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おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

小説・エッセー。編著書100余冊、歴史小説『命燃ゆー養珠院お万の方と家康公』(幻冬舎ルネッサンス)好評!重版書店販売。

夢見るT先生

2014-02-19 19:55:10 | 小説
">T先生の家は、茉莉子の所からは電車で三十分ほどの距離である。
「やぁしばらくだねぇ。じつは、ツアー会社からは、ハワイのモデルさんで撮ればよいのでは、と言う意見もあったのですが、僕は、あなたの方が今度の企画にはイメージが合うからと言って認めさせたのですよ」
 これでは、もう否応なしである。
「あなたは、ハワイは初めてでしょうが、あの白い砂浜と、ブルーの海をバックにあなたのヌウドはとてもマッチしています。これは、あなたにぴったりの背景ですぞ」
 T先生は、今から夢見るような目つきで話された。
 渡航の細かなことを聞いて帰宅した。
 家に帰ると、電話帳で御宿町の本屋さんの番号を調べて、電話で用件を尋ねると、すぐに分かった。
「今は、日本人向けの土産店と、レストランを大きく経営しています。よくこの町から観光で行く人は、お世話になります。わたしも大学の卒業記念に行って何日かお世話になりましたよ」
 と、言うので安心した。
 夕食の時に両親に話すと、
「茉莉子が湯浅の本家を尋ねることになるとは、これは驚きだねぇ」
 と、父が言った。
「わたしは、湯浅の本家がハワイにいらっしゃるなんてことは、考えたこともありませんでしたよ」
 と、母が感心していた

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2014-02-18 20:01:35 | 小説
">「鯛さん、みなさま~。お世話に~なりもうしました。かつおを~おねげぇしますだ~」
 ミゲルは、とても辛そうに鯛が作ってくれた弁当を腰に下げて、速足で江戸に向かって行った。一回も後ろをふりむかずにー。

 茉莉子は、東京へ帰ったが、鯛とミゲルとやや子が気になって、モデルの仕事が辛くなってしまった。幸い夏休みになので美術学校の学生の仕事はないから時間に余裕が出来た。
 「日本見聞録」を読んでいると、久しぶりにT先生から絵葉書が届いた。それは、養老渓谷の大樹の枝に足をかけている茉莉子のヌウド写真である。それは、見慣れたヌウド写真と背景や雰囲気が少し異なって、山の妖精のような無表情な顔つきであった。
「秋になったらハワイの海を撮りに行く予定です。これはツアー会社の雑誌の企画です。美人のモデルさんを一人連れて行くことになっているので、あなたを推薦しようと思います。ご都合はいかがですか」と、短く用件が記されていた。
 岩和田の長老のお婆さんが、
「湯浅の本家は、ハワイで事業をしている」
と、教えてくれたが、いつかは、その家を尋ねてみたいとは、思っていた。
 それが、本当に実現しようとは、茉莉子は狐につままれたような奇妙な感じであった。
 T先生からは、その後、連絡がないままだったが、茉莉子も行くかどうか迷っていたのである。それは、自分の本家をハワイに尋ねて我が家のルーツを探るなどと言うのは、映画などでは、よくある話だが、自分が実行するとなると、大それた話で、ちょっと億劫なのであった。
 暑い夏が終わろうとしていた。縁先で団扇を使って涼をとっていると、速達ハガキが届いた。
驚いて見ると、T先生からであった。
「あなたを推薦しておいたハワイ行きが決まりましたので、お知らせします。至急渡航の御用意をお願いします」
と、書いてある。
 茉莉子は、「私の都合も聞かずに決めてしまうとは!」と、反感を抱いたが、また一方では、「こういうチャンスを逃がすこともないのでは?」とも思われるのである。
 明日にでも先生のお宅をお尋ねしよう、と考えて、おかぁさんにハワイ行きの件を伝えた

