拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【後編】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月11日 | ラーメン
※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。
※写真は原則、著者による撮影。



(きしもと食堂の「そば(小)」。2022年7月)

その作り方も、やはり独特な沖縄そば□
 あくまでボクの個人的な思いであると断って書く。沖縄そばという麺料理は、一風変わっているように思える。理由は単純で、食べ慣れていないというのが最も大きいのではあるが、沖縄そばは日本蕎麦や饂飩とも違うし、もちろんボクたちが一般的にラーメンと呼んでいる食べ物の範疇には入らないと、食べるたびに(もっとも殆ど食べないのだが)感じるからだ。その理由は、
  1. 太い麺の食感は、ラーメン専門店のつけ麺などの太麺とは明らかに違う。饂飩のよう、と感じる人も多い。
  2. スープは脂分はほとんど感じることなく、まるで関西系の饂飩つゆのようである。
 近年の沖縄そばの麺は、中華麺同様かん水を使うことが多くなったそうだが、きしもと食堂は創業時より使用していないという。

 かん水はアルカリ塩水溶液であって、小麦粉に混ぜることで柔らかさや弾力性を持たせ、中華麺特有の麺の風味、感触、色合いを出す元、とされる。ただ、明治期の沖縄ではかん水が入手し辛く、その代用として“唐灰汁(とうあく)”を用いた、という。今でもきしもと食堂は、ガジュマルなどを燃やした際に出た「木灰(もっかい)」を水に入れてできた上澄み(灰汁)を、かん水の代わりに使っている。これもまたアルカリ性水溶液であるのだが、かん水では出せない、沖縄そば独特の歯ごたえやのど越し、風味を生み出すことができるという。ただ、これに関してボクは、まったく検証ができない。単純に分からない、からだ。

 無論、水溶液の種類だけではなく、火加減、水加減なども影響しているに違いない。きしもと食堂の厨房を見れば一般的な中華料理店と趣を異にしていることが一目でわかる。茹でる器は、鍋、というより“釜”、いやいや“窯”といった表現が近いだろう。

 スープのベースは豚と鰹。そう、琉球料理の、味わいを醸し出すという“出汁”そのものの素材を用いる。そしてそれに醤油ダレを合わせる。現代の凝ったラーメンに比べればずっとシンプルで、そして“和”的なテイストだ。そして、きしもと食堂はそれを、明治38年の創業時には”支那そば”と銘打って販売した。大正期になると、警察署長からの通達で県内全般の支那そばの名称は「琉球そば」へと変更するよう指示されたという記録もあるが、それもいつの間にか立ち消えとなり、きしもと食堂では今、単に「そば」としてだけ、品書きにして販売している。


(きしもと食堂のメニュー。これですべて。2022年7月)
 
 沖縄そば。

 沖縄には明治期まで独自の麺文化は育たなかったが、中国的な料理には馴染んでいた沖縄の人々だからこそ誕生させることのできた麺料理なのだ、とボクは考える。そしてそれは、“中国的な要素を備えた、日本的(琉球的・沖縄的)”なものだった、と言えるのではないか。


□日本的な“支那そば”が、中国的な“支那そば”を打ち破る?□
 ここで、明治中期以降大正前期までの沖縄そばの歴史を簡単にまとめておく(<>内は主要な出典元)
■1887~1897(明治20年代) 前之毛(現在の那覇市辻二丁目近辺と思われる)に唐人の経営するそば屋があった。明治23年の「沖縄県統計書」には、蕎麦屋の記述がある(日本蕎麦または沖縄そば)。<国立国会図書館Detail of reference example>
■1902(明治35)年4月9日 福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑近くに「支那そばや」を開業<新聞広告>
■1905(明治38)年 本部にて岸本恵愛・オミト夫妻により「きしもと食堂」が開業する<国立国会図書館Detail of reference example ほか多数>
■1905 (明治38)年11月 「支那そばや」従業員であった比嘉 牛(ウシ) が“字四前毛”にて「支那そば 比嘉店」を開業<新聞広告>。“ベェーラー(おしゃべり、の意)そば”と評判を取る。
■1907(明治40)年10月20日 “字四前之毛”にて「観海楼」開業。福州(中国福建州)出身の料理人・張添基 氏を雇い入れ、“支那麥蕎(そば。原文ママ)”・支那料理”を提供した<新聞広告>
■1907(明治40)年11月~12月 「支那そば 比嘉店」と「観海海」が客の奪い合いを展開。ヒラヤーチー(注12)を載せた「支那そば 比嘉店」が勝利する<琉球新報>
※「支那そば 比嘉店」と客の争奪戦を繰り広げたのは“唐人そば”であって、時期は1906年という記述もある<沖縄生麺協同組合公式サイト>
■1915(大正4)年 「不勉強屋」という店の広告に“琉球そば”の品書き。琉球そばの名称が出て来た最初の記録で、支那そばを琉球そばという名に変えろと言う那覇警察署長の指示であった<琉球新報>

 ここで注目すべきは、≪1907(明治40)年11月~12月 「支那そば 比嘉店」と「観海楼」が客の奪い合いを展開≫の部分である。この記述に関してはネット上に様々あるが、今回は琉球新報記事を基にする。それは1994(平成6)年2月22日付のもので、『「流文手帳」主宰の新城栄徳さん(四四)が」古い新聞や雑誌の広告を手掛かりにして調査』したものだと紹介されている。

