷い被害を被ったのが、
筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の、
九州の沿岸であった。
刀伊に連行された、 対馬の判官な、
長嶺諸近氏は、 賊の隙をうかがい、
脱出後に、 連れ去られた、
家族の安否を心配して、 ひそかに、
高麗に渡り、 朝鮮人らの証言ら、の、
内容な、 事らでしかない、
情報らを得た。
長嶺諸近氏が、 朝鮮人らから、
聞いたところでは、 高麗は、
刀伊と戦い、 撃退したこと、また、
日本人な、 捕虜、の、 300人を救出した、
こと、しかし、
長嶺諸近氏の家族員らの多くは、
殺されていたこと、
侵攻の主体は、 高麗ではなく、
刀伊であった、
と、 朝鮮人らの証言ら、が、
指して観せている、 こと、 などの、
情報らを得た。
十世紀の前後に、資料に現れる、
東丹国や熟女直の母体となった人々で、
当時は、 ウラジオストク方面から、
日本海へ進出したグループらのうち、
刀伊の入寇を担った、
と、 朝鮮人らの証言ら、と、
外国との、 面倒な事を避ける、
事に、 自らの、 安楽性を見いだし得る、
立場にあった、 日本の行政側の、
幹部ら、によって、 されてある、
女真族、 と思われる集団は、
日本海の沿岸を、 『 朝鮮半島づたいに 』
≒ 朝鮮の各地に、 朝鮮人、な、
内応者らなり、 内通者らなり、な、
共犯員らや、 共犯の、 乗組員らを得て 、
南下して来たグループであった、
と、 考えられる。
13世紀の初頭に、 蒲鮮万奴は、
シナの東北部に、 大真国を建てたが、
これらな、 日本海の沿岸部に進出していた、
女真族たちも、これに加わっており、
この時期に、 ウラジオストク、の周辺や、
沿海州の周辺の、 日本海側には、
多数の山城が建設された。
しかし、 日本海の側沿岸部に進出した、
山城群は、 1220年代に、
モンゴル帝国軍により、 ことごとく、
陥落したようで、近年の発掘報告によれば、
13, 14世紀は、 沿海州での、
山城跡や住居址、などの遺構は、
その後に、 使用された形跡が、
ほとんど、 確認できず、これによって、
日本海の沿岸部に進出していた、
女真グループは、 実質において、
壊滅、ないし、 大幅に減衰した、
と、 思われる。
かわって、 モンゴル帝国へ、
早期に従属した、 アムール川水系の、
女真系員らが、 明代まで発展し、
13世紀の半ば以降の、 北東アジアから、
オホーツク海方面の交易流途の主流は、
日本海の沿岸部から、
内陸の、 アムール川水系へ、
大きく、 『 敷堵 シート 』
≒ 『 シフト 』 、
したもの、 と、 思われる。
いわゆる、 元寇 ( 文永・弘安の役 ) 、
の前後に、 日本側は、 北方からの、
蒙古の来襲を警戒していた、
ことが、 知られているが、これに反して、
元朝側の資料で、
アムール川、を以東の地域の、
地理概念上に、 日本は、
含まれていなかったようだ。
この認識の差異も、 内陸の、
アムール水系への交易路の敷堵が、
大きく原因している、
ことが、 推測されている。
@ 刀伊の入寇までの北東アジア情勢 ;
926年に、 契丹に、 渤海が滅ぼされ、
さらに、 985年には、
渤海の遺民が、 鴨緑江の流域に建てた、
定安国も、 契丹の聖宗に、 滅ぼされた。
当時の東北部にいた、
靺鞨・女真系の人々は、 渤海と、
共存・共生関係にあり、 豹の皮、
などの、 産品を、
渤海を通じて、 宋などに輸出していた。
十世紀の前半の、 契丹の進出と、
交易相手だった、 渤海が消失した、
ことで、 女真、 などが利用していた、
従来の交易流途は、 大幅に、
縮小を余儀なくされ、さらに、
991年には、 契丹が、 鴨緑江の流域に、
三柵を設置し、女真から、宋、
などへの、 西方への交易流途が、
閉ざされてしまった。
女真による高麗の沿岸部への、
襲撃が、 活発化するのは、
この頃からだ。
千5年に、 高麗で初めて、
女真による、 沿岸部からの海賊活動が、
報告されるようになり、
千18年には、 鬱陵島にあった、
于山国が、 これらな、
女真集団らによって滅ぼされた。
千19年に、 北九州に、 到達し、
襲撃するようになった、 いわゆる、
「 刀伊の入寇 」 、 に至る、
女真系の人々の活動は、これらな、
十世紀から、 11世紀にかけての、
北東アジアの全体の情勢の変化により、
もたらされたもの、
と、 考えられる。
しかし、 当時の女真族の一部は、
高麗へ朝貢しており、
女真族が、 遠く、
日本の近海で海賊行為を行う、
ことは、 ほとんど、 前例がなく、
日本側に捕らわれた、 捕虜な、
3名が、 すべてが、 高麗人だった、
ことから、
権大納言、な、 源俊賢氏は、
女真族が、 高麗に朝貢している、
と、 すれば、
高麗の治下にあることになり、
高麗の取り締まり責任が、
問われるべきだ、 と、 主張した❗ 。
また、 『 小右記 』 、 でも、
海賊の中に、
新羅人が居た、 と、 述べている。
寛仁3年3月27日
( ユリウス暦 ; 1019年 5月4日 )、に、
刀伊は、 賊船 ; 約 50隻
( 約 3,000人 )の、船団を組んで、
突如として、 対馬に来襲し、
島の各地で、殺人や放火を繰り返した。
この時に、 国司の対馬守な、遠晴氏は、
島からの脱出に成功し、大宰府に逃れている。
賊徒めらは、 続いて、壱岐を襲撃。
老人・子供を殺し、壮年の男女を、
船にさらい、人家を焼いて、
牛馬家畜を食い荒らした。
賊徒めらの来襲の急報を聞いた、
国司の壱岐守な、 藤原理忠氏は、
ただちに、 147人の兵を率いて、
賊徒への征伐に向かうが、
3千人 、 という、 大集団には、敵わず、