お寺参り

2014-02-17 20:02:19 | 小説
二人は、やや子を抱いてお寺に向かった。ミゲルが、お坊様にお礼を言いたいと言うのだ。
「お坊様、名前を~付けて~くださり~有難う~ごぜぇますだ。これからも~よろしゅう~おねげぇいたしま~す」
 ミゲルのしり上がりの日本語は、とても可笑しいのだが、お坊様は、
「わしは、このやや子が哀れでならぬのじゃがのう、鯛が一生懸命に育てておるので、勢いのある名前を付けたのじゃよ」
「ありがとう~ごぜぇます。これからも~勝男を~おまもり~くださいませよ~」
 ミゲルは、お坊様を拝むようにして、お願いした。
「そなたが、このやや子を守ることが出来ぬのは分かっておる。わしが、そなたに代わって大事に守ってしんぜよう。その代わりにじゃがのう、そなたはいずこの国に行っても鯛とやや子の健やかなることを神仏に祈ることじゃ。よいかのう」
「わたしは~イエス様を~こどものころから~拝んで~おりまするが~これからは~神様や~仏様も~朝晩に~拝みます」
「そなたは、まことに賢いのう。わしの思うておることを先回りして申したぞ。ようし、その心でこの親子を守るがよいぞ。きっとじゃぞ」
 お坊様は、ミゲルの目をじぃっと見つめていたが、手を合わせて
「南無阿弥陀仏」
と、数珠をまさぐりながら唱えられた。
 家に帰ると、鯛がさびしそうに言った。
「ミゲルには、もう会えねぇよねぇ。また、アカプルコに行くだっぺ」
「日本の周りを~ビスカイノさんが~測ることを~大御所様に~お願いに~駿府へ~行っています~お許しが~出ると~この向こうの海と陸を~船に乗って~図ります。だから~その仕事が~終わるまでは~近くにいますよ~」
「それならまた岩和田に来られるかなぁ」
と、鯛は祈るようにミゲルを見つめていた。
 その時、急にやや子が「キャッキャッ」と、大きな声を出したので、ミゲルは「おお」とびっくりした。
 その動作が、とてもおかしいので、鯛も笑ってしまった

「かつお」と命名

2014-02-16 22:18:54 | 小説
数日が立ったある日、お坊様が鯛の家においでになった。「今日は、良い日じゃのう。やや子は元気かな」
「はい、えろう父を飲むからか、ぐんぐん大きゅう育っていますだ」
「そうか。それは何よりじゃ。今日は、頼まれたやや子の名前を考えて来たのじゃよ」
「それはまぁ、有難うごぜぇますだ」
と、お母っさんがお礼を言うと、懐から巻紙を取り出して
「どうじゃ。母親が鯛じゃからやや子は、勝魚(かつお)だ」
と、言って、巻紙を広げた。
 濃い墨の色で太く大きく「勝魚」と書かれていた。
「おお、そりゃぁ縁起のいいな名でごぜぇますだ」
と、爺様が言った。
「鯛よ、鰹の色は海の色だ。やや子の目の色も大きく育つ頃には、おそらく海の色になるじゃ
ろう。体つきと肌の色が、父親のミゲルによう似ておるからのう」
「本当に有難うごぜぇますだ。今朝揚がった鰹が台所に冷やしてあるからお持ちくだせぇ」
と、お父っさんがお礼を言うと、お坊様は
「そりゃまた、いい日に参ったものじゃ。遠慮なくいただくぞ」
と、喜んだ。
家族は、「かつお、かつお」と、呼んで可愛がった。かつおは、ぐんぐん大きく育った。
ミゲルがアカプルコに向かって、1年がたった秋のある日。ミゲルが岩和田にやって来たか
ら鯛は腰を抜かすほど驚いた。「これは、幽霊にちがいねぇ」と思ったが、話をすると本物に間違いがないのだ。
「あじょして、ミゲルはここへ来たんだい」
と、鯛が尋ねると、
「去年~日本人の商人を~20人、アカプルコに~お連れして~1年が~たちました~。だから~セバスチャン・ビスカイノさんと~送って~まいりましたのです~」
「へぇ、そんなこともあるんだねぇ。おらは、もうミゲルとは、死ぬまで会えねぇと思っていただよ」
「わたしは~鯛さんと~いつでも会いたいのですよ~。ルソンや~アカプルコとは~行ったり来たり出来ますからねぇ」
「へぇ、そんなら かつおともまた会えるんだね」
「かつお~と言うのは~どなたでしょうか~」
「ミゲルの子供だよう」
「えっ、私の~子供ですかぁ」
「ミゲルが日本から出て行ってから生まれたんだよ。今、寝ているからそろうっと顔をのぞいてみなよ」
「ほんとうですか~。わたしに子供が~いるのでしょうか~」
「本当だよう。ミゲルと、おらの子供だよ。ミゲルにそっくりだと、みんなが言っているよ」
 ミゲルは、布団にくるまっているかつおをこわごわとのぞいた。
 そのまましばらくは、黙って瞬きもせずに見つめていた。
 急に涙が両目から噴き出したのを鯛は、黙って眺めていた