 明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、結果的に比嘉店が勝利をおさめたというものだ。ボクの想像も入るのではあるが、「観海楼」の調理人は「福建州出身」であり、店自体は「支那料理の店」であったのに対し、比嘉店のほうは日本人の経営であり、あくまで“支那そば”の店であった。ということは、「観海楼」は現在で言う「中華そば」的な「支那そば」を提供していたのに対し、比嘉店はヒラヤーチという、玉子を使った簡易なものとはいえ沖縄の郷土料理を添えて、地元の人の味覚にあった「琉球料理」的な「支那そば」を出していた、そして結果的に比嘉店のほうに客は集まった、というのである。いわば、『中国的な支那そばに対し、日本的(沖縄的、琉球的)な支那そばのほうが人気はあった』ということだ。

 これについて、琉球新報では新城氏の言葉を引用し『明治35年に入って来た支那そばが、このころまでには沖縄独自に発展、この味が一般に定着して支那そば本場の味が負けたのではないか。既に沖縄そばが完成したと考えられる』としている。ボクもおそらくそういうことだろうと思っている。

 比嘉 牛の店と、きしもと食堂が開業したのは同じ明治38年。比嘉 牛の店は、その3年前に開業した“支那そばや”が母体となっている。那覇と本部では結構な距離があるが、同じ島内のことである、繁盛していた“支那そばや”の味にきしもと食堂が近づいていたとしても何ら不思議はない。

 明治35年誕生の“支那そばや”と、味がまったく同じかどうか定かではないけれど、少なくとも同一系統のテイストを持つ麺料理として、きしもと食堂の“支那そば”は地元の人々に長い間、ずっとずっと親しまれ、定着した。そしてその味は今もこうして、沖縄そばとして多くの人々に愛されている。つまり、沖縄そばは、14世紀以降大陸から入ってきた中国料理を源流とし、饗応料理から宮廷料理と変遷した結果としての琉球料理を基にして、当時の沖縄の人々の味覚に合わせた麺料理として明治末期から伝わってきたもの、ということだ。


□淺草來々軒と岐阜・丸デブと、きしもと食堂の相似点□
 ボクのブログ、淺草來々軒のことを書いたシリーズもの(注13)をお読みいただいた方には、來々軒の大正7~8年ころまでの味について書いた内容を思い出していただきたい。まだお読みいただいてない方にはお読みいただくとして、そこでボクは、あくまで仮設ではあるが、淺草來々軒の正統な後継店が存在するとしたなら、それは岐阜市内所在の『丸デブ』という店である、と結論付けた。そしてその『丸デブ』のスープの味は、同じ岐阜県内の飛騨高山のラーメンに繋がっている、とも(注14)。

 
(岐阜「丸デブ」外観と中華そば。2021年7月)

 『丸デブ』、それに飛騨高山ラーメン店の代表格と言える『まさごそば』『やよいそば』『つづみそば』などで食べたことがある方はお分かりだろうが、これらの店のスープは相当な“和のテイスト”を感じさせる。とりわけ『丸デブ』に関して言えば、スープは(誤解を恐れずに書けば)まんま“蕎麦つゆ”であるし、麺に至っても食感は“日本蕎麦”なのである。もちろん、分類すればそれは蕎麦粉を使用しないから日本蕎麦ではなく、小麦を用いたラーメンであるのだが、予備知識なしで入店し目をつぶって口に入れたら「うん、なかなかの蕎麦じゃあないか」と言ってしまう方が結構多いのではないか、という感じである。



 (飛騨高山の「つづみそば」<上>と「まさごそば」<下>。2021年7月)

 『丸デブ』の創業者・神谷氏は、淺草來々軒に勤務、大正6年に岐阜に戻って屋台の引き売りから始め、現在の店を開いたという。このあたりの経緯は、Web上に現在の店主(三代目)神谷房昭氏のインタビュー記事があるので(注15)参照されたい。

 麺はともかく、岐阜丸デブ、飛騨高山のいくつかの中華そば店のスープは、多くの現代の人々が思い浮かべるラーメンのスープというよりは、蕎麦つゆに近い。そして丸デブの初代主人は大正前期に浅草來々軒の味を持ち帰り、以後味は変えずに商売をしているところから、淺草來々軒の明治43年のの創業時から大正7~8年ごろまでのスープもまた、蕎麦つゆに似ていたのではないかと推測している。

 それでもだ。

 かつての淺草來々軒も、現在の丸デブや飛騨高山の中華そばも、ラーメンとして認知されているのだ。そう考えるなら、きしもと食堂をはじめとする沖縄そばが、“支那そば”として存在したこと・していることに違和感はないのである。

 大陸から日本に入って来た麺料理=支那そば は、日本人にとっては脂っぽくとても売れないと商売人たちは判断したのだろう。淺草來々軒をはじめとした東京の支那料理店提供する支那そばは、明治末期から大正中期まではできるだけ獣臭さを排除した。出汁素材には豚などの動物系は使わないようにした、あるいは使っても少量にしたのだろう。

 一方沖縄では、琉球料理の出汁として「豚」(と鰹)を使う食文化がすでに確立されていた。そのため、支那そば提供にあたってはスープ素材に豚を用いつつ、極力獣臭さ、豚脂を感じないように調理したのではないか。

 その結果、沖縄では明治末期に、横浜や東京では大正中期までに、岐阜や高山では大正中期から昭和初期にかけて、敢えて日本人に馴染みがありそうなテイストに仕上げて「支那そば」として売り出されたのだ。


(現在の那覇空港。1936=昭和11=年に那覇飛行場として開港。人々が高速で空を
飛ぶジェット機を利用するのは1950年代に入ってからのこと。2022年7月)

 インターネットどころか電話さえ普及しておらず、航空機が空を飛ぶのはもっとずっとずっと先の時代に、淺草來々軒やその他東京、横浜の支那そば提供店と、きしもと食堂など沖縄そばの店が相互に情報を交換していたとは考えにくいが、奇しくも和テイストという共通項を持った支那そばが南関東と沖縄、1600kmほど距離を隔てた両方の地で、ほぼ同時期に誕生したのであった。それは、大陸からの食文化を歓迎しながらも、日本人、というよりは「そこに住む人々の味覚に合う」味にした。それこそがずっと培われてきたその地ならではの「食文化」になるのであろう。