玉砕してしまう。
藤原理忠氏の軍を打ち破った賊徒めらは、
次に、 壱岐嶋分寺を焼こうとした。
これに対し、嶋分寺側は、
常覚師 ( 島内の寺への総括責任者 ) 、
の指揮のもとで、
僧侶や地元の住人たちが抵抗、応戦した。
そして、 賊徒を、 3度まで撃退するが、
その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、
常覚師は、 1人で、島を脱出し、
事の次第を大宰府に報告へと向かった。
その後に、 寺に残った僧侶たちは、
全滅してしまい、 嶋分寺は陥落した。
この時、 嶋分寺は、全焼した。
その後に、刀伊勢は、 筑前国は、
怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、
4月9日には、博多を襲った。
博多には、 警固所、 と呼ばれる、
防御施設があり、
この一帯の要衝であった。
刀伊勢は、 警固所を焼こうとするものの、
大宰権帥 ゴンノソチ 、 な、
藤原隆家氏と、 大蔵種材氏らにより、
撃退された❗ 。
博多への上陸に失敗した、刀伊勢は、
4月13日 ( 5月20日 ) 、 に、
肥前国は、 松浦郡を襲ったが、
源知氏 ( 松浦党の祖 ) 、
に、 撃退され、 対馬を再襲撃した後に、
朝鮮半島へ撤退した。
藤原隆家氏らに撃退された、
刀伊の賊船の一団は、 高麗の沿岸にて、
同様の行為を行った。
『 小右記 』 、 には、
長嶺諸近氏と一緒に帰国した、
女性な、 十名のうちの、
内蔵石女さん、と、 多治比阿古見さんが、
大宰府に提出した、 報告書の、
内容な事らが、 記されており、
それによると
≒ 彼女らが、 朝鮮人らの証言ら、
の、 内容な事らを述べた、物でしかなく、
彼女らが、 朝鮮人ら、と、
女真人ら、とを、観察して、
区別し宛て得ていた、 訳では、
ないようである 、
高麗の沿岸では、毎日に、未明に、
上陸して、略奪し、男女を捕らえて、
強壮者を残して、老衰者を打ち殺し、
海に投じた、 という。
≒ 北朝鮮の者らによる、
日本人たちへの拉致事件らにおいても、
日本人の老人は、 殺して、
船から、海へ、捨てて、
より、 若い日本人らだけを、
連れ去った、 とする、 趣旨の、
証言が、 拉致への実行犯、の、
朝鮮人により、 成されてある 。
しかし、 賊は、
高麗の水軍に撃退され、
拉致された日本人の、 約300人が、
高麗に保護され、日本に送還された。
@ 高麗との関係 ;
上述の虜囚な、 内蔵石女さん、と、
多治比阿古見さんは、 高麗軍が、
刀伊の賊船を襲撃した時に、
賊によって、 海に放り込まれ、
高麗軍に救助された。
金海府で、 白布の衣服を支給され、
銀器で、食事を給される、などし、
手厚く、もてなされて、 帰国した。
しかし、こうした厚遇も、
シナ朝鮮人らの、習性な事としてもある、
犯罪加害行為らから成る、
反社会的な事象らを知っていた、
日本側に、 警戒心を抱かせることとなった。
『 小右記 』 、 では、
「 刀伊の攻撃は、 高麗の所為ではない、
と、 判ったとしても、 新羅は、
元の敵国であり、 国号を改めたと雖も、
なお、 野心の残っている疑いは、残る。
たとえ、 捕虜を送って来てくれたとしても、
悦びと為すべきではない。
勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、
渡航禁止の制が、崩れるかも知れない 」 、
と、 無書無牒による渡航を戒める、
大宰府の報告書を引用している❗ 。
日本は、 宋との関係が、
良好になっていたため、外国の脅威を、
あまり、感じなくなっていたようだ。
日本と契丹 ( 遼 ) 、は、
後々まで、 ほとんど、 交流がなく、
密航者は、 厳しく罰せられた。
有名な対馬銀山も焼損し、被害は、
対馬で殺された人は、 36人、
連行された人は、 346人
( うち、 男は、 102人、
女性・子供は、 244人 )、 であった。
また、 この時に連行された人の内、
270人ほどは、 高麗に救助され、
対馬に帰還した。
壱岐では、 壱岐守な、 藤原理忠氏も、
殺され、島人の男性 ; 44人、
僧侶は、 16人、 子供は、 29人、
女性は、 59人の、合計で、
148人が虐殺された❗。 さらに、
女性は、 239人が連行された❗。
壱岐に残った人は、諸司な、9人、
郡司な、 7人、 百姓
≒ 農員、に限らず、 漁師、
などの、 色々な生業 ナリワイ 、
を成してあった、 一般の人々 、
19人の、 計して、 35人であった。
この被害は、 壱岐の全体でなく、
壱岐の国衙の付近での被害、
と、 みられる。
記録されただけでも、 殺された人は、
365名、 拉致された人は、 1,289名、
牛馬は、 380匹、家屋は、 45棟以上。
女性と子供の被害が目立ち、
壱岐島では、 残り、とどまった住民が、
35名に過ぎなかった、 という。
@ 朝廷の対応 ;
権帥な、 藤原隆家氏は、
4月7日と4月8日に報告書を送り、
京都に届いたのは、 十日後の、
4月17日で、 4月18日には、
恩賞を約した、 勅符が発給されているが、
主要な戦闘は、 すでに終結していた。
6月29日に行われた、 陣定では、
恩賞が約された勅符が出されたのは、
戦闘の後だったため、
藤原行成、と、藤原公任が、
恩賞を不要とする、意見を述べた。
藤原実資氏は、 寛平6年
( 894年 ) 、の、
『 新羅の入寇 』、 の際の例を上げ、
今後のことを考え、約束がなくても、
恩賞を与えるべき、 と、述べた ❗ 。
これを受け、 本来は、 与える必要は、
無い、 とした上で、 恩賞を与える、
ことが、決議されている。
