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おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

小説・エッセー。編著書100余冊、歴史小説『命燃ゆー養珠院お万の方と家康公』(幻冬舎ルネッサンス)好評!重版書店販売。

被災者を救う

2014-03-11 20:01:05 | 小説
"「お坊様よう。土左衛門が、いっぺぇ浜に打ち上げられているだよ。来てくんなせぇよ」
 坂道を若者が、大声を上げて駆け上がってきた。
 勝男の親代わりの坊様も、もう八十歳を越えて、昔のようなわけには行かないが、それでも村の子供たちに読み書きを教えたり、法事のお勤めをしたりしている。特に勝男がオランダ医学を勉強してきて、村人たちから「医者どん」と呼ばれて、有難がられているのをわが子のことのように喜び、誇りにしている。
「そうか。案じておったが、死者が多数出たのじゃな。それでは、浜で荼毘にふすから手の空いておる者は手伝うように呼び集めておきなさい。それに流れ着いた流木を山のように積んでおくのじゃぞ」
と、命じて、坂を杖付きながら下りて行った。
 入れ替わりに
「医者どんの先生さま。浜に虫の息の子供らや、女たちが寝転がっておるよう。今のうちなら助かるかも知れねぇから来てくだせぇな」
と、また村人が息を切らせて呼びに来た。
「ようく知らせてくれたのう。すぐに行くから水を用意しておきなさい。田尻の浜の崖から水が湧き出ておるから桶をもって行くとよいぞ」
と、行って、大急ぎで山を下りた。
 この村の者たちは、医者どんの先生の機転でみんな助かったが、隣近所の浜の者たちは、ほとんどの者が大波に浚われて、助かったものはわずかであった。
 そうこうしているときも余震が襲って来て肝を冷やすのであった。
 医者どんの先生と、お坊様は、被災した村人たちが、お寺や医療所で雨露をしのぎ、生活できるように指示したので救われた。

 茉莉子の幻想は、祖先が人々の役に立っているところまで進んでとどまりそうもない

尽きぬ幻想

2014-03-10 19:30:02 | 小説
「すると、ミゲルはお医者さんになって、村々の人たちのために尽くしたのだ。素晴らしい祖先がいたんだ」
 茉莉子は、感動して、さらに叔父様の手紙を読み進めた。
 
 医師になって、村に帰った祖先は、村を見下ろす山の中腹のお寺の隣に医療所を開いたので、とても信望があったようですが、さらにこんなことも我が家では語り継がれております。
 それは、大地震による津波の事件であります。
 数か月前からかすかな地鳴りがするので、不思議に思っていた。ある日の夕方、ゆらゆらと、かなり長い地震があった。医療所から南の空を眺めると、いつもは夕焼けの朱色に染まる空が、靄のかかったように白っぽいので、おかしいと思っていると、突然雷鳴が鳴り響いて、海水が沖まで干上がっててしまい、今まで見たこともない岩礁が現れたので、昔からの言い伝えを思い出したのだ。
 それは、浜の家々も人々もひと飲みにしてしまう大津波が押し寄せるのです。すぐに下働きの者に言いつけて、隣の寺の大鐘を打ち鳴らさせ、自分は本堂の屋根がえに使うために積み上げてある萱に火をつけた。
 その火は天高くに立ちのぼり、村人たちを驚かせた。
「あれよう、寺と医療所が火事だぞう」
「みんなで水をくみ上げて消すべぇよう」
と、村人たちは、老いも子供も寺へ駆けつけた。
 赤ん坊を背負った女たちも夢中になって坂道を上った。
 村人たちが寺に駆けつけて、しばらくすると沖から大波が、何度も押し寄せて来て、村の小さな家々を押し流してしまった。浜につないであった小舟は波の間に間に木の葉のように漂いながら沖の彼方へ消えて行った。
 大波が引いた後には、大石がごろごろと転がっているだけの空き地が広がっていた。

