☆★ ベッドの日であると同時にホームラン記念日。この並びからして明らかにぴーのことである。 因みに、前日: 9月2日 翌日: 9月4日 - 前月: 8月3日 翌月: 10月3日……☆★ イギリスがアメリカ大陸にあった植民地の独立を認めざるを得なくなり、以後200年間で地位が逆転することに(1783年=アメリカ独立戦争の講和条約であるパリ条約が調印)。☆★ 下田のお寺・玉泉寺に星条旗が掲揚され、美しい国による日本の蹂躙が始まる(1856年)。タウンゼント・ハリスが初代駐日アメリカ領事。
本日記載附録(ブログ)
メキシコ南部のオアハカ州西部からプエブラ州南部にかけて広がるミシュテカ文明があった。 ・・・・・オアハカ盆地中央、オアハカ市街の西方10km、比高差400mにある山の頂上にサポテカ文化の中心をなす祭祀センターがあった。 A.D.500~A.D.750紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄したが、ミシュテカの支配を受けて衰退する。
ミシュテカはスペインの「征服者」(コンキスタドール)がやってくる前、アステカ皇帝アウィソトル(在位1486年-1502年)によって30年ほど征服されていた。 彼らはスペイン人とペドロ・デ・アルバラード率いる中央メキシコの同盟軍に鎮圧されるまで、スペイン人の支配に対し、激しく、血みどろの抵抗をした。
【この企画はWebナショジオ】を基調に編纂(文責 & イラスト・資料編纂=涯 如水)
古代メキシコ、謎の「黄金の胸飾り」はいったい何者か?
◇◆ アステカ帝国に屈服するも ; 黄金の胸飾 =2/3= ◆◇
カソは、胸飾りが「ロード5リザード」と呼ばれる統治者を表していると結論付けたが、それとは異なる解釈をする学者もいる。カナダ、カルガリー大学の考古学名誉教授であるジョフリー・マカファティ氏は、この胸飾りが「レディ3フリント」という人物を表していると考える。ヘビの頭飾りが、絵文書でこの女性が身につけているものと同じだからだ。
マカファティ氏は、胸飾りの所有者はこの女性の子孫である「レディ4ラビット」ではないかと考え、「祖先の正当性を示す家宝として着用したのかもしれません」と話している。
現在、この胸飾りをはじめとするモンテ・アルバン7号墳墓からの出土品は、メキシコ、オアハカ州のオアハカ文化博物館(サント・ドミンゴ教会に隣接)に収蔵されている。
文=BRADEN PHILLIPS/訳=鈴木和博
参考記事: マヤ史上最大の遺跡を発見、浮かび上がる謎
中米メキシコで、マヤ文明が栄えた地域としては最古かつ最大の構造物が発見された。南北1400メートル、東西400メートルにわたって広がる土の基壇(上に建物を建てるための基礎部分)で、今から3000年前に造られたものという。6月3日付の学術誌「Nature」に論文が発表された。
マヤ文明の最盛期は「古典期(西暦250年〜900年)」とされるが、近年の研究では、その1000年以上前により大きな構造物が造られていたとする見方が広がりつつある。今回の発見は、この考えを支持するものだ。
発見場所は、メキシコの首都メキシコシティーから東に約850キロ、タバスコ州にあるアグアダ・フェニックス遺跡。この遺跡は、マヤ文明発祥の地とされるマヤ低地にある。
発端は2017年のLiDAR調査。レーザー技術を使い、航空機から密林の樹冠の下に広がる構造をとらえる調査方法だ。すると、何百年もの間、なかば森に埋もれ見過ごされてきた放牧地から、驚くべきものが浮かび上がった。巨大な基壇と、そこへ通ずる少なくとも9本の道路だ。
なぜ、これほどの遺構が今まで見つかっていなかったのだろう?