男子出産

2014-02-15 19:58:26 | 小説
">「鯛よ、元気がねぇなぁ。あじょしただい」
  お母っさんが声をかけた。
 「ううん、何でもねぇだ。暑くなったからちょいと疲れているだけだよ」
 「腹の子に差し支えるといけねぇからゆっくり休むだよ。これからは、食い物の仕事は、おれ
も手伝うからよ」
「そらぁ有難う。朝は、寝坊させてもらうよ」
おなかの子供は、順調に育っているが、ミゲルからの知らせは、一つももう来なかった。
本多様から名主への話では、「相模の浦賀から残りの者たちは、アカプルコを目指して出港した」と言うからミゲルももう日本にはいないのだろう。鯛も、もうミゲルには二度と会えないだろうと、諦めるのであった。
秋のさわやかな季節になり、浜辺には月見草が咲き誇っていた。鯛は、山の端に月を眺めてミゲルを思い出すのであった。
ミゲルと出会ってから十月がたって、産気づいた鯛は、元気な男の子を出産した。
「おやまぁ、この子はえらう色白だよ」
「それに手足が長い大男だぞ」
家の者たちは、父親のいない子供を大事に育てたから、とても元気に育って行った。
「この子には、まだ名前がねぇぞ。いい名をつけてやるべぇよ」
と、お父っさんが言った。
「そうだねぇ。ミゲルがいたらなんて言う名にするだろうかなぁ」
お母っさん、考え込んだ。
「それは、寺の坊様に名付けてもらうといいだっぺ」
と、爺様が言ったので、皆もうなづいた。
「鯛は、どうだっぺや。何かいい名はあるかねぇ」
と、お母っさんが尋ねた。
「おらは、どんな名前でもいいけどよう、大きくなったらアカプルコやエスパニアまでも行くような人になってもらいてぇだよ」
「そうだなぁ。海の向こうでミゲルに会って、岩和田のことを話すように育ってほしいもんよう」 
と、お母っさんが相槌を打った。
翌朝、赤ん坊を抱いて寺参りに行った鯛とお母っさんが、坊様に名付け親になってもらうようにお願いすると、
「それならば、よう考えて名付けて差し上げよう」喜んで承知して下さった