恩賞を受けた例としては、
戦闘で活躍した、 大蔵種材氏が、
壱岐守に叙任されている。
この際には、「 刀伊に捕らえられた 」、
という、 高麗人らの捕虜の証言ら、
についても、 検討されている。
≒ 高麗へ、 海賊らへの取り締まり、
でも、 不行き届きを成し、
朝鮮半島に被害性らをとどめずに、
日本人たちにまで、 被害性ら、
を、 及ぼした、事などについて、
高麗を、処罰する、
軍隊を派遣するべきであったが、
日本の行政側の幹部らが、
面倒な事態を成す事を避けて、
朝鮮人らの主張な事らを、
受け入れた実態らを成してしまい、
その後にも、 より、 シナ朝鮮人らの、
日本人らへの不意打ちな侵略行為ら、
が、 成され得る、
余計な、度合いを、
日本側へ宛てて、 成さしめてしまう、
よりどころな事象を成した。
賊の主体が、 高麗人でない、と、
判明したのは
≒ そういう事にしようと、
日本の行政側の幹部らを力付けたのは 、
7月7日 ( 8月10日 )、に、
高麗に密航していた、 対馬の判官代、な、
長嶺諸近氏が、帰国して、
朝鮮人らの証言らによる、 事情を報じ、
9月に、 高麗虜人送使の鄭子良が、
保護した日本人な、 270人を、
送り届けてきてからだ。
高麗使は、 翌年の、 2月に、
大宰府から、 高麗政府の下部機関な、
安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。
藤原隆家氏は、 この使者の労をねぎらい、
黄金; 300両を贈った、 という。
その叔父の道長氏との政争に敗れ、
九州へ左遷された、 藤原隆家氏は、
中関白家出身の公卿で、
眼病への治療のために、 と、して、
大宰権帥を拝命して、大宰府に出向していた。
専門の武官ではなかったが、
撃退の総指揮官として活躍したことで、
武名を挙げた。
九州武士団、 と、東国から派遣された、
武士団のうちで、 討伐に活躍した、
と、 記録に見える、 主な者として、
大蔵種材・光弘氏、
藤原明範・助高・友近・致孝氏、
平致行 ( 致光? )、平為賢
( 為方・大掾為賢 )・為忠 ( 為宗 )氏、
財部弘近・弘延氏、 紀重方氏、
文屋恵光 ( 忠光 ) 氏 、 多治久明氏、
源知氏 、 僧の、 常覚師らがいるが、
寄せ集めに近いものであった、
と、 いわれる。
源知氏は、 のちの松浦党への、
先祖らの、1人、 とみられ、その地で、
賊を討って、 最終的に、 逃亡させる、
活躍をした。
中世の大豪族・菊池氏は、
藤原隆家氏からの子孫、と伝えているが、
石井進氏は、 在地官人の、
大宰少弐、な、藤原蔵規氏、 なる人が、
実は、 先祖だったろう、
との、 見解を示している。
九州・東国武士団は、 『 鎮西平氏 』、
とも呼ばれ、このうちほ、 伊佐為賢
( 平為賢 ) 、氏が、 肥前国は、
鹿島藤津荘に土着し、肥前伊佐氏となった。
薩摩平氏は、 その後衛、 と、称している。
( おうえい、の、 がいこう ) は、
室町時代の応永 26年
( 1419年 ) 、 に起きた、
李氏朝鮮による、 倭寇、 への討伐を、
名目とした、 対馬への攻撃を指す。
糠岳戦争 、 とも言う。
朝鮮では、
自分たちが、 その過去に、
何度も、 日本人たち、への、
強姦と虐殺に拉致行為らとから成る、
不意打ち、な、侵略行為ら、を、
成して来てあり、
いわゆる、 和寇 、 は、
その、 日本人たちから成る、
当初においては、
反社会的な、 儒教型の、部族倫理員である、
事を、 通例としてある、
シナ朝鮮人らへ対する、
倫理的にも、妥当な、 報復であり、
偵察でもあった、が、
朝鮮人らによる、 この侵略行為を、
己亥東征 ( 기해동정 ) 、 と、 言い、
いつものごとく、
本当は、 全くの、 加害者であり、
犯罪加害性ら、への、 事後での、
共犯員でもある、
自らの側の、 凶悪な、
一般の、 倫理的な反社会性、を、
批判する、事を、 無しに、
全くの、 犯罪被害者である、
日本人たちの側に、 非がある、
ように、 事実らにも基づかない、
主張な事らを成して観せてある❗ 。
・・当時は、 足利義持将軍が、
明使を追い返す、 などして、
日明関係が悪化していたこともあり、
京都では、 当初は、 これを、
シナからの侵攻、 と誤解したために、
伏見宮貞成親王の『看聞日記』には、
「 大唐蜂起 」 、 と記されている。
朝鮮軍は、 227隻の船に、1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞茂の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した[1][3][4]。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であった[5]が結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
高麗史によると、倭寇は元寇以前にも存在したが[6]その活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった[7]。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという[8]。このため、1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出した[9](康応の外冦)。