「説明が難しいのですが、この巨大な構造は、現場を歩いてもよくわかりません」と、論文の筆頭著者である米アリゾナ大学の考古学者、猪俣健氏は話す。「高さは9メートル以上ありますが、水平方向にあまりに大きいため、その高さを実感できないのです」
「想像するしかない儀式」
放射性炭素による年代測定の結果、基壇の建設が始まったのは紀元前1000年頃とわかった。
しかし、アグアダ・フェニックスでは、これ以前の建造物は見つかっていない。つまり、少なくともこの時期までは、この地域の住民(おそらく古典期マヤ人の祖先)は、一時的な野営地を転々とし、狩猟採集生活を送っていたとみられる。ではなぜ、どのようにして突然こうした巨大構造物の建造に至ったのか。
猪俣氏の推定によると、基壇とその上の建造物の総体積はおよそ370万立方メートルと、エジプト最大のピラミッドすらもしのぐ。また、建造には5000人が終日働いても、6年以上を要したと算定した。
「ここは儀式場だったと、我々は考えています」と同氏は話す。「想像に過ぎませんが、おそらく行進やその他の儀式に関連して人々が集まった場所だったのです」
・・・・・・明日に続く・・・
⨁⨂参考資料: モンテ・アルバン/Monte Albán (2/3) ⨂⨁
モンテ・アルバンの初期の歴史と「踊る人々」の石彫
現在残っている建造物は、古典期に相当するモンテ・アルバンIII期のものがほとんどであるが、中央広場南西部隅にある「踊る人々の神殿」(Temple of the Danzantes)は、先古典期中期末から後期初頭の建造物で、神殿の周囲におかれた石彫には、あたかも踊っているように見える人物像「Danzante」や未解読のサポテカ文字とともにマヤにも受け継がれることになる点と棒表記の数字が暦と思われる表記とともに刻まれている石碑も見られる。
「踊る人々」の石彫は、140以上見られ、髭を生やした老人、切り落とした首だけになっているもの、恥ずべき裸の姿にされた証拠に性器の輪郭が刻まれたり、性器の切除が刻まれ、血が流れている場面まで刻まれている。
これは、モンテ・アルバンの支配者によって捕虜にされて拷問にかけられたり、殺害された首長や王たちを刻んでいると推定されている。このような石彫を刻むことによってモンテ・アルバンの支配者の権力、軍事力を誇示し、正当化する意味があったと考えられている。
人物像の脇に刻まれたサポテカ文字は犠牲になった人物の名前を示しているのかもしれない。またマヤで用いられる260日暦(ツォルキン暦)365日暦(ハアブ暦)の祖形ができていたことが石碑に刻まれた碑文から判明している。
モンテ・アルバンI(前500年~前100年)、II期(前100年~200年)にかけて、都市の西部と北部に約3kmにわたって防御壁が築かれ、ダムと約2kmにわたる用水路が建設された。モンテ・アルバンの人口は紀元前100頃には1万7000人、オアハカ盆地全体では、5万人に達したと推定される。
モンテ・アルバンII期になると、天文台と考えられる建造物Jが建設され、その壁面には40以上の「征服石版」がはめ込まれている。「征服石版」には、人身御供になった人物や征服地または貢納を行なっていたと思われる地名が刻まれている。
モンテ・アルバンII期の支配者は、140km圏内の町々を征服し、北方100kmのオアハカ盆地とテワカン盆地の中間点にクイカトラン・カニャーダ(Cuicatlán Canada)に前進軍事基地を築いた。
テオティワカンとの交流と繁栄
モンテ・アルバンIIIa期(200年~500年)には、南基壇の高さ15m長さ100m以上のピラミッドをはじめ中央広場の多くの建造物が築かれた。人口は1万6500人に達したと推定され、オアハカ盆地全体では、11万5000人に達したと考えられている。
この時期の特徴は、テオティワカンを意識したタルー・タブレロ式の建造物が築かれ、南基壇の4隅にある石碑のうち、石碑リサ、石碑7号にテオティワカン人来訪の記事が浮き彫りで刻まれ、建造物Xからも両者の政治的な会合を記念したと思われる石碑が発見されている。 ・・・・・・明日に続く
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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