 茉莉子は、ほっとした。
「逃げ遅れた人は、いたのかなぁ。怪我をした人は、きっとオランダ医学で治療してやったに違いない。お寺の隣に医療所を建てたのは、親代わりの和尚様がいらっしゃるからだ」
 こうして、茉莉子の幻想は、尽きることがないのであった

ハワイからの手紙

2014-03-07 19:36:10 | 小説
茉莉子がエアーメールで手紙と雑誌をハワイに送って三か月がたったある日、湯浅太郎氏から返書が送られて来た。
その日は、休みだったからすぐに封を切った。達筆の日本文字で、きちんとした言葉遣い書状で、先ずそれに感心した。
「湯浅家の祖先を尋ねるあなた様に敬意を抱きました。小生は、ハワイにて喰うや喰わずの生活から事業を起こし、やっと息子に後を委ねたところです。それ故、念願のふるさとの岩和田にもまだ一度も戻っていないのです。あなた様が、わが家をお訪ね下さり、四百年近い昔の湯浅家の祖先をスペイン船の遭難事件に関係していることに思いめぐらしていること、小生は、その通りであろうと納得致しました。
じつは、わが家で先祖代々伝えられている話があるのです。それの真偽は、まったく証明の方法がないわけですが、サンフランシスコ号に乗船していたスペインの青年と、浜の娘とが結ばれて子供をもうけ、その子が湯浅を名乗ったと言うのです。
その子は、長崎に出てオランダ医学を学び、貧しい房総の漁村の人々の医療に勤しんだと言うのです。ただ、小生の父は漁村にて、地引網漁で獲った鰯を魚油と肥料にする事業に携わっており、医師とは縁がないのです」
 茉莉子は、ここまで読んで、想像をめぐらしたのである

エアーメール

2014-03-06 19:45:20 | 小説
茉莉子は、T先生のアトリエでハワイの写真の掲載されたツアー会社の雑誌を見せていただいた。
「どうですか。なかなかの出来栄えでしょう。やっぱりモデルさんがいいと写りがいいですなぁ。会社からもさすがは先生だ、などとお褒めの言葉をいただきましたよ」
「先生の作品は、モデル仲間でも評判ですから私を誘って下さって本当に有難うございました」
「そうかねぇ、わたしは、あなたのスタイルがハワイの風景にマッチしているからだと思いますよ。雑誌の編集長からは、モデルさんは、日本人離れした美貌ですね。それにスタイルも抜群です。と、絶賛されましたよ」
「まぁ、どうしましょう。そうおっしゃられると、恥ずかしいですよ」
「いやいや、どうして、どうして。編集長からは、またお願いしたいと言う話でしたよ」
と、T先生は、真顔で話された。
 その雑誌を二部いただいて帰宅した茉莉子は、すぐに母に見せると、
「あなたは、確かに日本人離れしたスタイルですねぇ。もしかすると、本当にスペイン人の血が流れているのかもしれませんよ」
と、写真と、茉莉子の顔を何度も見比べるのであった。
 夕方、父にもお見せすると、
「ふうむ」
と、行ったきりで穴の空くほど写真を見つめていた。
「明日、郵便局から一部をハワイの本家へ送ろうかしら」
と、言うと、母が
「それは、とても喜ばれますよ。送ってあげなさい。ねぇお父さん」
と、父を見た。
「本家とは、父の代からまったく付き合っていなかったが、茉莉子のお蔭で思いがけなくハワイにまで付き合いが広がって良かったなぁ」
笑顔で、応えた。
 その夜、茉莉子は、ハワイの叔父様と店長宛に手紙を書いた。それは、茉莉子が想像している湯浅家のルーツを詳細に綴ったものである。浜の娘の鯛と、スペイン船の若者が結ばれて、湯浅家は今に続いていると言うことである。
「はたして、ヨーロッパ戦線の勇士の叔父様にこの話が通じるかどうかは分からないが」どうしても伝えたかったのである。
手紙を書き終えると、あて名を封筒に書く前に疲れてしまい、眠りに落ちてしまった