高麗が李氏朝鮮に代わった後にも倭寇は半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、幕府で足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事など、特に日本側の対策により、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。
しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
経緯(朝鮮側の記録)
対馬側には同時代資料がないため、ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。西暦日付はユリウス暦で示す。
対馬侵攻の決定
朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが[10]、応永26年5月7日(1419年5月31日)、数千名の倭寇が朝鮮の庇仁県を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した[11]。この倭寇は5月12日(6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し[12]、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した[13]。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬からの倭寇という事を知り[14]、5月14日(6月7日)、対馬遠征を決定。世宗に出征を命じた。
朝鮮側は5月23日(6月16日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[15]、5月29日(6月22日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した[16]。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。
対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた[17]。
朝鮮軍の目的について、太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じたと『老松堂日本行録』に記述があるが、実際には交通の要衝を遮断し、占領を目的としていた[18]。
糠岳での戦闘
編集
6月19日(7月11日)、朝鮮軍は巨済島を出航した。[19]
6月20日(7月12日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。島の賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した[20]。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れ険阻な場所へ走り込む[21][22]。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、対馬の宗貞盛に送った。だが答えがないと[23]、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした[24]。また同日、倭冦に捕らわれていた明国人男女131人を救出する[25]。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、長く留まる意を示す[26]。
6月29日(7月21日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する[27]。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北。百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、対馬側は退いた。
6月29日、遠征の報告のため朝鮮に戻っていた従事官、趙義昫が対馬に帰ってきた[29]。この時、崔岐という太宗の使いが同行しており、遠征軍に二つの宣旨(手紙)を届け、全てを仔細に李従茂と論じたとおりせよと命令した[30]。その内容は、「7月は暴風が多いため、長期的に留まることを避けること」[31]、および「李従茂は宗貞盛及びその他の日本人に太宗の意を論ぜよ」[32]というものであった。このような楽観的とも言える宣旨がなされたのは、この時点では朝鮮軍が敗北したとの報告が太宗には届いていなかったためであった[33]。また、宗貞盛からも「朝鮮軍が長期間留まることを恐れるため、修好と撤退を願う。7月は暴風が吹くため大軍が留まるのは(朝鮮側にとっても)良いことではない」との文書が送られた[34]。7月3日、軍船は対馬から巨済島に戻った。
『世宗実録』では6月29日の戦いで死者百数十人[35]、7月10日(8月1日)の記録として戦亡者180人となっている[36]
糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に返還できない」という左議政(高位官吏)の主張があった[37]。
その為、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「今回の戦いで死者が、倭人20余名、朝鮮人100余名」と朝鮮側の被害を多く言った。
これについて、崔雲等が、
「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、
太宗がこれに賛同し、中国人たちを明へ帰すこととなった[39]。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂は左軍関連で非難を受けたが、
