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おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

小説・エッセー。編著書100余冊、歴史小説『命燃ゆー養珠院お万の方と家康公』(幻冬舎ルネッサンス)好評!重版書店販売。

田尻の浜の撮影会

2014-01-03 17:40:35 | Weblog
<fo早速、海女小屋に入って着替えをし、ガウンを羽織って磯辺に出ると、小屋を出るときから待ちかねていたアマチュアカメラマンたちのフラッシュを浴びた。
先ほどの幹事さんが、手招きをしている場所に向かうと、顔なじみの写真家のBさんが笑顔で迎えてくれた。Bさんは、売出し中のヌード写真家で何度か茉莉子も依頼されたことがあった。ドイツの写真コンクールで第二席に入賞した時には、お祝いのパーティを上野のレストランで写真家のお仲間たちがして下さり、招かれたこともあった。
「まぁ先生、お久しぶりで御座います」
と、挨拶をすると、
「遠いところをよくお出でになったね。I社長さんからあなたがお出でになることは聞いていて、会うのを楽しみにしていましたよ」
Bさんは、徹底的にいろいろと場所を移動してモデルにポーズをとらせて、しつこいほどにシャッターを何度も切るので有名であったし、モデルたちも敬遠していたほどだ。
「I社長さん、今日は夕焼け空が朱色に輝きそうだからそれを浜辺で茉莉子さんが見上げているところを私は撮りたいが、みなさんはどうかねぇ」
と、提案した。
集まっている地元の人たちは、東京の大先生が言うことは、すべて受け入れるので、今日の撮影会は夕方まで行うことになった。茉莉子は、もう異議を唱えたり、都合を言ったりは出来ないのが、モデルの辛いところだ。
「茉莉子さん、それでよいでしょう。今夜はI社長さんの離れに泊まってくださいね。もう私は二週間ほど、御厄介になっていますよ」
Bさんの言葉には、お断りさせないぞと言う強い口調が隠されていて、黙ってうなずいたのであった。
「それでは、みなさん。夕焼雲の出るまでは、モデルさんにはこの磯辺でいろいろなポーズをとってもらいますからシャッターチャンスを逃がさないで名作を撮ってください」
と、I社長が声を張り上げた。
御宿の岩和田海岸は波の荒い所で、岸壁や、そこを滴り落ちる清水を背景にして日本人離れした茉莉子の容貌や肢体を写すのは、アマチュアにとっては、心の踊るような喜びだ。
夢中になってシャッターを切る音が鳴りやまぬのであったが、Bさんは、助手にカメラを持たせて、悠然と葉巻煙草をくゆらせているのであった。さすがはプロの写真家だと、集まったアマチュア写真家は感心させられるのである。
その日の夕暮れの雲の色は、エーゲ海の岬の上の千変万化するものとよく似ていたからBさんは、得意げに助手に指示して立て続けにシャッターを切った。それは、空が薄暗くなるまで続けられたから「さすがは有名な写真家だ」と、撮影会に参加していた者たちは互いにうなづきあった。
こうして、撮影会が終わり、Bさんと茉莉子は、Iしゃちょうのお宅へと車で向かい、町はずれの狭い道を車は巧みにとおって社長さん宅にはいった。nt size="6">

メキシコ塔=小説稿2

2014-01-02 19:16:47 | Weblog
 御宿駅前には、出迎えの車が待っていて、茉莉子が改札口を出ると、小柄で色白の紳士が降りてきた。
T先生のお話によると、撮影会の幹事役のI氏のようだ。右手を挙げて
「やぁ遠いところをよくお出で下さった。茉莉子さんですね。あなたが有名なモデルさんだと
聞いて、今日は30人も集まっていますぞ」
 と笑顔で話しかけた。
 すぐに岩和田の海岸目指して車は走りだした。
 「いつもは、地元の海女たちをモデルにして撮影会をやっていますが、たまには垢抜けしたモ
  デルさんを撮りてぇと、会員たちが言うのですよ」
と、気さくに話しかけた。
「初めましてモデルの茉莉子と申します。海岸で撮影することは、初めてですのでよろしくお
願いいたします」
 「こちらも三年に一度ぐれぇしか東京からは来てもらってはいねぇから初心者みてぇなもんで
すよ。正面の山の上に白い塔が立っているでしょう。あれは、メキシコ塔と地元では呼んで
いるんですが、今から四百年近い昔の話が残っていますよ」
 車中で会話を交わしているうちに目的地の田尻の浜に到着した。
 「こんな所ですから着替えは、海女小屋でやってもれぇます。普段は、海女たちが休憩したり、
着替えをしたりするのですが、今日は海が荒れていて仕事にはならねぇでから休みです。だ
から遠慮せずに使ってくだせぇよ」
車から降りて、狭い道を磯に向かうと、沖から大きなうねりが押し寄せて、波しぶきが霧の
ように立っている。その磯辺の小高い所に粗末な海女小屋が立っている。
 もうかなりの人数のアマチュアカメラマンが、三脚を担いで陣取っている。