ミゲルのたより

2014-02-14 21:00:30 | 小説
">">「鯛がノビスパンの子を孕んだちゅうことだよ。腹がでぇぶ大きくなっているかんなぁ」
「あぁ日本語がちぃっとばぁりできる若けぇ衆が、あの家には泊まっていたかんなぁ」
「そうだよう。なかなか愛想のいい若けぇ衆だかんなぁ。いい仲になっただっぺ」
 鯛の妊娠の話は、村中の評判になったから、村の若者たちは、悔しがっていたほどだ。鯛は、浜の娘の中でも働き者で器量よしだった。
 そんなある日、名主の元へ大多喜の本多様の使いがやって来て
「これは、ついでだがロドリゴさんから岩和田の鯛と言う娘に渡してほしいと言う品物だ」
と言って、小さな包みが渡された。
 それを渡された鯛は、何が入っているのか、いそいで包みを開いた。
 包みには、いつもミゲルが首に下げて大切にしているクルスにそえられって、たどたどしい文字の手紙が入っていた。
 鯛は、文字がほとんど読めないので、お寺の坊様に読んでいただくことにした。坊様は、先ず黙って目で読んでからこう言った。
「鯛よ。気持ちを静めて、わしの読む声をようく聞くのじゃよ。そうしないと、おなかの子にも悪いからのう。よいか、読んで聞かせよう」
と、鯛をやさしく言うと、低い声で手紙を読んでくれた。
「鯛さん、また、岩和田へ行くつもりで御座りましたが、きゅうに船が出ることになってしまいました。遅くなると、大嵐が来る季節になりますから船長さんが決めました。わたしは、船に乗りたくはありませんが、ロドリゴさんの命令ですので仕方ありません。デウス様のお導きで、また日本に来て、鯛さんに会いたいのです。クルスをいつも首に下げて、あなたと私の無事をお祈り下さい。お達者で ミゲルより」
と、書かれていた。
 鯛は、終わりまで聞くと、あふれる涙をおさえることが出来なかったが、手の中のクルスを強く握って悲しみを我慢した。
「よいか、気を落とすでないぞよ。鯛は、強い人間にならねば、生まれてくる子がかわいそうじゃからのう」
と、坊様は優しく肩を撫でてくれた。
 鯛は、黙ってうなずくと、お礼を言って、しょんぼりと家へ帰って行った

子種

2014-02-13 20:07:38 | 小説
「ミゲルは、今頃江戸で何をしているだっぺかなぁ。なれねぇ所で病気でもしてるんじゃねぇか」
 鯛は、毎日仕事の合間にはいつもミゲルを思い出すが連絡の取りようはないのだ。たまに大多喜城の使いが名主の所に来て、サンフランシスコ号の船員の情報などを伝えるのは、城主の忠朝公がロドリゴをお気に入りで、もう一度城へ呼ぼうと考えていて、世話をした岩和田の村人たちにも何かと気を使っているからである。
 ある日、鯛は急に気持ちが悪くなって、土間へしゃがみこんでしまった。お母っさんが
「あじょうしただい。えらく顔色が良くねぇよ」
と、介抱をしたが、鯛は朝の食べ物を戻してしまった。
「食い物に中ったのかなぁ。おかしな食い物は今朝もなかったしなぁ」
と、お母っさんは、鯛を抱いて部屋へ寝かせた。
 鯛は、ミゲルの子供を宿したのである。
 そのうちに鯛のおなかは、ふっくらとして来た。
「鯛は、近頃元気がねぇようだが、お母ぁよう、あじょしただい」
 お父っぁんが尋ねると、
「どうも、鯛はつわりらしいだよ。子供が出来たにちげぇねぇよ。あまりよそには知られたくはねぇけどよう」
 と、声を潜めていった。
「ふうん、やっぱりそうか。ミゲルの子かよう」
「ほかに男はいねぇからそうだっぺよ。あじょしたっば、いいだっぺよ」
 お母っさんは、頭を抱え込んでしまった。
「まぁ子供は、神様からの授かり物と言うから親がどうであれ、大事に育てればいいだっぺよう。おれも年だから百姓仕事も出来ねぇから子供の守りをやらせてくれよ」
と、爺様が言った。
 それにしても父親になるミゲルは、鯛が子種を宿したことも知らずに江戸で仕事をしているのであった。