□120年近くの膨大な時間が流れれば□
 今まで書いてきたように、沖縄そばは、本土の支那そばとは別の歩みを進めて来た。というより、沖縄そばはその進化を明治末期に止め、その場に留まっているようにも思える。しかし結果として、沖縄そばは、岐阜の「丸デブ」などと同様、日本人、というよりそれを口にする地の人々が慣れ親しんだものになっていた。

 すなわち、スープは“饂飩つゆ”“蕎麦つゆ”を彷彿させたものの。そして麺はきしもと食堂が饂飩に、丸デブは蕎麦の触感に似たものそのまま、になっている。そして丸デブの源流は、大正中期ころまでの淺草來々軒にある、のである。

 似たようなテイストになった・・・これは単なる偶然かも知れない。しかし、ボクはそうは思わない。

 “食文化”というものは、その国、その地域において何十年、何百年とかけて培われてきたものである。饂飩は室町時代から、蕎麦は江戸時代初期から、それぞれ現在の形と近い状態となって庶民に親しまれてきた。一方支那そばは、箱館(函館)、横浜、新潟、神戸、長崎と言った“開港5港”の都市を中心に、明治中期に、ほぼ時を同じくして日本各地に伝わった。

 支那そばは大陸から入ってきた食だから、入ってきた当初は、日本人にはかなり苦手な部分もあった。苦手と言うよりは「食べ慣れていない」と言ったほうが良いかも知れない。それはスープの材料となった豚をはじめとした“獣の脂”の存在である。独特の臭みを放ち、ちょっとくどい脂は、明治期の日本人にはすんなりと受け入れられなかった。

 明治中期から明治末期にかけて、横浜の南京街(中華街)で支那そばを食べた日本人の多くは、脂がくどくて臭みもあるその味に対してかなり戸惑ったという記録がある。だから日本の商売人は、支那そば自体は美味しいと思いながらも、商売として成功させるために客に出す際は、その地に住む人たちが慣れ親しんだ味に近づけようとした。そしてそれは「丸デブ」や飛騨高山ラーメン、あるいは沖縄そばといった商品となり、今に至る。

 鎖国から解かれた日本人はやがて速やかに西洋料理に馴染んでいくことになるが、支那そばは大陸とは違った日本独自の食・ラーメンとし変化し、そしてて進化していくことになる。太平洋戦争でラーメンだけでなくほとんどすべての日本の食文化は中断するか途絶えるかした。しかしラーメンは戦後すぐ闇市などで復活し、瞬く間に大衆の中へと再び広がっていった。現在では、我が国を代表する“日本食”になり、広く海外へと進出するまでになったほどだ。

 そのルーツこそ、淺草來々軒であり、丸デブであり、きしもと食堂なのではないか。大正期から昭和初期、さらには戦後にかけて誕生した、所謂ご当地“支那そば”はやがて、“ラーメン”という食の一大ジャンルの中に収斂されていくのだが、沖縄そばはというと、長崎のちゃんぽんと同様、誕生した当時のまま、現代に伝えられていく。

 沖縄そばや長崎ちゃんぽんは、ラーメンとは同根だ。しかし、ともにかん水を用いず木灰汁を使うなど、その製法も敢えて進化することなく、その地に合った独自の伝統的な“食、麺料理”として残ったことになる。だから人によってはラーメンとはベツモノと言い、ある人はラーメンの一種に分類する。どちらが正しく、どちらかが間違いということはない。敢えて言うなら、ラーメンも沖縄そばも長崎ちゃんぽんも、“日本独自の麺料理”のヴァリエーションの一、と言える。

 考えてみれば、我々日本人は様々に独自の麺料理を考案してきた。冷やし中華、つけ麺と言ったポピュラーなモノのほか、B級グルメの代表格ソース焼きそばは、横手(秋田)、浪江(福島)、富士宮(静岡)といった“ご当地グルメ”としても知られるようになった。小樽には“小樽あんかけ焼きそば”があるし、山形、盛岡、大分には“冷麺”もある。盛岡ではまた“じゃじゃ麺”も知られるし、名古屋には“台湾まぜそば”があり、“太平燕(たいぴーえん)”は熊本の名物である。


(大分県別府・胡月店舗と冷麺。2021年9月)

 これら中華系(?)に限ったことではない。我ら日本人は“スパゲティ・ナポリタン”という、イタリア料理にもないパスタ料理すら自分の国の食べ物にしてしまっている。さらにそのヴァリエーションとして“納豆”やら“たらこ”、“ねぎ塩”といったソースまで考案してメニューに並べているではないか。

 1905(明治38)年、「きしもと食堂」開業。日露戦争が終わったその年は、奇しくものちに「人形町大勝軒」(注16)となる店の主人が屋台を引いて支那そばを売り始めた年とも言われる。横濱・南京街(中華街)から始まった支那そばは徐々に周辺に広がり、『日露戦争が終わったころから、東京の夜の町にはチャルメラの音が悲しく響き始めた』(注17)のであった。全国の特徴あるラーメンを紹介た、所謂“ラ本”のさきがけともなったと言われる「ベスト オブ ラーメン」(注18)ではこの年、明治38年を『ラーメン八十年の歴史はここに始まったのである』と書いている。まさに、日本のラーメン史上、エポックメイキング的な年ともいえる。

 東京と、およそ1,600kmも離れた沖縄の地で、明治の終わりの、ほぼ同じころに、新たな麺料理の歴史が始まったわけである。そして沖縄そばの歴史も。ラーメンのそれも、なお今継続されており、この先さらに長くゞ続くはずだ。


(とうに閉店してしまった、かつての「人形町大勝軒」。2021年5月)

 きしもと食堂は「我が国最古の現役ラーメン専門店」なのか? そして沖縄そばはラーメンの一ヴァリエーションであるのか? 