東征(対馬遠征)にとって、
敗北は少く、勝利は多かった、として、
後に、朴実は、免罪、
李従茂は、昇進する事になった。
また対馬については、
「我が族類にあらず(島倭非我族類)」
、と前言を翻し、さらに、
朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた、
対馬人
≒ 朝鮮人らが、 勝手に、
拉致し宛てていた、 日本人たちである、
可能性がある 、
を僻地に移転させることを決定した。
対馬再征計画
7月9日(7月31日)に、早くも対馬への再遠征が提案されている[42]が、実現しなかった。
対馬には、同時代の記録はない。
日本側の同時代資料には、
少弐満貞氏の注進状がある。
その内容は、以下のようなものであった。
「蒙古舟」の先陣五百余艘が対馬津に襲来し、少弐満貞の代官宗右衛門以下七百余騎が参陣し、度々合戦し、6月26日に終日戦い、異国の者どもは全て敗れ、その場で大半は討ち死にしたり、召し捕らえた。異国大将二名を生け捕りにし、その白状から、今回襲来した五百余艘は全て高麗国(朝鮮)の軍勢であること、唐船2万余艘が6月6日に日本に到着する予定であったが、大風のために唐船は到着せず、過半は沈没した。合戦中に奇瑞が起こり、また安楽寺(太宰府天満宮)でも怪異・奇瑞が起こった。
唐船2万余艘は事実ではないが、戦闘の日付は朝鮮側資料と合致する。満貞は自身が戦闘に参加したと足利義持に報告しているが[44]、朝鮮軍が短期で撤退したこともあって日本本土からの援軍は送られておらず、満貞も戦闘には参加していない。
対馬侵攻が実施されたのは、丁度室町幕府と明王朝との関係が悪化していた時期であった。看聞日記の5月23日の記載には、「大唐国・南蛮・高麗等、日本に責め来るべしと高麗より告げる。室町殿仰天す」(日付の観点から朝鮮王朝実録にある「5月23日に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝えた」ことを反映したものではない[45])とあるが、8月7日に少弐満貞が対馬に「蒙古舟先陣五百余艘」と注進したために、幕府と朝廷は三度目の元寇かと恐れ、対馬侵攻をその前兆と考える向きもあった。この外寇の真相を究明するため、室町幕府はこの年、大蔵経求請を名目に日本国王使・無涯亮倪一行を朝鮮に派遣した。翌年朝鮮からは回礼使・宋希璟一行が来日する。京都に着いた宋希璟は、初め足利義持に冷遇された。その原因が、応永の外寇にあると知った希璟は、陳外郎や禅僧らを介して、外寇の原因は倭寇にあることを力説し、義持の理解を得るに至った。こうして日朝関係は国家レベルでは和解した[46]。
また8月13日の『看聞日記』は7月15日付けの「探題持範注進状」として、以下の内容を紹介しているが、当時の九州探題は渋川義俊であり、現在は少弐満貞の注進状を基にした偽書とみなされている[47]。
6月20日、「蒙古・高麗」の軍勢500余艘が対馬島に押し寄せ、対馬を打ち取ったので、「探題持範」と太宰小弐(満貞)の軍勢がすぐに対馬の「浦々泊々の舟着」で日夜合戦したが、苦戦をしたので九カ国(九州)の軍勢を動員し、6月26日に合戦をし、異国の軍兵三千七百余人を打ち取り、海上に浮かぶ敵舟千三百余艘は、海賊に命じて攻撃させ、海に沈む者が甚だ多かった。雨風・雷・霰の発生や大将の女人が蒙古の舟に乗り移り、軍兵三百余人を手で海中に投げ入れるなど、合戦の最中に奇特の神変が多く起こった。6月27日に異国の残る兵はみな引き退き、7月2日には全ての敵舟が退散したが、これは「神明の威力」によるものである。
300年後に編纂された『宗氏家譜』(1719年)では、対馬側の反撃により糠岳で朝鮮左軍が大敗する等、苦戦を強いられた朝鮮軍は撤退したとしている[1]。この際の日本側の戦死者を123人、朝鮮兵の死者を2500人余りとしている[1]。朝鮮側の資料とは大きく食い違うが、探題持範注進状の3700人に近い数字となっている。
対馬の使臣
9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、信印の下賜を求めた[48]。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた[49][50]。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希璟が対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける[50]。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定[51][52]。属州化は有耶無耶となった。これ以降も朝鮮では、対馬が慶尚道に属する朝鮮の島であるという認識が残り[51]、現在でもそのような見方は「対馬島の日」条例などに代表されるように、一部には残っている。
戦後、対馬と朝鮮の間には、
貿易が一時的に縮小されるものの、
使節は相変わらず往来する。
1426年、早田左衛門大郎氏の要請で、
朝鮮は、 釜山浦、乃而浦、 以外にも、
塩浦を開港し、
両国間の貿易が再度活発化した。
しかし、来往する日本人の数が日々増え、
接待費などが朝鮮に負担となり、
1443年、朝鮮は、 対馬と、
嘉吉条約 ( 癸亥約条 ) 、 を結び、
解決する。
朝鮮は、 倭冦制御の一環として、
対馬の色々な人に官職を与え、 特に、
1461年、 貞盛の子、宗成職
(そうしげもと)にも官職を付与した。
以後も、 朝鮮は、 定期的に、
食料の少ない対馬に