初鰹と鮑のたたき

2014-02-12 19:36:31 | 小説
海女たちは、弁当を二回に分けて食べる。それは、満腹になると、厳しい仕事に集中できないからだ。食事の後は、ゆっくりと休んで、また海に入る。一日、食事を挟んで四回から五回沖へ船を出し、潜水するが、それは一日中海が凪ぎの時で、そういう日はあまりない。海女がしらが水温や潮の流れ、天気の変化を注意深く読んで行動する。のんびりしているようで、命に係わる仕事だ。
 茉莉子が世話になる海女がしらは、村でも評判の「大海女」だから仲間内では「海女がいい」(稼ぎが良い)と言われている。
 そう言うことを知るのは、まだ先のことで、何度も我が家のルーツを尋ねて、この岩和田集落を訪ねてからだ。
 一休みすると、撮影会が始まるので、茉莉子は海女小屋を出た。
「サンフランシスコ号が、今も沈んでいるのは、あの辺りだそうだから波の飛沫が大きいのだよ。おそらく大きい岩礁が水面近くまで突き出ているんだよ。あなたは、あの飛沫を背景にして、カメラに向かって立って下さい」
 と、T先生が指さした。
 会員たちは、ぐるうりと先生のカメラスタンドの周りを半円形に囲んで、シャッター準備に取り掛かった。
「みなさん、太陽の光線を考えて下さいね。せっかくの美女が、真っ黒に映ってしまうかもしれませんよ。決定的なチャンスを逃がさないようにね」
と、笑いながら注意をして、シャッターチャンスを待って、ご自分はパイプをくゆらせていた。田舎のアマチュアカメラマンには、東京で評判のモデルを撮影するチャンスは、たまにしかないのだから無我夢中でシャッターを切って、後で現像して落胆する者が多いのである。かと言って、ぼんやりとしていては、良い物は撮れないからカメラは難しいのだ。
 夕方、車が迎えに来たので、茉莉子は回り道をしてもらって、村一番の長老のお婆さんに挨拶をした。
「おお、この前の湯浅さんの分家の娘さんだね。ハワイに行った本家のことは分かったかい。本屋の息子さんに尋ねると住んでいるところが分かるかも知れねぇよ」
 さすがは超路で、良い知恵を出してくれたから茉莉子は、東京から土産に持ってきたビスケットを渡して車に乗った。
 夜は、お湯を浴びて、食事になった。
「今夜は、田尻の浜で獲れた鮑のたたきを用意していますよ。これは、とても精がつくので病み上がりにはどこの漁師の家でも造るのです」
 と、I社長が言うと、T先生が
「前にもいただいたが、ちょっと乙な味でしたよ。アワビの肝と味噌の取り合わせが絶妙でしたなぁ」 
「ひね生姜をすりおろして、刻みネギと肝や身も一緒に味噌とたたくのです」
「成るほどねぇ。手がこんでいるのですなぁ。だから微妙な味わいなんだね。茉莉子さんも遠慮せずにどうぞ」
と、T先生は箸の先にたたきを少しとって口に運んだ。
 茉莉子は、鯛さんがミゲルを追いかけて来てお母っさんの造ってくれた鮑のたたきを渡した夢を思い出したのであった。
「みなさんは、ちょうど良い時にお出でになりましたよ。今朝、旬の鰹が数匹浜に揚がりましたから漁師に頼んで分けてもらいました」
「それは豪勢だ。旬の鰹は、房総の浜でなければ戴けないもの。江戸の俳人の句に
目には青葉 山時鳥 初鰹 と言う名句がありましたなぁ」
と、言うと、T先生は身を乗り出して刺身皿を覗き込んだ。
「ここの浜は、房総半島でも黒潮の流れにもっとも近いので鰹もホットも早く浜に揚がります」
 こうして、肴談義で座は盛り上がった。