 120年近くという膨大な時間がそこに横たわり、さらにこれからも延び続けると考えれば、どうでも良いことのように思えるし、どうしても白黒決着をつけたいのなら、それはこの先を生きていく人たちで決めればよい、とボクはそんな気がするのである。

(2022年8月中旬 脱稿)


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□あとがきに代えて ボクの病気のこと その日が来るまで□
 ボクの病気のことはブログほかで何度も書いているので、経過報告もかねて簡潔に。

 2019年正月。激しい腹痛で、松も取れぬうちに病院を受診したボクに、医師が冷徹に告げた。「大腸がんです。イレウス(腸閉塞)を起こしているし、腹水もかなり溜まっています。すぐ手術しないと数日の命と思ってください」。

 即入院、翌日手術。医療機関での勤務経験が長いボクのことだ、検査結果のステージⅲbの診断は、一定の確率で他臓器に遠隔転移することだと知っていた。定年間際の仕事も辞めて、当然、抗がん剤治療も進めたが、案の定翌2020年夏、両肺転移、除去手術。さらに翌2021年夏、多発性の肝転移、腹膜播種、おまけに原発性肝外胆管がん、発症。最悪、余命半年と無常の宣告。がん発症の少し前から淺草來々軒のことを書き始めた。もう諦めて、日本全国のラーメンの物語を書こうなんて思ってね、日本全国、いろんなところを回り始めた。それこそ北は小樽、室蘭、旭川から、南は鹿児島、宮崎、そして・・・

 今年、2022年の夏。それでもボクはまだ生きている。がん発症以来、各5回の入院と手術を繰り返したが、ベッドに縛り付けられているわけでなく、まあ、横になっていることは随分と増えたのは事実だが、それでも何とか3泊程度の国内旅行なら。

 と思って沖縄に出かけたのだが、今帰仁(なきじん)の宿ではほとんど食事が摂れず、那覇市内のホテルに移ったら熱発して動けず。コロナではなかったが、帰京後も発熱。急性閉塞性胆管炎という二度目の診断で、六度目の入院をする始末であった。

 ボクのこの世の寿命は1年とか精々持って1年半とかそんなモノ。でも、死ぬまで生きるしかないのだし、生きるのだったら楽しまなくては。だから、動けなくなるまで、そして遊ぶお金が無くなるまで、どちらが先か分からんが、ボクはまだラーメンのことを書き続けるし、そのために全国あちこち、出かけるつもり。

 ボクのその日が来るまで、ぜひお付き合いを!


(沖縄・「美ら海」の風景。また行きたいが・・・2022年7月)



他の「拉麺歴史発掘館」へ。













(注12)ヒラヤーチー⇒沖縄の卵を使った郷土料理。『小麦粉を卵とだし(または水)で溶き、ネギやニラなどを散らして焼くもの。塩味のお好み焼きのような料理で、冷蔵庫に残っている野菜や常備している食材などで作る事が多く、最近はソースをつけて食す人も多いため、「沖縄風お好み焼き」と呼ばれることがある。平たく焼くという意味で「ヒラヤーチー」といわれる。食感は韓国料理のチヂミに近い』(農林水産省“うちの郷土料理 次世代に伝えたい大切な味”より)。
(注13)ボクのブログのシリーズ (1)【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da
(2)明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/10e274d87ab2698a1161374b2933f956
(注14)丸デブのスープ関して⇒『明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~Vol.5』
https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注15)丸デブ三代目主人神谷房昭氏のインタヴュー記事⇒株式会社KADOKAWA『Walkerplus』第25回“2017年で創業100周年!大正時代から変わらぬ味の中華そばが食べられる「丸デブ 総本店」2017年9月23日” https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/120324
(注16)人形町大勝軒⇒国内に四系統あるとされるラーメン店舗群「大勝軒」系で、もっとも歴史ある系統の店舗群の本店格にあたる。初代の渡辺半之助氏が、中国人・林仁軒氏と、1905(明治38)年ごろ、屋台の引き売りを始めた。1912(大正2)年ごろに店舗を構えたという。昭和初期には浅草にも大規模な支店を構えていた。最終的に暖簾分けは17店を数えたが、現在残るのは東京・浅草橋にある店のみである。新川(茅場町)にある大勝軒飯店はかつての暖簾分け店ではあるが、現在は経営者がまったく別の人になっており、人形町系とは無関係。以上、WEBサイト「Dairy Portal Z」2020年3月11日付の「大勝軒本店四代目インヴュー記事」より。https://dailyportalz.jp/kiji/coffee-taishoken
(注17)東京の夜にチャルメラの音⇒「東京おぼえ帳」より。平山蘆江・著、[初版]住吉書店、1952年刊。最新版はウェッジ文庫、2009年2月刊。
(注18)「ベストオブラーメン」⇒(「ベストオブラーメンin pocket」)麺’s CLUB ・篇、文藝春秋、1986年3月刊。




【前篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月11日 | ラーメン
※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。
※写真は原則、著者による撮影で、撮影年月を表示した


(沖縄・本部にある「きしもと食堂」。2022年7月)


□元首相が撃たれたその日。沖縄・本部。□
 強烈な日差しは、狂暴、という表現こそが相応しい。視線を泳がせば、ゆらゆらと陽炎があちらこちらで揺れている。頭上から降り注ぐような蝉の鳴き声は、そうさね、こういうことを蝉時雨と言う。