小説「浜の娘とサンフランシスコ号の青年」その一

2014-01-01 14:53:13 | Weblog
 </fon浜の娘とサンフランシスコ号の若者
 モデルの茉莉子が御宿町の撮影会に呼ばれて、4時間もかけて出かけたのは、いつもお世話になっているT先生からのお話だったからである。先生は、ある芸大の教授で、ヌード撮影の第一人者で、モデルによく読んでくれていた。
 新宿駅から両国に出て、単線の総武線に乗り換え、江戸川を渡り千葉駅、大網駅と過ぎると、乗客もまばらであった。
 手にしていた高村光太郎の「智恵子抄」の詩も読み終えて解説に進むと、光太郎は心の病の最愛の妻を毎週土曜日に療養地の九十九里浜に見舞ったとあるが、このローカル線で目的地に着くのには、かなりの忍耐力がいると実感した。のんびりと汽車の旅を楽しむには、まだ若すぎるのであった。
茂原駅で駅弁を求めて、腹ごしらえをして、上総一宮、大原、浪花と過ぎて、やっとのことで御宿駅に着くと、駅前に車が待っていた。もうお昼過ぎであった。
T先生によると、この町にとても熱心なアマチュア写真家がいて、よく東京の研究会やギャラリィに出かけて来る。しかも浜の海女たちの写真では国際的で、時折その海女たちだけではなく、東京のモデルを読んで撮影会もする。
そのモデルの紹介を依頼されたT先生のお眼鏡にかなったのが茉莉子であった。
茉莉子は、色白で長身、すんなりとした肢体と、彫の深い容貌で、日本人離れのしたモデルであったから画学生には人気のモデルであった。
だからわざわざ東京からかなり遠い御宿までやって来ることもないのだが、日ごろお世話になっているT先生の依頼であるばかりでなく、この地がポピュラーな童謡の「月の沙漠」の舞台でもあり、また週刊新潮の表紙などで人気の谷内六郎の絵にもよく出て来るから一度行ってみたいと、かねがね思っていたからであった。
 <font color="green">※ 今年は、短編小説の草稿を連載する予定ですので、ご期待ください。t
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岩瀬酒造ギャラリーにヌードコーナー2室

2013-12-30 09:57:14 | Weblog
 先代社長の岩瀬禎之氏は、押しも押されぬ海女の写真の世界的なカメラマンであった。内閣総理大臣賞やニューヨークタイムズ日曜版に掲載されている。私は、その写真にとても感動して、写真集「海女の群像」の重版や「海女の習俗」(彩流社)の編集に携わったのです。おかげで全国的に注目されて、NHKテレビの朝ドラへの協力なども御宿町岩和田の人たちはしたのです。
 ところで、先代社長は、海女の写真以外にも写真を撮りまくっていて、なかでも海岸での撮影会には、東京からモデルを呼んでいます。その費用は年間数百万円をかけたようです。また高名な写真家も御宿の風景の美しさと、岩の井の美酒と、活きのよい地魚の味に魅かれて泊りがけで訪れました。
 そのヌード写真が、100点余り土間に積み上げられていましたから整理して、「海女の群像ギャラリー」の2階の2室に昨日展示しました。部屋は、放置してありましたからこれから美化に務めますが、興味のある方はいつでもおいでください。
 1階の海女の写真を見たら2階にも上ってください。昔のヌード写真に対面できますよ。
 この建物は、酒蔵の隣にある元病院なのですが、由緒のある文化財なのです。タワー建築の第1人者内藤多仲先生の若いころの設計ですから専門家が感嘆するほどの建築物です。先生は、通天閣や東京タワーなどの設計もしています。早稲田大学には記念館もあるそうです。
 そういう意味でも百聞は一見にしかずですぞ。
 ただ惜しむらくは、昭和初期の建物ですのでかなり傷んでいます。どなたか、こういう建物のリニューアルに資金を提供して下さるとありがたいのです。それを期待しております。
 岩瀬酒造の母屋の土間の梁には、400年前にこの地の荒磯で座礁したスペイン船サンフランシスコ号のキールとマスト材が使われています。こちらも一見の価値がありますよ。現社長ご夫妻は、お人柄がとても柔和なのでどなたでも歓迎してくださいます。ついでに事務所で試飲させてもらい、お気に入りの美酒を求めるのもよろしいのです。
 初しぼり胃の腑若やぐヌード館<  三佐夫/font>