海の向こうへ

2014-03-04 18:12:36 | 小説
茉莉子は、夢に出てくるビスカイノの「金銀島」を知りたくなったので、神田の古本屋街で古書を探したが、なかなか見つからなかった。それで、町の図書館で百科事典を開いたらかなり詳しく書かれていた。
 ビスカイーノはスペインの探検家、1548年生まれで1615年没。1609年9月30日(旧暦)スペイン船サンフランシスコ号が上総国岩和田(千葉県御宿町)海岸に漂着し、前フィリッピン提督ドン・ロドリゴ乗船していた。江戸幕府は三浦按針建造の船を貸与してヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ国)のアカプルコ港に帰す。この船には20人ほどの日本人商人も乗船していた。
 1611年6月10日浦賀港に救助の答礼使としてセバスティアン・ビスカイーノが派遣された。江戸城に於いて秀忠将軍、駿府城にて大御所家康に謁見し、救助の謝礼と、通商条約の締結、通商とカトリックの布教活動等を求めるが進展せず、沿岸の測量の許可を得る。金銀島の探索が狙いで、東北から九州までの太平洋岸の地図を作成し、1612年9月16日サンフランシスコ2世号で浦賀を出港し帰国の途に就くが、11月14日暴風により船は大破し浦賀に戻る。
 帰国の費用がないために1613年10月28日に伊達政宗派遣の遣欧使節団(団長支倉常長)と共に月浦よりサン・ファン・バウティスタ号に同乗して出港、1614年1月25日アカプルコに帰国。
 さらに支倉常長一行のマドリードでフェリペ3世(1615年1月30日)、ローマ・バチカンで教皇パウルス5世(1615年1月3日)訪問。帰国は1620年9月20日である。

 すると、ミゲルは、支倉の使節団でも重宝されていて、7年間も通詞の仕事をしていたのかも知れない。もしかするとアカプルコか、マニラで使節団と別れて、懐かしいとちで家族たちと暮らしているのかも知れないのである。

 ミゲルのその後は、使節団にも分からないままに時が過ぎた。
「おっ母よう。おらがのおっ父は、あじょしていねぇだい」
と、ミゲルはよく尋ねるのだが、鯛は
「おめぇが、もっと大きくなれば分かる」
と言って、教えてはくれなかった。
「あのよう、海老三の野郎がよう、おらがの親爺は青い目だって言っただよ。だかん、ぶん殴ってやった」
「青い目だろうが、黒い目だろうが、人間にはちげぇねぇだかんな、相手にすることはねぇぞ」
「だけんがよう、おっ父がどこかにいたら会いてぇなぁ」
と、勝男は海の向こうを見つめるのだった。
勝男は、父親代わりの寺の和尚さんの所へもよく行って、字の読み書きや手習いをしたりして、頭も良かったので、いつの間にか、餓鬼大将になっていた。だから表向きでは、遊び仲間の子供たちは何も言わないのだが、裏に回ると、「勝男には、青い目の血が混ざっている」とか、「昔、エスパニアの船が遭難して、勝男の親はその船に乗っていた若者だ」などと言う話を親たちから聞いている。
徳川時代は、オランダと中国だけが、日本と取引をしていたからほかの国々の情報は、たまにしかないのである。しかも房総のはずれの漁村には、まったく外国のことなどは伝わって来ない。
成長した勝男が、ある時
「おっ母やおばあ様、爺様よう、おらの夢を聞いてくれねぇかい」
と、晩飯の時に急に言い出した。
「また、あんだいよう。たまげるじゃぁねぇかよ」
と、おばぁが、尋ねた。
「おらぁよう。この海が世界中の国につながっているって、和尚さんから聞いただよ。それで、おらも大きな船に乗って、遠くの国や島へ渡ってみてぇだよ」
「まぁ、何を言うだいよう。そんなことが出来っこねぇだっぺよう」
と、鯛が言ったが、お爺は
「勝男の言うことは、おらにはよう分かるぞ。そんならオランダ人が住んでいると言う九州の長崎へ勉強に行ったらどうだい」
と、言うのだった。
 外人の父親に小さい時に会ったきりで、顔も覚えていない孫に同情していたのである。
「それにゃぁ、もっと、もっと、和尚さんに勉強を教えてもらわねぇと駄目だっぺや」
と、お婆が言った。
 勝男は、「うん」と素直に答えた。