 ・・・そう、此処は沖縄、本部。創業は明治38年という「きしもと食堂」の真ん前。10数人の待ち客だ。まあ、これは想定内である。けれど、この陽射しの強烈さはどうよ。耐え難い。
 
 並び始めて30分ほど、店の脇の細い路を通ってください、と、ようやっと若いスタッフに言われ、奥の座敷にボク一人だけ招き入れられた。3帖ほどの空間には変色しかかった畳、四角い古いテーブル、ガタガタと音を立てるガラスの引き戸。ここに黒電話とブラウン管テレビでも置こうものなら、ボクの子どものころ、だ。つまりは、昭和30年代後半から40年代前半で、半世紀以上も前のこと。随分と、遠い昔に、なってしまったな。

 ぼんやりとそんな思いに浸っていると、「おまちどうさま」と声がする。ほんの2分かそこら待っただけで届いた一杯を頂けば、それはもう、想像の範囲にきっちり収まるモノだった。


(きしもと食堂の座敷席。すっきり整理されている。2022年7月)

 麺を啜れば、平打ちで、かなり密度の高いこと。つまりはミシッとした食感で喰いでがある。というか噛み応えありすぎ、こりゃあラーメンの麺と言うよりは・・・スープを飲めば、それほど脂(あぶら)がなく、あくまであっさり。麺を含めて書けば、ラーメンではなくて、やっぱり饂飩に近いのだ。だから、沖縄そばをラーメンの類に分けることは、やっぱりボクは抵抗がある。

 豚(骨)を相当量使っているはずなのだが、脂はないのはどういう訳か? スープはそれでも染み入るようだし、角煮状の三枚肉は甘めの味付けでボク好み。パサつき気味の蒲鉾は妙にそれはそれで存在感もある。麺だきゃあ、ごにょごにょと言葉を濁そう、か。

 此処の食堂の麺は、かん水不使用。その代わり、木灰(もっかい)、この店ではガジュマルなどを燃やした際に出た上澄みを使用しているそうである。製法は創業時から一切変えていないというのだが。沖縄そばがお好きな方は「隙なき一杯」「他店と明確に違う」と言った賛辞を贈るのであろうが、やっぱり、ボクは沖縄そばを含めて、沖縄料理全般が苦手だ。でも記憶に残る一杯であったことは、間違いない。ご馳走様。

 ・・・名護から少し入った、今帰仁(なきじん)の宿を出て、美ら海(ちゅらうみ)水族館を経て、路線バスを利用して店に着いたのは12時前。並びは10数人ほどだったが、帰り際に見ると、あらま30人超の大行列だ。行列の末尾の人が店に入れるのには、あと30分か40分、あるいはもう少し必要だろうか。

 沖縄に来る数日前にレンタカーを予約しようとしたらまったく取れず。前日搭乗した400近い座席を有するボーイング787 ANA国内線の旅客機もほぼ満席状態だったから、新型コロナの禍から観光客はかなり戻ったことは間違いない。にしても東京とは比較にならないほど強い陽射しが容赦なく照り付ける本部の街角で、30分以上待つのはしんどいだろうに。しかも何組かは泣く赤子を抱いている。親の身勝手もたいがいにしろよ、と呟くのは還暦過ぎの嫌味な爺の説教に過ぎないか。

 ・・・入店前に並んでいたときのこと。退屈しのぎにスマホでニュースを見れば、あろうことか安倍元首相が凶弾に倒れたという。まさか令和の平和なこの日本で、という思いは日本人なら誰でも思うことだろう。ボクは元首相の支援者ではなかったが、得体の知れない不安感と喪失感が暫く抜けずにいた。それは東日本大震災の際の原発メルトダウン時に似た感情だ。帰り際、並んでいる人たちの多くはスマホを見ていたが、さて、このニュースをどんな思いで見ていることか・・・そんな思いを置いて、来た道を戻ってまた路線バスに乗る。パイン、マンゴー、島バナナ、パッションフルーツ等々、魅惑の果物がズラリと並んで安価だよ、と今帰仁の宿のオーナーに教わった名護の市場に向かおうとしようかね。

 2022年、文月八日、正午前後。沖縄・本部にて


□きしもと食堂は「最古参の現役ラーメン専門店」なのか?□
 先ほどちらっと書いたが、ボクは沖縄そばを含む沖縄料理全般がとにかく苦手だ。だいぶ前のことになるが、予備知識なしで初めて沖縄料理店に行った際、出てくるものすべてが口に合わず、往生したことを思い出す。だから生涯、沖縄に行くことはあるまいと思っていたのだが・・・。2022年夏、僅か3泊ではあったが行くことになった。そのきっかけは、ボク自身の病気のこと(文末に記す)もあるのだが、本部にある「きしもと食堂」を知ったからというのが大きい。この店、考えようによっては「我が国最古の、現役ラーメン専門店」である・・・かも知れないのだから、どうしても行かなければならないという思いにかられてしまったのである。

 その「きしもと食堂」、創業は1905(明治38)年である。ある程度信頼できる資料が残されており、明治40年までに創業し、かつ現在まで営業していて、さらに創業時からラーメン類を提供していたと考えられる店は、全国で以下の数店のみである。
(※ボクが知らない店もあるだろうから、もしご存じの方がおいでになったらぜひご教示いただきたい)。

≪リスト1≫
 ◆聘珍楼 創業1884(明治17)年。横浜中華街。ただし、2022年5月に中華街の本店はクローズ。翌6月には運営企業が破産した。ただし、本店とは別の運営企業が日比谷・吉祥寺・大阪等で店舗営業をしている。
 ◆萬珍楼 創業明治25年。横浜中華街。
 ◆維新號 創業明治32年。当初は神保町で開業、現在の本店は赤坂である。
 ◆四海楼 明治32年の創業。長崎。「長崎ちゃんぽん、皿うどん発祥の中華料理の店」(公式サイトより)。
 ◆きしもと食堂 明治38年創業。沖縄県本部(もとぶ)。所謂沖縄そばの店である。
 ◆揚子江菜館 創業明治39年。東京・神保町。 


