瀬淵きゃぶ、JAZZと珈琲、そしていくつかの考える事柄

       日々、時々の事柄に、JAZZを聴き、珈琲を飲みながら考える。

川田亜子が死んだ。

2008年05月27日 03時28分25秒 | ジャーナル

元TBSのアナウンサーで、現在フリーアナウンサーの川田亜子が自殺した。
産経新聞のネットで、元気だった頃の写真が何枚も載っている。

それを見て、つくづくきれいだなあと思った。もう二度と、この人には会えないんだ。感じのいい人だなあと思っていたものだから、あえて、会うという言葉を使った。

死ぬなよ。そう思う。
死んだら、なにからなにまでなくなっちゃって、全部パーだ。つまんないだろ。そんなの。

自殺を考えているすべての人にいいたい。
死ぬなよ。生きてりゃなにかいいことあるさと、つぶやいてほしい。


                     瀬淵きゃぶ


家族

2008年05月14日 03時59分25秒 | 時々に思うこと

父が死んでもう何日も経つが、僕の心の中は、たいして変わらない。
親父、死んじまえよ。そう思っていたし、なんなら、もう一度、殺してやるとも、思っていた。
もっとも、それほど憎んでいたにもかかわらず、なにがしかの愛情というものがあって、人に、そのことを説明するのは難しい。

故郷に帰って、そこに直面したのは、弟たちの家族だ。
僕は、戸惑いと羨望を感じた。
たしかに、そこには、暖かい家族がある。ああでもない、こうでもないと言い合いながら、たんなる人と人とのふれあいだけでなく、肉親というもっとも血の濃い関係があった。

僕には、それがないんだ。
十九で上京してから、僕は、家族というものを持ったことがない。家族の暖かさと、面倒くささ、いつも誰かがなにかを言っている。そうしたことに、僕は、まったく慣れていない。

僕は、陰鬱な毎日を送っている。
父が死んだからではない。自分に家族がいないことにたいして、言いようのない憂鬱を感じているからだ。

一人だということは、いまさら始まったことではない。ずっと以前からそうだ。しかし、これからもそうであるということは、僕にとっては、胃の中で重くどろりとしたいつまでも消化できない塊が残り続けているということだ。


                                         瀬淵きゃぶ


自分の葬式は?

2008年05月06日 18時26分07秒 | 時々に思うこと

父が死んで、その後片付けにけっこうみんなが大変だった。そこで、それぞれ自分が死んだらどうしてほしいのかと、話し合いをはじめた。

僕は、墓はいらない。通夜も葬式もいらない。遺体は、その辺に放っておいてかまわなかった。どこかの国道に転がしておいてもいいし、ゴミ捨て場に捨てておいてくれてもかまわなかった。生ゴミで出してくれてもよい。

もっとも、僕自体をそうした場合、僕は、とっくにくたばっているわけだから関係ないが、捨てた人は、死体損壊とか死体遺棄とか刑事罰に問われるかもしれない。

そこで、きちんと火葬して、つまり、死体を焼いて、どこかの海に散骨してもらえれば、十分だった。
ところが、散骨でも、散骨してよい骨の量が決まっているらしく、最後はあまるらしい。

そこで、最後に、残った残骸は、トイレに捨てて水で流してくれれば、上等ではないかと、僕は考えている。


                                                  瀬淵きゃぶ


父が死んだ。

2008年05月01日 06時42分40秒 | 時々に思うこと

四月二十三日、六時二分、父が死んだ。
僕は、随分前から、それは多分二十年くらい前から、父が死んだら、その葬式にいくかいかないか迷っていた。

僕の父は、ひどい父だった。子供の頃から自分の長男をひどく厳しく、本人は厳格に育てたと言っているが、精神的な虐待に近かった。そして、一九七〇年、それまで住んでいた横浜の家を売り、横須賀に引っ越してきた頃は、本当にひどかった。

その少年は、精神を徹底的に痛めつけられた。毎日毎日だった。一九七二年、秋、その少年は、精神病棟に入院した。とうとう壊れて、いや、壊されてしまったんだ。
その少年は、学校では、天才とまで言われて、誰からも将来を嘱望されていた。

それが、たった十八で人生を終わりにしなければならなかった。
その少年が僕だ。

父の葬儀はカトリックの教会でおこなわれた。
父は信者ではなく、母が信者であったために、母が教会での葬儀を熱望したからだ。

父は、生前、「俺は、無神論者だ」と豪語し、「死んだら密葬にしてほしい」とまで言っていた。
きたねえじゃねえかよ親父と、僕は思った。
母が、教会で葬式を挙げてほしいと頼んで、呆けた本人がそれを受け入れただけだ。

父は、生前信仰に目覚めたわけでもなく、神に罪の許しを申し出たわけでもない。洗礼は、父が望んだわけではなく、母が死んだあと、無理矢理やってしまった。母は、もうどうかしていた。自分がやっていることがわからなくなっていた。

通夜を教会でやった。
僕は、喪服を着ず、ジーンズに革ジャンだった。
父の死にたいして、喪に服す気はない。

僕は、神様、僕はこれでいくぜ、親父、よく見ていろよ。僕はこれだぜと言いたかった。

喪服を着ないことで、周囲になんと思われようと、僕は平気だ。
翌日の告別式も、このスタイルでいくつもりだった。
それが、思わぬことで告別式に出られなくなり、なんとも、昔からでたくないなあと思っていた、父の葬式にでないことになってしまった。

まあ、人生というものは、皮肉にできているものだと、思う。

 

                  瀬淵きゃぶ