器量よしの鯛は、いつの間にかたくましい浜の母親になり、勝男は母親を助けて、百姓仕事や漁に精を出していた。村一番の大男で腕っぷしも強いので村の若者たちも一目置いていて、村祭りでは、山車の上で大きな扇を振り回して音頭を取る若衆がしらであった。でも、家族に宣言した「海の向こうへ行きたい」と、言う願いは、消えてはいなかったのだ


通詞の仕事

2014-03-03 10:04:00 | 小説
しばらく沈黙が続いて、ミゲルが
「ああ、そうだ。皆様にお土産が~ございますようう」
と、言いながら荷物を広げて、
「これは、勝男の~帽子で~すよ。ノビスパンでは、みんな~子供がかぶっている物です」
と、勝男の頭にかぶせた。つばの広い帽子に鯛が、
「ちょっと、まだ大きいようだが、ようく似合うねぇ。勝男、ありがとうを言いなさいな」
と、喜んで、勝男の頭を下げさせた。
 ふくらんだ荷物の中からは、いろいろと珍しい物が出て来た。ノビスパンやルソン、それにノビスパンや清国の物など色とりどりで、その場を和ませた。
「ミゲルさんは、いつ江戸へ行くんだい」
と、おっ母さんが、尋ねると、
「明後日の朝に岩和田を出ますよう。と、言った。
「へぇそれでミゲルさんは、どんな仕事をしているんだい」
と、おっ父さんが尋ねると
「わたしは~その土地の方々と~ビスカイノさんのお話を取り次いでいます」
「そりゃぁ大変な仕事だなぁ。えれぇもんだようう」
と、お爺が感心した。
「それを通詞と言うそうだよ」
と、おっ母さんが、どこで聞いて来たのか教えたので、みんなは感心した。
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鮑根争いー明治2年の訴訟騒ぎ

2014-03-02 19:03:06 | 小説
 漁協の畑中組合長が10日ほど前、古文書をお持ちになった。漢字がほとんどの毛筆の書である。しかも、その崩し字は手に負えないのである。小説の校正と執筆の合間に挑戦して、悪戦苦闘、何とか大意がわかったので、ここに紹介します。ご教示をいただければありがたい。大意は、資産家の勘兵衛の鮑根の利権を小前百姓(漁師)たちが取り戻そうとする訴訟である。最終的には、示談となり解決したが、訴訟費用の多額に上るのには驚かされる。それを零細な者たちが日々積み立てて弁済するのである。時は明治維新、県庁も2月に設立されたばかりである。背景には、日本の漁村の特産品は、干し鮑・干し海鼠・ふかひれぐらいのものであったから利権争いになったのであろう。裏には、江戸の仲買商人もいるし、隣の御宿郷4ケ村も存在して、そのうち古老に聞き書きをしてみたいと思う。font>