(上 運営企業が破産、店舗はクローズされた中華街・聘珍楼。2021年5月、
中 神保町・揚子江菜館の広東麺。2017年12月、
下 長崎の四海楼。周辺を圧倒する存在感。2020年8月

 僅かこれだけである。クローズしてしまったが、横浜聘珍楼は大型の店舗が犇めく横浜中華街でもひときわ目立つ、威厳に満ちた雰囲気を持つ建物だ。長崎四海楼もまた、周辺を圧倒する威容を誇り、極めて高い存在感を示している。この2店ほど大規模ではではないが、萬珍楼、維新號、揚子江菜館もまた、長い歴史を感じさせる凛とした雰囲気を持つ。きしもと食堂だけは、平屋建てで、地方の食堂然(実際、地方の食堂なのだが)とした佇まい。なんとまあ対照的であることか。

 上記でも触れているが、挙げた6店のうち、長崎四海楼はいわゆる「長崎ちゃんぽん」発祥の店。また、今回取り上げる沖縄本部の「きしもと食堂」は創業時に「支那そば」の名で提供していたのだが、食してみればラーメンとはちょっと異なる、所謂「沖縄そば」の店で、現在の店の品書きには「そば」とだけ記載がある。

 実はこのほかにも創業自体はかなり古い店もあるのだが、今回のリストには入れていない。これは「創業時からラーメン類を提供していると考えられる」という条件をつけたからだ。つまり、明治40年以前の創業であっても「現在はラーメン類を提供しているが、創業時は提供していなかった」店が結構あるのだ。多くは前身も飲食業であったにせよ、寿司屋のなどの他業種である。その簡単なリスト(明治40年より前、関東地区)を記しておく。

≪リスト2≫
◆山田家 創業は明治元年。千葉・京成線中山駅、法華経寺参道。ラーメン提供開始時期は不明。立地や店舗形態(お休み處的)から、ラーメンの提供は相当、後のことと推測される。
◆ゑちごや 創業明治10年。東京・春日。ラーメン提供は昭和25年ごろから。
◆とらや 創業明治20年。東京・柴又帝釈天参道。ラーメン提供開始時期は不明なるも前述「山田家」同様、立地等からラーメンの提供はずっと後のことであろう。
◆龍公亭 明治22年の創業。東京・神楽坂。当初は寿司店で、中華提供開始は大正期。
◆水新菜館 創業は明治32年ごろ。東京・浅草橋。中華店に衣替えをしたのは昭和後期。
◆関東以外の“最古参”では、福島・郡山ブラックラーメン提供店、「ますや本店」(郡山駅前ほか)で、その前身「ますや食堂」が明治元年に開業している。平成15年に一度クローズしているが再開。ラーメンの提供は、メニュー構成からしておそらく昭和初期には始まっていると推測されるが、詳しい開始時期は不明である。今後、時間が許せば全国の明治時代創業ラーメン店を探すつもりではあるが、さて?。

 ちなみにボクは≪リスト1、2≫の12店のうち、郡山の「ますや」を除く店のすべてに行っているのだが、実際は数店舗でしか話は聞けていない。こういう原稿を書くと決めていたのなら、きちんと話を聞く用意をするのであったのだが・・・

□現役最古参ラーメン(専門)店を決めることは可能なのか?□
 ネットや雑誌(MOOK本)等で、「日本の現役店で、最も古いラーメン専門店はどこだ?」といった問とその解とされる記述を結構見かける。しかし、ボクは以前から「その定義では、店の特定はできない」と考えている。その理由は、主に二つ。

一 ラーメン「専門店」の定義ができない 
 中華料理店はもとより、一般的に世間で「ラーメン専門店」と呼ばれる店の多くでも、サイドメニュー等で「ラーメン以外」の商品を提供している。餃子、シウマイ、チャーハン、ごはん、あるいはワンタン、野菜炒め等々・・・さて、「ラーメン以外のどんな品を出したら専門店でなくなるのか、なくならないのか」。それを決める機関もないし、そんな機関があったとして、その機関をだれが認証するのか。

二 同様、「ラーメン」の定義すらない
 たとえば、日本最大(つまり世界最大)のラーメン類投稿サイト・RDB(WEBサイト『ラーメン・データ・ベース』、注1)では、汁ありのいわゆる”ラーメン”はもちろんだが、つけ麺、あえそば、まぜそば、冷やし中華はラーメンの類に分類されている。ラーメン専門店とされる店がパスタで多用される小麦粉(デュラム小麦のセモリナ粉)を使用した麵でトマトソースのあえそばを提供しても“ラーメン”の範疇。沖縄そばも、長崎ちゃんぽんもラーメン類に分類されるのだが、一方、長崎の“皿うどん”はラーメン類には入らないし、やきそば、と名称がついていたらレヴューは受け付けない。そのほか、ラーメンには具はなくてもあってもよく、その素材は何でもOK。

 この分類、一WEBサイトが独自に決めているので、「何を基準にラーメン類かどうか決めているのか?」と、ときどき議論されている。ボクは、一般的に「長崎ちゃんぽん」をラーメン類とする人は少数派ではなかろうかと思うのである。沖縄そばも同様で、麺類・麺料理ではあるけれど、それぞれ「ちゃんぽん」「沖縄そば」という“食べ物”だ、と考える人が多いのでなかろうか。