( 海賊活動しないように ) 、
米を下賜することになったが、
宗氏の側では、 これを、
朝鮮からの貢物と称して、
日本国内に喧伝した。
朝鮮においても、 帰化・救恤、
等の、 政策を行ったため、
前期倭寇は、 一応は、
衰退していくが、
条約を結んだ翌年である、 1444年 、
をもって、 倭寇の終息を宣言し、
明にも報告した。
海賊貿易である倭寇が減ったことで、
正規の貿易は、増し、制限するために、
通交統制が用いられるようになる。
それが、 恒居倭人
( 朝鮮に居住する日本人 ) 、の、
増加を促し、
三浦の乱が起きた原因となった。
乱後の交渉は、対馬の宗氏が、
偽使を介して行ったので、
以後の日朝貿易は、
事実上の、 対馬による、独占となった。
その後に、 倭寇は、 一時的に、
衰退に向かうが、 約一世紀後には、
明の海禁を破った、 シナ人、と、
日本人とされる者ら、の集団が、
海に繰り出して、
後期倭寇として勃興した。
☆ 刀伊の入寇 ❗ 、へ宛てた、
Wikipedia 、の記述では、
朝鮮人らの証言らによって、
朝鮮人ら、ではない、 人種の人々が、
日本人たちへの、
侵略行為らの犯人らであるかのように、
主張されてある、が、
日本人たちへの侵略行為らへの、
日本人たちによる、
反撃のなされた現場らで、
捕らえられた、敵は、
朝鮮人ら、であり、
その朝鮮人らの証言らが、
自分たちの側には、 無い、 誰彼へ、
自分たちの負うべき、
犯罪加害性らへの責めの宛先、 を、
不当に、付けかえる、もの、で、
あり得る、事は、
シナ朝鮮人らの一般の、
反社会性を極めるべくある、
儒教型の、 土俗的な、 部族倫理性、 から、
当然に、 成され得るべき、
規定性の、 事であり、
全く、 信用するべき、
倫理的な妥当性の、 無い、ものであり、
むしろ、 朝鮮人らが、
主犯らである事への、
肯 ウベ 向きな、 材料になる事でもある。
@ 刀伊の入寇
( とい、の、にゅうこう ) 、 は、
寛仁3年 ( 1019年 ) 、 に、
女真族 ( 満洲民族 ) 、 の一派、
と、 みられる、 集団を主体にした、
海賊が、 壱岐・対馬を襲い、 更に、
筑前に侵攻した事件。
刀伊の来寇 、 ともいう。
刀伊とは、 高麗語で、
高麗の以東の夷狄 ( いてき ) 、
つまり、 東夷を指す、 toi 、 に、
日本文字を当てた物とされている。
この事件に関しては、 『 小右記 』、
『 朝野群載 』、 等が、詳しい。
☆ 日本の沿岸での海賊行為の頻発 ❗;
8百年代な、 9世紀から、
千年代な、 11世紀に掛けての日本は、
『 記録に残るだけでも 』、
新羅や高麗、 などの、
外国の海賊による、 襲撃・略奪を、
『 数十回 』 ❗ 、は、 受けており、
特に、 酷い被害を被ったのが、
筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の、
九州の沿岸であった。
刀伊に連行された、 対馬の判官な、
長嶺諸近氏は、 賊の隙をうかがい、
脱出後に、 連れ去られた、
家族の安否を心配して、 ひそかに、
高麗に渡り、 朝鮮人らの証言ら、の、
内容な、 事らでしかない、
情報らを得た。
長嶺諸近氏が、 朝鮮人らから、
聞いたところでは、 高麗は、
刀伊と戦い、 撃退したこと、また、
日本人な、 捕虜、の、 300人を救出した、
こと、しかし、
長嶺諸近氏の家族員らの多くは、
殺されていたこと、
侵攻の主体は、 高麗ではなく、
刀伊であった、
と、 朝鮮人らの証言ら、が、
指して観せている、 こと、 などの、
情報らを得た。
十世紀の前後に、資料に現れる、
東丹国や熟女直の母体となった人々で、
当時は、 ウラジオストク方面から、
日本海へ進出したグループらのうち、
刀伊の入寇を担った、
と、 朝鮮人らの証言ら、と、
外国との、 面倒な事を避ける、
事に、 自らの、 安楽性を見いだし得る、
立場にあった、 日本の行政側の、
幹部ら、によって、 されてある、
女真族、 と思われる集団は、
日本海の沿岸を、 『 朝鮮半島づたいに 』
≒ 朝鮮の各地に、 朝鮮人、な、
内応者らなり、 内通者らなり、な、
共犯員らや、 共犯の、 乗組員らを得て 、
南下して来たグループであった、
と、 考えられる。
13世紀の初頭に、 蒲鮮万奴は、
シナの東北部に、 大真国を建てたが、
これらな、 日本海の沿岸部に進出していた、
女真族たちも、これに加わっており、
この時期に、 ウラジオストク、の周辺や、
沿海州の周辺の、 日本海側には、
多数の山城が建設された。
しかし、 日本海の側沿岸部に進出した、
山城群は、 1220年代に、
モンゴル帝国軍により、 ことごとく、
陥落したようで、近年の発掘報告によれば、
13, 14世紀は、 沿海州での、
山城跡や住居址、などの遺構は、
その後に、 使用された形跡が、
ほとんど、 確認できず、これによって、
日本海の沿岸部に進出していた、
女真グループは、 実質において、
壊滅、ないし、 大幅に減衰した、
と、 思われる。
かわって、 モンゴル帝国へ、
早期に従属した、 アムール川水系の、
女真系員らが、 明代まで発展し、
13世紀の半ば以降の、 北東アジアから、
オホーツク海方面の交易流途の主流は、
日本海の沿岸部から、
内陸の、 アムール川水系へ、
大きく、 『 敷堵 シート 』
≒ 『 シフト 』 、
したもの、 と、 思われる。
いわゆる、 元寇 ( 文永・弘安の役 ) 、
の前後に、 日本側は、 北方からの、
蒙古の来襲を警戒していた、
ことが、 知られているが、これに反して、
元朝側の資料で、
アムール川、を以東の地域の、
地理概念上に、 日本は、