磯根記録 明治二年巳巳従三月至六月  岩和田邑
三月十九日
  相頼申一札之事 ※御白洲=裁判、鮑根の所有権争いが勘兵衛と村方一同の間で行われ、数度の嘆願書で示談となる。当時、日本は金銀銅の資源を取り尽し、貿易物資としては、乾燥した鮑・海鼠・鱶ひれに頼っていたので東京の仲買商人利兵衛徳兵衛が資金を出していたのだろう。
一 村方へ宮谷県御役所より御○紙頂戴則組頭七次郎御辺上に罷出其砌御白洲に於いて被為読聞候儀者其村方鮑根之儀に付如斯内願致し候者之有之右に付呼寄に相成候間鮑取揚之儀年分に何程位取揚有之哉五ケ年分逐一以帳面可申立旨致御申聞候得共是迄之処鮑根之儀村方勘兵衛より申し立の一手之請負に有之村方に而者何程位有之哉一向瓣ふ無之旨申答帰村致御申し聞候得共右鮑根之儀者去辰年中旧領主江奉出願是非共村方一同に而請負仕度趣奉歎願候儀有之候得共御採用呉不申無余儀勘兵衛一年之請負に罷成居候如何斗そ之子細より事起り候哉東京小舟町利兵衛徳兵衛より書印候訴状宮谷県御役所江御廻し有之候に付其殿村方江申知らせ候処鮑根之儀者一躰昨辰年中より領主江歎願仕是非共村方一統に而請負仕度儀者素より懇願し処今般
御一新之御仁恵に基き是非共奉歎願村方一同之助力に乞願度各両人発願相頼候処無相違御座候然上者一件中止宿昼喰料旨勿論諸雑貨費等一同割合仕事柄落○致し候迄差支等無之○可仕候為後日以連印差出申頼状一札依而如件
                      村方小前一同連印
                      同 役人一同連印
      組頭 七次郎殿
      同  幸右衛門殿
乍恐以書付奉願上候
                  上総国夷隅郡岩和田村
                   小前百姓惣代 願人  幸右衛門
                   組頭      差添人 七次郎  
一私共一同奉願上候儀之今般鮑根御糺御座候に付則請負人勘兵衛当御役所様江被召出御尋に而是迄通り致御申付候由に御座候一体鮑根と申者浜続に之有隣村に而者村場を唱へ其村支配に而御年貢之外諸入用等其売徳を以ていたし来り残り売徳者小前のものへ割付仕然る両家数三百弐軒有之七八分通り漁業渡世に而営○相附有之候得共右鮑根勘兵衛請負仕候に付小前一同之もの共一切手入不申殊に迎年不漁続之上昨辰年之儀者稀成遠作に御座候得者困民にて私共必至窮迫罷在候依而者右勘兵衛一手に請負致御申付候而者弥増困窮之外無し○旧地頭之砌者同人一手に引請○罷在候得共当 御一新之折柄に候得者村支配に相成幽に茂小民共営方相附候極御仁恵之程偏に奉願上候以上
 巳三月廿二日
  ※三月廿七日にも同様の願書あり
乍恐書付奉願上候
一去月廿八日私共代兼村方一同連印を以御伺書奉差上候処則廿九日御呼出し之上右一件之儀者東京表願人も有て候儀に付其筋篤と取糺之上否可被御申聞旨御利解被御申聞候に付一応帰村仕一同連印之者共候右御利解之趣申含め後日御呼出に相成候迄御侍居候心底に罷在候処一躰村方之儀前願奉申上候通り家別多に而田畑少々之者而已極困七八分扶喰買入不致者之何程も無之然ル処 御上様に而も御見知被為為在候通米穀格別之高価に付朝夕経営差支候者多人数に付難渋之余被是不取留儀速速に騒立尤文化度辺者村方茂兵衛次と申もの右鮑根請負○儀も有之長崎表御用相勤候記録之手掛りも少々有是旨者聞及往古之儀に付謝弁も無之候得共勘兵衛一手に而取仕切居候儀を不審に思ひ只無何と貧窮紛れ萬一心得違ふ有之候而者 御上様江も奉恐入候得共右筆之儀早意餓居候儀何難忍願実以私共○当惑難渋仕候間厚き御利解亡脚仕候儀之奉恐入候得共無心之小前共宥置無是非又又奉歎願候依而者東京表願人之模○村方より事実相尋御左右奉御中止候而者如何可有之哉御上様格別之御手数何共奉恐入候間御伺奉旨何卒以 御慈悲前願之始末聞召致為訳村方一同静とやかに新穀江手之渡り合候迄露命相続相成小前極窮之もの共相助り候様 
御仁恵之程奉願上候以上 
※追訴文あり