 「まぜそば」がラーメン類で「やきそば」がそうでないという根拠を、同サイトでは示していない。いや、明確な根拠がないため、示せない、というのが正しいのではないか。

□尼崎「大貫」は今も昔も中華料理店□
 だからこそ、最古参の現役ラーメン(専門)店は? という問いは意味がない・・・として結論づけるのもありだが、ネット上などでは、主にラーメン評論家とされる人々が「この店だ」と断定的に書いていることを目にする。先日もあるラーメン評論家が「それは尼崎の『大貫』」だ、と書いているものをネット上で読んだ。尼崎「大貫」をそう紹介する記述は多いのであるが、それは明確に誤りだと指摘しておく。

 ボクは淺草來々軒のことを調べ始めて以降、ことラーメンの歴史に関しては、ネット上に溢れる情報や、新横浜の某博物館の公式サイトにある記述は、ほぼ信用しなくなった。ちょっと調べれば簡単に分かることなのだが、それを怠り、信ぴょう性が定かではない元ネタを、様々な人によって繰り返しコピペされるから、誤情報があたかも真実の如く語られてしまうようになる。長い間、淺草來々軒が「日本初のラーメン専門店」とされていた事例は、その典型であろう。

 ちょっと脇道に逸れる。

 淺草來々軒の「日本初のラーメン専門店」説は、1990年代に横浜の某所から発せられた誤情報が基になっているとボクは考えている。そのあたりはボクのブログ『【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン』に詳しい。

 そこでボクは『淺草來々軒の「日本初のラーメン専門店」説』は誤りだと、2020年の暮れに指摘したのだが、実はその2年近くも前に、近代食文化研究会というところによって明確に否定されていたのである(注2)。ボクは(間抜けなことに)そうとも知らず、古い書籍を求めたり、図書館に通ったりして原稿を必死になって書いていたわけだ。その著作を知ったのは、原稿をあらかた書き終え、ネット上に上げる寸前のことであった。

 研究会の食文化に関する著作は他にもあるが、ともかく綿密な調査と詳細な分析により、極めて的確な指摘等をなされている。幸い、ボクのブログをラーメン評論家の大崎裕史氏がネットで取り上げてくださったこともあって、研究会とは現在も連絡を取り合っている。


(尼崎「大貫」。黄色い看板に「中華料理」、暖簾には「やきめし」とある。2021年7月)

 さて、話を戻そう。

 尼崎「大貫」の件、である。ただし、ボクのブログの『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』(注3)でも書いているので、ごく簡単に、しかし補足も含めて記載しておく。
1.「大貫」は開業時も現在も、「ラーメン専門店」はでない。
 「大貫」は大正期の創業時に、神戸所在の20年超の営業歴のある中国料理店から調理人を招いた、と店舗公式サイトにも記述がある。その店の名を杏香楼、という。創業は1892(明治25)年ごろ。神戸初の本格的中華料理店・広東料理店であったという。場所は当時の南京町の南側であった(注4)。
 その杏香楼が開業してからおおよそ20年ほど経ってから、そこの調理人である“周”氏を招いて大貫は開業した。

 大貫の創業者で仙台出身の千坂長治氏は、淺草來々軒で食べた味が忘れられずに店を開いたとのことであるが、仙台⇒東京⇒神戸と移住した経緯が分からないため、千坂氏がどの程度淺草來々軒に通ったかは不明である。しかしながらいくら早く開け、海外との貿易も盛んだった神戸とはいえ、まだ中華料理店も極めて数が少なく、開業時千坂氏は24歳前後であった(つまり資金の余裕はないと推測する)ことを考慮すれば、東京市内(当時)でさえほとんどなかった中華そば専門店として大貫を開業したとは考えにくい。『神戸初の本格的中華料理店・広東料理店』から調理人を招いたということは、來々軒の味を追求して開業したということではなく、商売上の成功を優先し、本格的な”支那料理店“として開業したはずなのである。

 2021年7月、ボクは大貫に伺った。店頭の大きい黄色の看板には「中華料理 大貫」とあり、品書きには「五目そば」「やきめし」などとあった。さらに、この店の公式サイトでも「日本最古の中華そば店」であることを把握できていない、と明示している。


(尼崎「大貫」メニュー。2021年7月)

 大貫は開業時から、おそらくずっと「中華料理店」であった。少し考えれば大正時代の初期に「中華そば専門店」であったはずがないと理解できるだろう。少なくとも、現在の大貫は「ラーメン専門店」でないことは明白である。いつ、だれが、この店を「最も歴史がある、現役のラーメン専門店」と言い出した(書いた)のか分からないが、ネット情報の信用性に甚だ疑問符が付けられる典型的な例であろう。

□沖縄の“そば”の歴史は浅いけれど、中華料理は14世紀から□
 さて、ここで沖縄の“そば”と中華料理の歴史をごくごく簡単に記しておく。

 日清食品の元会長、というより“チキンラーメン”や“カップヌードル”等の考案者として知られる安藤百福氏の編著「日本めん百景」(注5)には『コムギが生育できない沖縄には、麺の歴史がない』『沖縄のめん食文化は新しい。沖縄ソバが食べられるようになるのは、明治中頃以降のことらしい。それまでの沖縄のめん食は、縁起ものとしてソウメンがあるくらい』などと書かれている。後述するが、明治20年代には沖縄に蕎麦屋があったというのだが、それが日本蕎麦屋なのか沖縄そばの店なのかははっきりしないという。