含まれていなかったようだ。
この認識の差異も、 内陸の、
アムール水系への交易路の敷堵が、
大きく原因している、
ことが、 推測されている。
@ 刀伊の入寇までの北東アジア情勢 ;
926年に、 契丹に、 渤海が滅ぼされ、
さらに、 985年には、
渤海の遺民が、 鴨緑江の流域に建てた、
定安国も、 契丹の聖宗に、 滅ぼされた。
当時の東北部にいた、
靺鞨・女真系の人々は、 渤海と、
共存・共生関係にあり、 豹の皮、
などの、 産品を、
渤海を通じて、 宋などに輸出していた。
十世紀の前半の、 契丹の進出と、
交易相手だった、 渤海が消失した、
ことで、 女真、 などが利用していた、
従来の交易流途は、 大幅に、
縮小を余儀なくされ、さらに、
991年には、 契丹が、 鴨緑江の流域に、
三柵を設置し、女真から、宋、
などへの、 西方への交易流途が、
閉ざされてしまった。
女真による高麗の沿岸部への、
襲撃が、 活発化するのは、
この頃からだ。
千5年に、 高麗で初めて、
女真による、 沿岸部からの海賊活動が、
報告されるようになり、
千18年には、 鬱陵島にあった、
于山国が、 これらな、
女真集団らによって滅ぼされた。
千19年に、 北九州に、 到達し、
襲撃するようになった、 いわゆる、
「 刀伊の入寇 」 、 に至る、
女真系の人々の活動は、これらな、
十世紀から、 11世紀にかけての、
北東アジアの全体の情勢の変化により、
もたらされたもの、
と、 考えられる。
しかし、 当時の女真族の一部は、
高麗へ朝貢しており、
女真族が、 遠く、
日本の近海で海賊行為を行う、
ことは、 ほとんど、 前例がなく、
日本側に捕らわれた、 捕虜な、
3名が、 すべてが、 高麗人だった、
ことから、
権大納言、な、 源俊賢氏は、
女真族が、 高麗に朝貢している、
と、 すれば、
高麗の治下にあることになり、
高麗の取り締まり責任が、
問われるべきだ、 と、 主張した❗ 。
また、 『 小右記 』 、 でも、
海賊の中に、
新羅人が居た、 と、 述べている。
寛仁3年3月27日
( ユリウス暦 ; 1019年 5月4日 )、に、
刀伊は、 賊船 ; 約 50隻
( 約 3,000人 )の、船団を組んで、
突如として、 対馬に来襲し、
島の各地で、殺人や放火を繰り返した。
この時に、 国司の対馬守な、遠晴氏は、
島からの脱出に成功し、大宰府に逃れている。
賊徒めらは、 続いて、壱岐を襲撃。
老人・子供を殺し、壮年の男女を、
船にさらい、人家を焼いて、
牛馬家畜を食い荒らした。
賊徒めらの来襲の急報を聞いた、
国司の壱岐守な、 藤原理忠氏は、
ただちに、 147人の兵を率いて、
賊徒への征伐に向かうが、
3千人 、 という、 大集団には、敵わず、
玉砕してしまう。
藤原理忠氏の軍を打ち破った賊徒めらは、
次に、 壱岐嶋分寺を焼こうとした。
これに対し、嶋分寺側は、
常覚師 ( 島内の寺への総括責任者 ) 、
の指揮のもとで、
僧侶や地元の住人たちが抵抗、応戦した。
そして、 賊徒を、 3度まで撃退するが、
その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、
常覚師は、 1人で、島を脱出し、
事の次第を大宰府に報告へと向かった。
その後に、 寺に残った僧侶たちは、
全滅してしまい、 嶋分寺は陥落した。
この時、 嶋分寺は、全焼した。
その後に、刀伊勢は、 筑前国は、
怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、
4月9日には、博多を襲った。
博多には、 警固所、 と呼ばれる、
防御施設があり、
この一帯の要衝であった。
刀伊勢は、 警固所を焼こうとするものの、
大宰権帥 ゴンノソチ 、 な、
藤原隆家氏と、 大蔵種材氏らにより、
撃退された❗ 。
博多への上陸に失敗した、刀伊勢は、
4月13日 ( 5月20日 ) 、 に、
肥前国は、 松浦郡を襲ったが、
源知氏 ( 松浦党の祖 ) 、
に、 撃退され、 対馬を再襲撃した後に、
朝鮮半島へ撤退した。
藤原隆家氏らに撃退された、
刀伊の賊船の一団は、 高麗の沿岸にて、
同様の行為を行った。
『 小右記 』 、 には、
長嶺諸近氏と一緒に帰国した、
女性な、 十名のうちの、
内蔵石女さん、と、 多治比阿古見さんが、
大宰府に提出した、 報告書の、
内容な事らが、 記されており、
それによると
≒ 彼女らが、 朝鮮人らの証言ら、
の、 内容な事らを述べた、物でしかなく、
彼女らが、 朝鮮人ら、と、
女真人ら、とを、観察して、
区別し宛て得ていた、 訳では、
ないようである 、
高麗の沿岸では、毎日に、未明に、
上陸して、略奪し、男女を捕らえて、
強壮者を残して、老衰者を打ち殺し、
海に投じた、 という。
≒ 北朝鮮の者らによる、
日本人たちへの拉致事件らにおいても、
日本人の老人は、 殺して、
船から、海へ、捨てて、
より、 若い日本人らだけを、
連れ去った、 とする、 趣旨の、
証言が、 拉致への実行犯、の、
朝鮮人により、 成されてある 。
しかし、 賊は、
高麗の水軍に撃退され、
拉致された日本人の、 約300人が、
高麗に保護され、日本に送還された。
@ 高麗との関係 ;
上述の虜囚な、 内蔵石女さん、と、
多治比阿古見さんは、 高麗軍が、
刀伊の賊船を襲撃した時に、
賊によって、 海に放り込まれ、
高麗軍に救助された。
金海府で、 白布の衣服を支給され、
銀器で、食事を給される、などし、
手厚く、もてなされて、 帰国した。
しかし、こうした厚遇も、
シナ朝鮮人らの、習性な事としてもある、
犯罪加害行為らから成る、
反社会的な事象らを知っていた、
