四月二十三日、六時二分、父が死んだ。
僕は、随分前から、それは多分二十年くらい前から、父が死んだら、その葬式にいくかいかないか迷っていた。
僕の父は、ひどい父だった。子供の頃から自分の長男をひどく厳しく、本人は厳格に育てたと言っているが、精神的な虐待に近かった。そして、一九七〇年、それまで住んでいた横浜の家を売り、横須賀に引っ越してきた頃は、本当にひどかった。
その少年は、精神を徹底的に痛めつけられた。毎日毎日だった。一九七二年、秋、その少年は、精神病棟に入院した。とうとう壊れて、いや、壊されてしまったんだ。
その少年は、学校では、天才とまで言われて、誰からも将来を嘱望されていた。
それが、たった十八で人生を終わりにしなければならなかった。
その少年が僕だ。
父の葬儀はカトリックの教会でおこなわれた。
父は信者ではなく、母が信者であったために、母が教会での葬儀を熱望したからだ。
父は、生前、「俺は、無神論者だ」と豪語し、「死んだら密葬にしてほしい」とまで言っていた。
きたねえじゃねえかよ親父と、僕は思った。
母が、教会で葬式を挙げてほしいと頼んで、呆けた本人がそれを受け入れただけだ。
父は、生前信仰に目覚めたわけでもなく、神に罪の許しを申し出たわけでもない。洗礼は、父が望んだわけではなく、母が死んだあと、無理矢理やってしまった。母は、もうどうかしていた。自分がやっていることがわからなくなっていた。
通夜を教会でやった。
僕は、喪服を着ず、ジーンズに革ジャンだった。
父の死にたいして、喪に服す気はない。
僕は、神様、僕はこれでいくぜ、親父、よく見ていろよ。僕はこれだぜと言いたかった。
喪服を着ないことで、周囲になんと思われようと、僕は平気だ。
翌日の告別式も、このスタイルでいくつもりだった。
それが、思わぬことで告別式に出られなくなり、なんとも、昔からでたくないなあと思っていた、父の葬式にでないことになってしまった。
まあ、人生というものは、皮肉にできているものだと、思う。
瀬淵きゃぶ