~夷隅郡川津村房洲朝比奈郡川下村両村之内江~東京茅場町鮫屋重吉と申者長崎俵物干鮑御用相勤居候砌村方茂平次請負中前借滞金之有文化十酉年二月名主勤役中奥印に而三拾ケ年賦證文に取結候~当時重吉南新堀に而鮫屋何某より改昨辰年頃迄横浜表干鮑売買致居候~私村外弐ケ村共請負致度~御慈悲~聞召~右三ケ所取調方~偏に奉願上候
 巳五月七日   
※再々歎願文あり
~昨辰年○作以来米価高値に而小前末々に至り候而者飯米等日々買入漸と活斗~窮迫之余り一同最寄最寄江集会等仕不穏之儀~御慈悲村方平和に相治り一同安心相続~御仁恵之程奉願上候以上
巳五月十日
※再々々歎願文あり
~極窮八拾五軒人別四百八拾壱人有之~難渋人家別百六軒人別三百九拾七人~扶喰御拝借仕貸遣し候はば助命相成候~鮑根御受負奉歎願候~御上様厚御仁恵之御言~助命相続~願上候 以上
 巳五月十五日               上総国夷隅郡岩和田村
                          什長 儀右衛門
                          同  並兵衛  同 五郎兵衛
                          組頭 幸右衛門 兼名主 源蔵 
※再々再歎願文あり 五月廿二日
乍恐以書付始末奉申上候
~伊藤様御掛り中度々奉歎願候鮑根之儀勘兵衛一手之受負を奉書上候~勘兵衛請負分海中三丁四方海士舟五艘水主三拾人に御書上有之候~東京表に請負願人も有之候~村方貧民共如何にも騒立兎角困窮に相迫り不穏儀~歎願奉申上候処昨廿九日御呼出し之上~始末奉申上候~村方鮑根之儀往古者村方に而請負罷在候~安永八亥年頃村方より壱ケ年毎に請負人相立任せ置~書類等も有之~勘兵衛方一手之請負に相成候哉同人儀数年名主役相勤~永年只御運上而巳納来り候~永年押領致し居貧窮之小前を相掠め置候哉にも相見へ候共三丁四方者今般御上様より勘兵衛江請負~岩和田村磯根之儀者東根境岩船村より南根境御宿村迄磯根凡三拾丁余にも有之~勘兵衛請負分差除き其余之海中村方一同江御請負に相成り候者海岸に相掛り候難破船者勿論横死行倒迄其外之儀出来候共諸人足入用等~既に当正月中細川様御蒸気字根中と申所に而破船仕多分之人足海士役等~村掛りに相成勘兵衛方に而は一切差構無之次第に付伊藤様御掛り中数度奉歎願候~小民共露命相続之手当にも相成第一村方平和に相納り私共に至迄一同相続~何卒格別之以 御慈悲勘兵衛請負分差除き其余之儀者村方江御請負致成下置度偏に奉歎願候以上
 巳六月二日                   上総国夷隅郡岩和田村 
                          小前惣代  甚 蔵
                          連印惣代組頭 幸右衛門
                          同      七次郎   
 宮谷宿 房吉様 其答
                            鹿嶋屋代 源四郎
~岩和田村一件~今日立合之上勘兵衛代之者存意御聞取之上兎も角も御取斗~是非共今日大村屋おゐて立合為数度候~先之貴答迄早々以上
 六月六日
 乍恐以書付奉願上候
一私共勘兵衛江相掛候一件御吟味中示談可及掛合旨~勘兵衛方に而者当時金五拾両も差出是迄之通所持為致呉候~勘兵衛に而鮑根一手~勘兵衛より奉書上候通三丁四方之儀者同人進退磯根浦之儀者村進退に以多し呉候~示談折合不申前書勘兵衛より今後金五拾両之趣意金差出候~私共三百弐軒之小前迄も取続行届不申難有当 御一新之 御仁吸○を以鮑根浦之儀三丁四方之外者村一手持に相成候様偏に奉願上候以上  
 巳六月十日            伍長惣代 仁兵衛   什長惣代 七兵衛
                  組頭   七次郎   同    幸右衛門
 巳六月十九日差出候伺書
御支配所岩和田村願人奉申上候当月十日勘兵衛共双方御呼出し之上厚き御仁恵之御利解被御申聞難有承服奉畏候然上之往古之通り村方一同江被御申し聞候上者勘兵衛共家数三百軒之例に御座候得者勘兵衛儀茂差除不仕候右に候上は村内一同平和に相治り可申奉存候此段御伺奉申上候以上