 かつての農林水産省の試験研究機関で、現在は国立研究開発法人「農業・食品産業技術総合研究機構」(農研機構)の研究資料『ソバ新品種の普及について』(注6)によれば『九州では古くからソバ栽培が行われていたが、沖縄ではソバ栽培自体が行われてこなかった』。これは、土壌などの条件はもちろん、沖縄特有の気象状況である台風の多さにもあるそうだ。資料では『ソバは台風被害を受けやすく、台風直撃により大きく減収』すると記述されている。日本蕎麦は「(沖縄)県内では馴染みが薄く、また、特に必要な食材でもなく、これまで本格的な栽培が行われることはなかった(『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』より。注7)」。

 それでも近年では沖縄県でも蕎麦の収穫は増えているそうだ。2020年の統計では沖縄県の蕎麦生産量(乾燥子実ベース)は46トンとある(注8)。もっとも、同年の都道府県別生産量首位の北海道の19,300トン(国内生産量の43.1%)、2位の長野県3,960トン(同8.8%)などとは比べるべくもなく、沖縄の生産量比率は僅か0.1%ではあるが。ちなみに小麦の都道府県別生産量を見ると(注9)、首位・北海道の62万8千トンは別格として、2位福岡5万7千トン、3位佐賀3万9千トンの九州勢と比較して沖縄のそれは17トンに過ぎない。

 つまり、沖縄は小麦も蕎麦も自県内ではほとんど生産されてきておらず、結果的に明治期まで、なかなか麺の食文化は育たなかったのである。

 一方、沖縄と中華料理の関係はどうだろうか? 玉村豊男・著「食の地平線」(注10)では次のような要旨で書かれている。

 ~十四世紀以降、琉球王国には中国から“冊封使”(注11)の一行がたびたび訪れていた。その一行は数百名となり、一様に「うまい中華料理が食べたい」と注文する。一行はまた、中国の珍しい食品を持ち込んだほか、中国から調理人を同行させ、琉球の包丁人に中国料理の作り方を教えもしたのだ~

 このことを、沖縄県の公式サイトの「沖縄の伝統的な食文化データベース」では、“冊封使饗応料理”とし、

「首里王府は大宴(七宴)を催して冊封使一行を歓待し、料理を振る舞いました。この饗応料理は大部分が中国料理でした」

 と記している。さらに、同じ沖縄県の公式サイトの中、『沖縄の伝統的な食文化の保存・普及・継承について』の項には次のような記載がある。実に興味深い。

 『沖縄の伝統的な食文化とは、琉球料理という沖縄独自の料理文化に基盤をおき、食材や調理法、風俗習慣などの様々な要素を包含した生活文化です。その底流には、自然や気候風土の尊重、家族・親族や地域とのつながりを大切にする精神、日中両国をはじめ各国との交流による影響などがあります』。
そして琉球料理とは、『沖縄で発展・継承されてきた伝統的料理で、以下の双方を源流として現在に受け継がれています。
1.琉球王朝時代に中国の冊封使や薩摩の在番奉行等を饗応するための料理が生まれ、調理技術や作法等を洗練させて宮廷料理として確立し、それが上流階級に伝わり、明治以降は一般家庭にも広がってさらに発展したもの、
2.亜熱帯・島嶼(とうしょ)の自然環境のもとで育まれてきた庶民料理』。

 さらに、その琉球料理の「各要素ごとの特徴 3.味わい(だし)」というのが、
『豚のだし(肉・骨)とかつおだしをベース(以下略)』
とされているのである。

 沖縄には麺の食文化は育たなかったものの、古くから中国との交流は盛んで、沖縄の人々は中国料理の作り方も教わっていた。やがてそれは饗応料理を生み出し、さらに宮廷料理へと変化し、しばらく時代が進んでも上流階級の者の口にしか入らなかったけれども、やがて琉球料理となって庶民の間に広がっていった。とりわけ、琉球料理の味わいを醸し出す“出汁”は、『豚と鰹節がベース』であり、まさに沖縄そばの出汁そのものになっていったわけである。

後編へ続く)



(注1)ラーメン・データ・ベース⇒https://ramendb.supleks.jp。2006年からWEB公開されている。運営会社は株式会社スープレックス。
(注2)近代食文化研究会が否定していた⇒「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」にて触れられている。同書は、新紀元社、2019年1月刊。第二版「お好み焼きの戦前史(第二版 Kindle版)」が電子書籍で発行されている。
(注3)ボクのブログ『明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 5』⇒https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注4)杏香楼の創業時期等⇒神戸商工会議所/2007年『第1回 神戸学検定 初級』問題より。1930=昭和5=年5月8日付大阪朝日新聞記事内で同店の記述があることから、その頃までは存在していた。
(注5)「日本めん百景」⇒安藤百福・編著、フーディアム・コミュニケーション。1991(平成3)年9月刊。
(注6)農研機構の研究資料『ソバ新品種の普及について』⇒九州沖縄農研農業経営研究資料第16号、原 貴洋(農研機構 九州沖縄農業研究センター)・著、2018年5月刊。
(注7)『沖縄県における新規品目ソバの普及上の問題点』⇒注6と同じ資料集より。山城梢(沖縄県農業研究センター名護支所)ほか・著。
(注8)2020年沖縄県の蕎麦生産量⇒農林水産省「令和2年産そば(乾燥子実)の田畑別作付面積、10a当たり収量及び収穫量」より
(注9)小麦の国内都道府県別生産量⇒注8と出典は同じ。
(注10)玉村豊男・著「食の地平線」⇒文藝春秋、1988年1月刊。
(注11)冊封使⇒冊封(さくほう)とは、各国の有力者が、中国皇帝から国王として承認を受けること。新国王の即位式をとりおこなうために、中国皇帝の命をうけた冊封使が特定の国々へ派遣された。冊封使が琉球にはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知(はんあんち)の時とも、1404年の武寧(ぶねい)王の時ともいわれている。(沖縄県立総合教育センター「琉球文化アーカイブ」より)