日本側に、 警戒心を抱かせることとなった。
『 小右記 』 、 では、
「 刀伊の攻撃は、 高麗の所為ではない、
と、 判ったとしても、 新羅は、
元の敵国であり、 国号を改めたと雖も、
なお、 野心の残っている疑いは、残る。
たとえ、 捕虜を送って来てくれたとしても、
悦びと為すべきではない。
勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、
渡航禁止の制が、崩れるかも知れない 」 、
と、 無書無牒による渡航を戒める、
大宰府の報告書を引用している❗ 。
日本は、 宋との関係が、
良好になっていたため、外国の脅威を、
あまり、感じなくなっていたようだ。
日本と契丹 ( 遼 ) 、は、
後々まで、 ほとんど、 交流がなく、
密航者は、 厳しく罰せられた。
有名な対馬銀山も焼損し、被害は、
対馬で殺された人は、 36人、
連行された人は、 346人
( うち、 男は、 102人、
女性・子供は、 244人 )、 であった。
また、 この時に連行された人の内、
270人ほどは、 高麗に救助され、
対馬に帰還した。
壱岐では、 壱岐守な、 藤原理忠氏も、
殺され、島人の男性 ; 44人、
僧侶は、 16人、 子供は、 29人、
女性は、 59人の、合計で、
148人が虐殺された❗。 さらに、
女性は、 239人が連行された❗。
壱岐に残った人は、諸司な、9人、
郡司な、 7人、 百姓
≒ 農員、に限らず、 漁師、
などの、 色々な生業 ナリワイ 、
を成してあった、 一般の人々 、
19人の、 計して、 35人であった。
この被害は、 壱岐の全体でなく、
壱岐の国衙の付近での被害、
と、 みられる。
記録されただけでも、 殺された人は、
365名、 拉致された人は、 1,289名、
牛馬は、 380匹、家屋は、 45棟以上。
女性と子供の被害が目立ち、
壱岐島では、 残り、とどまった住民が、
35名に過ぎなかった、 という。
@ 朝廷の対応 ;
権帥な、 藤原隆家氏は、
4月7日と4月8日に報告書を送り、
京都に届いたのは、 十日後の、
4月17日で、 4月18日には、
恩賞を約した、 勅符が発給されているが、
主要な戦闘は、 すでに終結していた。
6月29日に行われた、 陣定では、
恩賞が約された勅符が出されたのは、
戦闘の後だったため、
藤原行成、と、藤原公任が、
恩賞を不要とする、意見を述べた。
藤原実資氏は、 寛平6年
( 894年 ) 、の、
『 新羅の入寇 』、 の際の例を上げ、
今後のことを考え、約束がなくても、
恩賞を与えるべき、 と、述べた ❗ 。
これを受け、 本来は、 与える必要は、
無い、 とした上で、 恩賞を与える、
ことが、決議されている。
恩賞を受けた例としては、
戦闘で活躍した、 大蔵種材氏が、
壱岐守に叙任されている。
この際には、「 刀伊に捕らえられた 」、
という、 高麗人らの捕虜の証言ら、
についても、 検討されている。
≒ 高麗へ、 海賊らへの取り締まり、
でも、 不行き届きを成し、
朝鮮半島に被害性らをとどめずに、
日本人たちにまで、 被害性ら、
を、 及ぼした、事などについて、
高麗を、処罰する、
軍隊を派遣するべきであったが、
日本の行政側の幹部らが、
面倒な事態を成す事を避けて、
朝鮮人らの主張な事らを、
受け入れた実態らを成してしまい、
その後にも、 より、 シナ朝鮮人らの、
日本人らへの不意打ちな侵略行為ら、
が、 成され得る、
余計な、度合いを、
日本側へ宛てて、 成さしめてしまう、
よりどころな事象を成した。
賊の主体が、 高麗人でない、と、
判明したのは
≒ そういう事にしようと、
日本の行政側の幹部らを力付けたのは 、
7月7日 ( 8月10日 )、に、
高麗に密航していた、 対馬の判官代、な、
長嶺諸近氏が、帰国して、
朝鮮人らの証言らによる、 事情を報じ、
9月に、 高麗虜人送使の鄭子良が、
保護した日本人な、 270人を、
送り届けてきてからだ。
高麗使は、 翌年の、 2月に、
大宰府から、 高麗政府の下部機関な、
安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。
藤原隆家氏は、 この使者の労をねぎらい、
黄金; 300両を贈った、 という。
その叔父の道長氏との政争に敗れ、
九州へ左遷された、 藤原隆家氏は、
中関白家出身の公卿で、
眼病への治療のために、 と、して、
大宰権帥を拝命して、大宰府に出向していた。
専門の武官ではなかったが、
撃退の総指揮官として活躍したことで、
武名を挙げた。
九州武士団、 と、東国から派遣された、
武士団のうちで、 討伐に活躍した、
と、 記録に見える、 主な者として、
大蔵種材・光弘氏、
藤原明範・助高・友近・致孝氏、
平致行 ( 致光? )、平為賢
( 為方・大掾為賢 )・為忠 ( 為宗 )氏、
財部弘近・弘延氏、 紀重方氏、
文屋恵光 ( 忠光 ) 氏 、 多治久明氏、
源知氏 、 僧の、 常覚師らがいるが、
寄せ集めに近いものであった、
と、 いわれる。
源知氏は、 のちの松浦党への、
先祖らの、1人、 とみられ、その地で、
賊を討って、 最終的に、 逃亡させる、
活躍をした。
中世の大豪族・菊池氏は、
藤原隆家氏からの子孫、と伝えているが、
石井進氏は、 在地官人の、
大宰少弐、な、藤原蔵規氏、 なる人が、
実は、 先祖だったろう、
との、 見解を示している。
九州・東国武士団は、 『 鎮西平氏 』、
とも呼ばれ、このうちほ、 伊佐為賢
( 平為賢 ) 、氏が、 肥前国は、
鹿島藤津荘に土着し、肥前伊佐氏となった。
薩摩平氏は、 その後衛、 と、称している。