一六月廿二日双方御呼出し之上於御白洲御掛り内藤行蔵様被仰渡候者是迄勘兵衛一手に而進退致し来候鮑根早々村方江引渡可申旨被御申聞候得共勘兵衛代伝右衛門儀何卒是迄通に被成置可被不旨強而歎訴申上候に付手鎖被御申付候
一六月廿五日御宿郷四ケ村役人衆より勘兵衛代伝右衛門儀御詫願書差出且伝右衛門儀御上様江鮑根御請負則返上之御請書差出候に付手鎖御免相成候右に付往古之通り村方持に被御申付候然ル処勘兵衛方に而当七月十日迄海士水主等相雇置候間迄之歎願致候に付七月十日迄日延御聞届に相成十一日村方江引渡可申之処御宿郷四ケ村より種々頼有之候に付則壱ケ村二日宛之日延聞済廿日弥(ようよう)村方江引取相成候事 ※手鎖=有罪、示談になり、御宿郷村役の歎願で釈放となる

磯根願之儀に付諸入用控帳
 町々出金の覚
  入宿町分 5件略  仲宿町分 3件略  下宿町分 5件略  
後宿町分
一 金 五拾五両也     右者多賀屋七兵衛方借用
       2件略  
  扇子町  4件略
右之口々
一 金百四両三分三朱と銭壱貫八百文有之
是者宮谷に而種々之入用    ※宮谷(みやざく)とは、当時の県庁名、大網に所在地あり
 但し町々に而出分入よう相成申候
是迄出分之儀者割返し相成申候
 村方入用色々
25件略
是迄入用 惣〆
 金壱百弐拾七両三歩三朱と
  銭七拾弐貫五百七拾八文
相場九六番
 為金
  百三拾四両壱歩三朱と
   銭五百七拾八文相成申候
 改〆
右之処江
一 金五拾両也   借用 鍵屋源蔵殿
一 金五拾五両也  同  多賀屋七兵衛殿
〆金百三拾五両と相成申候
右之金子組頭什長に而連印仕申候○返納之儀
来る午七月迄借用申候名当之儀者右は
相認め申候以上
 巳七月改  組頭 重右衛門 印   ※以下25名連名印あり  訴訟には大金がかかり、有力者だけではなく、零細な村人(小前)も日銭を積み立てた。
鮑根境之定
御宿郷境根とば口より沖江見通し右之内根之字  清光寺出し根 内根 前根 枝根
右之場所建野と相定め候事
一 東根境長浜中之水垂の沖へ見通し
                本願人 七次郎 印  幸右衛門 印   七兵衛  印
前書磯根之儀に付至子々孫々江
○○細末之儀願人三人之者家江無相続取斗申間舗之依而奥印如件
                            兼名主 源蔵 印
 明治二巳巳年七月
※宮谷県について
明治元年に房総三国(安房・上総・下総)は23名の藩主と政府任命の知県事2名(安房上総知県事・下総知県事)が置かれ、明治2年1月13日に下総知県事は葛飾県(東京薬研掘→流山)に、2月20日に安房上総知県事は宮谷県(大網)となる。その直後の鮑根の訴訟騒ぎであった。明治維新の御一新に基づいて歎願したことが成功の元であったようだ。
 宮谷県は、安房・上総・下総・常陸の37万1千7百石の広大な管轄地である。明治4年11月13日に木更津県と葛飾県となる。明治6年6月15日木更津・印旛県は合併し千葉県となる。
 ※読み方 者=は、候共=そうらえども、斗=ばかり、如件=くだんのごとし、被成=受け身の用語「ならせ」
乍恐=おそれながら、而=~にして、哉=疑問の「や」、凡=およそ、~代=~代理、奉申=もうしたてまつる