海女小屋

2014-02-11 19:37:59 | 小説
「遠慮しないで食べてください。東京では食べられない清流の川魚ですよ。この辺りは房総半島の奥地で標高はあまりないのですが、深山の趣がありますよ」
I社長は、茉莉子の湯上りの紅潮した顔にみとれていたが、
「それにしてもあなたは日本人離れした肌の色ですねぇ。パリじゅうをうならせた藤田嗣治の白の色です」と、感心した口調であった。食べることに夢中のT先生は、思わず噴き出してしまったほどだ。
 その夜は、この前と同じI社長の離れに泊まった。明日は、早起きをして海岸風景を背景にしてヌードを撮影することになっているので早寝をしたが、寝付かれないので、いただいた「日本見聞録」をぱらぱらとめくった。
 昔の翻訳なので、文字や言葉遣いが古風で読みにくいが、大筋は分かる。特に村人の献身的な救助の
様子は、細かくは描かれていないのだが、想像を加えると興味深いものであった。三百人余りの乗組員が、村人が三百人の小さな漁村に四十日間あまりもお世話になったことは、今の時代に生きる茉莉子には理解しがたいものであったが、はるかな昔ではありえたのであろうと納得して読み進めた。
 茉莉子は、翌日の撮影の合間に田尻の浜の海女小屋を尋ねると、この前世話になったリーダーが中心で輪を作って昼食をしていた。
「さっき獲って来た栄螺を焼いてあるからおめぇさんも食うといいだよ。遠慮はしねぇことだ」
茉莉子が、挨拶をしようとする間もなく、顔を見るとすぐにそう言った。ほかの海女たちも口々に手作りの弁当のおかずを勧めるので、
「遠慮なくいただきます。この前は、本当にお世話になりました」
と、挨拶とお礼を言ってから栄螺のつぼ焼きに箸をつけた。


木の花咲くや姫

2014-02-10 12:18:09 | 小説
撮影会は、かなりの山奥らしく、茅葺の民家が谷合に数軒、固まって建っているだけだった。日当たりのよい傾斜地に山椿の花が満開の大樹があり、ショールを羽織った裸体の茉莉子がその木や民家を背景にしたり、横に張り出している太い枝に登ったりして撮影するのであった。これは、かなりハードな撮影会になりそうな予感がした茉莉子は、カメラを構えた会員たちの注文にあまり笑顔や愛嬌をふりまいたりはしなかったが、椿の花の小枝を口にくわえたポーズは後に名のある写真展で「木の花咲くや姫」の名で三席を受賞した。
 T先生は、茉莉子の表情に
「ここはユニークなバックとは言えるが、どうも芸術的では、ありませんなぁ。やはり岩和田や鵜原の怒涛や波しぶきをバックの方が、モデルさんを生かした作品が撮れますぞ。明日は、いつもの場所へ行きましょうよ」
と、苦笑いをした。
 I社長は、自分が選んだお気に入りの情景だからその声を無視して、いろいろな角度からシャッターを押し続けていた。
 帰り道では、これも鄙びた湯宿に案内された。この辺りには、ラジュウム鉱泉の湯宿があって、秘境の宿として宣伝されているが、それは好事家の世界だけで、入浴した観光客は少ないようだ。
「モデルさん、体が冷えたでしょうから温泉に入ってから帰りましょう」
 I社長が提案すると、
「おお、それはいいねぇ。僕はこのあたりの湯宿の名前は知っていましたが、来たことがないので一度入浴してみたかったんですよ。でも、お若いレディがご一緒だからまさか混浴ではないでしょねぇ」
と、T先生はにやりとされた。
「ここは、個室もありますから心配はないですが、ご希望ならば混浴の方でもよいですが」
と、茉莉子の方に顔を向けて答えた。
 薄暗い浴場に天然ガスの炎が燃えているだけの本当に鄙びた浴場で、お湯は濃い茶褐色でぬるめであった。茉莉子は、こわごわと肩まで体を沈めて自分の乳房を眺めた。写真家たちが、よく
「茉莉子さんの胸は、美しいですねぇ」
と、感嘆する乳房をうす濁ったようなラジュームの湯を透かして見ると、ゆらゆらと白い乳房が漂っているようだった。
 ゆっくりと入浴して上がると、テーブルに川で獲れた鮠とヤマベのから揚げが山盛りに出されていて、もうT先生は、ビールの肴にもりもりと魚を頭から食べていた。
「やぁ茉莉子さん、お先に戴いていますよ。美味しいからお食べなさい」
と、食通らしいお顔であった。