初しぼりを鯛の刺身で

2013-12-24 16:19:41 | Weblog
 岩瀬酒造の屋敷の周辺には、すでに野水仙が愛らしい花を開いています。顔を近づけると、ふくよかな香りが漂っていて、思わず心豊かになります。それを数本摘んで来て花瓶にさすと、室温を感じ取って、すぐに大きいつぼみから開きます。
 朝、目を覚ますと香りがベッドの周りを優しく包んでいて、それはもう今日1日の楽しさと充実感を約束してくれています。
 今日は、岩の井の酒水くみに行くと、社長さんが、初しぼりを1本提げてきて下さった。恐縮していただきました。
 帰り道には、西忠さんへウルメイワシの丸干しがあるかとのぞいたら今朝は、背黒イワシとウルメイワシが半々に混ざって上がったそうで、天日干しにいそしんでおりました。それの半がわきを40本ほど求めたのです。たるには、活きのよい大鯛が5本ほど入っていましたから半身を刺身と塩焼き用に捌いていただきました。
 これで今夜の酒の肴は文句なし。バルコニーの先の網代湾には夕焼雲が千変万化の美の饗宴をしていて、なんとなく心が晴れ晴れするのであります。
 これからお風呂に入り、初しぼりの処女のような味わい?を頂戴しようと思います。
 

ざれ唄ー御宿

2013-12-21 21:02:00 | Weblog
 これで完成です。
">>御宿地酒・地魚讃歌

         安藤 三佐夫  
美酒は 岩の井 山廃仕込み
 魚は 西忠 活きの良さ
  寿司は 田中の地魚寿司
鶴乃寿司 かね八  
料理は こだわり 中村 舟勝 
 居酒屋は 石松 松よし 肴よし
泊りは マタエム(又右衛門) 
大野荘
舌鼓打つ味の良さ
白砂青松 網代湾
月の沙漠で賑やかに―。
   キジはた、はた、鮃、ほうぼう、かさご、
細魚、かます、眼張、鮃、真鯛、石鯛、
め鯛、ひらまさ、かんぱち、鱸、鯔、
大鯵、大鰯、背黒鰯にうるめ、地蛸、
戻り鰹に餅鰹、メジ鮪、鮑、トコブシ、
栄螺、伊勢海老 
地魚 うまし 切もなや 
それ!よいとなぁ

 魚の名前は、読めますか?その姿はイメージできますか?

一衣帯水の北の国を悲しむ

2013-12-17 18:00:41 | Weblog

 冬怒涛
  今も粛清 
   虐殺史  三佐夫

 徳川の世にもありましたぞ! 
 それは、金山奉行の7大久保長安一族の虐殺です。
埋葬されていた長安の遺体が掘り起こされ、安倍川河原で磔に処された。同日、大久保長安の7人の男児と腹心は処刑となる。
長男・大久保藤十郎(享年37)
次男・大久保藤二郎(享年36)
三男・青山成国(大久保権之助)(享年30)
四男・大久保運十郎(享年29)
五男・大久保藤五郎(享年27)
六男・大久保権六郎(享年23)
七男・大久保藤七郎(享年15)
腹心の戸田藤左衛門と山田藤右衛門、配所で処刑。

その後も粛清は続いた。大半は長安と縁戚関係にあったことから、連座処分で粛清された者が多い。
5月、米津正勝が堺奉行を解任されて阿波国に配流(表向きの理由は収賄)。
8月、青山成重が7000石を没収され、幕府年寄役も解任されて閉門処分。
10月19日、石川康長が改易されて豊後国佐伯に配流。弟の石川康勝、石川康次も後に改易(表向きの理由は所領隠匿罪)。
10月24日、富田信高が改易されて奥州岩城へ配流(表向きの理由は坂崎直盛との争い)。同日、高橋元種も信高と同じ理由で改易されて陸奥棚倉藩主・立花宗茂預かりとなった。

