おばば院生,その後

主婦から40代で大学院入学・博士取得。非常勤日本語教師を掛け持ちしてきた凡人母院生。縁あって大学の先生に。

息子が研究者になっていく・・・

2014-12-30 10:48:19 | Weblog
子どもと言っても既に3人とも成人してしまいました。

しかしまだ一人も独立なさいません。

特に既に独立していなければならないはずの息子その1さんは、

相変わらずまったくその依存体質に変化がありません。


ふえーん


やっぱ育て方が悪いんだよね・・・


ほったらかしだったしね・・・




そんな中、同様に、いえ、それ以上にほったらかしだったものの周囲の手厚い保護のもとに成長なさった息子その2は、来春めでたく大学をご卒業(の予定)、都内の大学の院にご進学なさいます。

一族の誇りと言われています。

一族ってったって姉と妹と私の三人になっちゃいましたけどね・・・
(ああ、父母が生きていたらどんなにか喜んだことか・・・)


ま、そんな息子その2が帰省しました。
彼には実は先週東京で会ってるしさらにその2週間前には筑波でもあっているのですが、
話すたびに、ああ、こいつ研究者になっていってるんだ・・・
と思わされるのでありました。

使ってる統計の話とか、
研究出張の話とか

ディスコースの中で彼の使う語彙、表現、話題
そんなものがどんどん「研究の世界」のものになっていく。
そしておそらくその分、他の世界との間に壁がつくられていく。



と、ここまで書いて思ったのだが、
これは話の相手が私だからそういう語彙・表現・話題になっていってしまうという部分もある。

うー。そういうことか・・・。

息子と研究がらみの話をすることできっと私は息子の成長を楽しんでいるのだな。

同様に息子その1と声優がらみの話をすることで息子の成長を楽しまなければならないのかもしれないが、それは非常に難しい。





※以下、備忘録
ディスコースの協働構築性
agents
Bは同僚性を装いながら実は親として参加
あるいはその逆
参加者の意図(複数)の無意識性と異なる意図の同時存在・同時作用
参加者の持つ資源


チョコ募金

2014-12-27 11:10:07 | Weblog
投稿エッセイもどきでは日本語教育の社会的意義とか偉そうな主張を書きがちな私ですが、実は社会的活動への積極性に乏しい。
そのような私ですが、新聞で「チョコ募金」を知り、知人へのプレゼントにいいな、という純粋な(?)気持ちで5パックほど購入した。ささやかさが年末の感謝の気持ちを伝えるのにちょうどいいし、缶の花のイラストはイラクの子どもたちが書いたという以前に何と言ってもかわいいし、中身は六花亭のチョコだから味も保証付な上に3種類の小さなハートのチョコはおしゃれだし、募金じゃなくてもお買い上げです。
めったに人にプレゼントをあげない社交性ゼロの私ですが、(あげたくても恥ずかしくてあげられないんです。いえ、ほんとに)、これは差し上げた人が皆一様に微笑んでくれるので、その微笑がなんともうれしい。



皆さんも、ぜひ。

http://jim-net.org/choco/





誰か私にもくださーい。

辞書について考えた

2014-12-11 20:20:51 | Weblog
日曜日、はるばるT市まで辞書研究会に参加してきた。
(尚、辞書とは紙の辞書のことを言っているのではありません。辞書としての機能を持ったすべてです。私は紙崇拝ではないのであった)

通常実践実践と言っているので私と辞書は結びつかないかもしれないが、T大のI先生のおかげで辞書に関するプロジェクトのアルバイトをさせていただいている。その関係で、やはり仕事をさせていただいている以上、勉強しなくてはいけないでしょうというわけで、専門家ばかりの研究会なので敷居が高かったが、そこは平常心で参加してみた。


辞書
辞書
辞書

たかが辞書
されど辞書

辞書を取り巻く研究発表はどれもとにかくおもしろかった。
そんな中でG先生の発表の冒頭の言葉

「辞書の意味は人と人をつなぐことにあると考えています」

という言葉が印象に残った。
そういえば、留学生たちと肩を寄せて辞書(iPhone)を見ながら言いたい言葉を探しあう時間が私はとても好きだ。

また、「語義情報」を追及されてきたC先生の「辞書の一つ一つの語に関する情報が十分でないために、学習者はしかたなく母語の単語の意味に基づいて単語を使わざるを得ない」という言葉や、発表で紹介された「辞書が学習者の間違いを作る」という言葉にも考えさせられた。

そして、急速な技術革新によるウエアラブル端末と自動翻訳の完成の帰結として辞書は不要になるのではないかというのが最後のパネルのテーマとなった。

どうなのだろう?

ちょうど翌月曜日に「携帯電話」を1月のスピーチ大会のテーマにしようとしている留学生と彼のテーマを深めるための話をしていたとき、「(携帯の)自動翻訳があれば辞書機能は必要ない?」と聞いてみた。彼の答えは、自動翻訳を使わずいつも辞書(もちろんオンラインですよ)を使って書いたり話したりしているというものだった。決してまじめで優秀な学生ではないのだが、言葉を一つ一つ探して、つないでいくのだという。

そういえば私も結局そうやっているような気がする。


母語か外国語かにかかわらず、表現するということは一つ一つの言葉を探すということから始まるのかもしれない。

であるかぎり、辞書はきっとなくならない。

(もちろん、その形は変わっていくのだけれど。)