明けて慶長19年(1614年)。
2月、米津正勝が処刑される。
7月27日、佐野信吉が改易されて信濃国松本藩へ配流。
8月21日、忠輝の家老・花井吉成が自害。
武田信玄の孫・顕了とその子である武田信正(教了)が伊豆国大島に流罪。

その他にも、長安と深い関係にあった伊達政宗や池田輝政らであるが、政宗と加藤嘉明は無罪となった。これは家康が、彼らが謀反を起こした場合を恐れたためと言われている。池田輝政は長安より3ヶ月早い慶長18年1月25日に姫路城にて死去(享年50)し、浅野幸長は同年8月に急死(享年38)、山崎家盛は慶長19年10月に死去(享年48)したため、お咎めなしとなった。ただし、幸長はあまりに突然の若すぎる急死だったため、毒殺説も囁かれている。

また、長安の寄親であった忠隣であるが、家康青年期における重度の軍功、さらに徳川秀忠からの信任も厚かったという経緯から、ひとまずは改易を免れた。しかし本多親子にとって目障りな存在である大久保忠隣は翌年、長安事件の余波のほかに、忠隣が家康の豊臣氏討伐に反対していたこと(忠隣の孫娘が豊臣氏家老の片桐且元の甥・片桐貞昌に嫁いでいた)、忠隣の養女と山口重信の無断婚姻などの諸因からまたも本多親子に讒訴されて、慶長19年1月、遂に改易となり近江へ追放された。家康は忠隣が豊臣氏討伐を反対していることに苦々しさを覚えていたとされ、本多親子は元・武田氏の家臣であった馬場八左衛門という老人を使って、忠隣について家康に讒言させたとも言われている。

『徳川十五代史』においても、「大坂を倒すの策に至りては、忠隣の忠愛、性のなしがたき所において、正信父子の好んでこれを為す所なり。ここにおいては、その相容れざることますます甚だしく、忠隣の大坂の孤危を憐れむもの、却って内通の姦あるやと疑われるに至れり」と、忠隣が豊臣氏討伐に反対し、それにつけこんだ本多父子の陰謀によって改易されたと記されているほどである。

忠隣は改易後、近江国彦根藩の井伊直孝預かりとなった。ただし大久保氏は、忠隣の嫡男・忠常(慶長16年に32歳で早世)の子・忠職(仙丸)が家康の曾孫であることが考慮されて、家督と武蔵国騎西藩2万石の所領を継ぐことで、存続を許された。以上は、ウイキリークス参照、引用。

 拙著「命燃ゆ」(3月刊行 冬幻舎ルネッサンス)では、お万の方が大御所に苦しみを訴えさせておりますが、400年後にも他国とはいえ、こういう事件が起こるとは、涙も出ません。

3国友好の花園の皇帝ダリアとひまわりーTBSテレビが今朝放映!

2013-12-15 15:01:41 | Weblog
 すでに時期は遅いのですが、テレビ局も熱心のものです。作業の中心の内山さんは、今日が誕生日だそうで、タイムリィの放映でした。お誕生日おめでとう!
 わざわざ東京から中継車で御宿まで下見に来て、今日が本番ですが、何しろ2分と言う短さに恐れ入りました。
 小生は、この会「皇帝ひまわりと交流の会」の名目だけの会長ですが、この放映が弾みになって、来年の大規模な活動(1500坪の花壇増設予定)に力をつけてくれればと願っています。入会をお待ちしています。年会費1000円。
 この局は、他社よりも小回りがきき、地域に根差すものによく目を向けていますから感心です。昔、拙宅にも5人ほどで取材に見えたことがあります。嵐のような忙しさで撮影と談話を聞いて帰っていきましたが、翌朝には放映されたので感心したことがあります。テーマは、たしか「節分のお寺の豆まき行事に力士がなぜ出るのか?」と言うことでした。相撲協会の広報部長の朝潮太郎は「力士には人気があるからです」などと、とぼけた発言をしていましたよ。寺院には、仁王さん(金剛力士像)がたっていますから節分で邪鬼を追い払うには力士が向いています。
 だが、この局の下請け会社には勇み足もあって、「王様のブランチ」に私の縄文検定のテキスト「縄文文化の魅力」を紹介してくれるというので、楽しみにしていたら取りやめになってしまったことがあります。まさに糠喜びではありました