○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○
★= 「タタールのくびき」からの脱却 ⑭=★
製塩事業で巨大な富を築いたストローガノフ家にイヴァン4世(雷帝)は、1558年 ヴォルガ川水系の上流域であるカマ川とチュソヴァヤ川沿いの広大な地域一帯を彼らの荘園に与えた。 もっともその土地は、地元の住民から力で押収し、農民を入植させたものであり、ストローガノフ家はこれらの土地で農業、狩猟、製塩所、漁業と鉱石採掘などの事業を拡大しいった。
ストローガノフ家は町と要塞を建設し、1566年に自らその所領をオプリーチニナ(ツァーリの私的な領地)に編入した。 同時に、ツァーリの助けを借りて反乱を抑えつつ、ウラル、シベリアに新しい土地を拡大していった。 彼らの東方への進出はタタール(蒙古)のシビル・ハン国領域を侵食する事であった。 1577年ごろ、ストローガノフ家はシベリアにおける権益をシビル・ハン国からの攻撃から守るため、イェルマークをシビル・ハン国との戦いの責任者に任命した。
コサックの首領イェルマークがシビル・ハン征服に乗り出し、1581年にはイヴァン4世(雷帝)がコサックの棟梁イェルマークにお墨付きを与えてシベリア征服事業を推進する。 そして、1582年にシビル・ハン国の征服が完了し、ジュチウルスの一党であるシビル・ハンは南方に離散し、1598年のウマル川の戦いで滅亡するが、イェルマーク自身も傷つき、戦死した。 他方、1555年に設立されていたイギリス・モスクワ会社と新たなシベリアの領土から穫れる黒テンの毛皮を交易する関係が深まる。 この毛皮貿易は、恐怖政治を敷くイヴァン4世のツァーリ制度の強権からの逃亡農民を取り込んで東へさらに領土を拡張していく原動力となった。
1581年、イヴァン4世は後継者であった同名の次男イヴァンを誤殺してしまった。 事の顛末は、まず息子の妻エレナ・シェレメチェヴァが妊娠中に正教徒が着るべき服を着ず、また部屋着一枚でいたことにイヴァン4世が激怒し、家長権にもとづいてエレナを殴打したところから始まる。 幼少より司祭から「家庭訓」によって「家長権を行使するようにツァーリは国家に対して家長権を行使する」と教えこまれた程に家長権は絶大であり、イヴァン4世(雷帝)は息子の妻を過去に二度選んでは気に食わず追放していたにである。 息子にとって三人目の妻にあたるエレナもイヴァン4世が選んでいたが、これも次第に嫌って暴力を振るうようになっていた。
息子のイヴァンは父の様子に気づくと、彼自身も家長権に服さなければならない立場だったが妻を殴打する父の様子は尋常ではなく、その手を抑えずにはいられなかった。 しかし家長権の行使を止められたイヴァン4世は、これに我を失った。 かねてより次男イヴァンが貴族たちと友好的な関係を築いていたことに猜疑心を抱いていたとも言われているが、イヴァン4世はツァーリの象徴とされる錫杖を手にとって振り下ろし、落ち着きを取り戻した時はエレナは震えて座り込み、息子イヴァンは耳を押さえてうめき声をあげていた。
またそれを助け起こそうとする家臣ボリス・ゴドゥノフも額から出血しており、イヴァン4世はそれを見て自分が何をしたか理解したが、もはや取り返しがつかなかった。 息子イヴァンはそれから数日後に死亡した。 息子の血を残すはずのエレナのお腹の子も殴打と衝撃により流産に終わり、エレナ自身も死亡したのである。
以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送った。 肉体的、精神的な衰えから統治も停滞した。 生来の不眠症はますます悪化した。 深夜、イヴァン4世の近習は長男ドミトリー、次男イヴァンの名を呟きながら月明かりの回廊を徘徊する皇帝を何度か目撃している。 また皇太子の追悼祈禱にはロシア国内の修道院のみならず、コンスタンティノープル、エルサレム等の国外各地の修道院に依頼し多額の寄進を行ったと言う。 そして、 1584年、イヴァン4世は側近とチェスしている最中に失神し、3月18日に発作を起こして不帰の人となった。 代わって知的障害があり後継者には不適格と思われた三男フョードルが即位し、イヴァン4世の遺言で指名された摂政団に荒廃した国家の統治が委ねられた。
複雑な性格の持ち主で、処刑や拷問を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていたイヴァン4世(雷帝)は自身の体内にはタタールの血が流れ、タタールの宗家・ジュチウルスのジンギスカーンが血脈の諸王家を駆逐して、“タータルの軛”からロシアを解放したのである。 逸話に、1552年10月2日の生神女庇護祭の祭日、モスクワ軍がカザンを陥落させると、イヴァン4世はこの戦勝を記念してクレムリンの隣に生神女マリヤの庇護に捧げる大聖堂を建立した。 この聖ワシリイ大聖堂は1560年に完成し、伝統的なロシア建築である。 「イヴァン4世はその美しさに感動した余り、設計者がそれ以上に美しいものを造らないようにと彼を失明させた」という伝説があるが、これは史実ではない。
しかし、この頃以降、オプリーチニナに代表される恐怖政治が始まる。 1564年の初めに酒宴の席で酩酊して放浪芸人と共に踊りだしたイヴァン4世を大貴族レプニン公が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという。 また、イヴァン4世の下を訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァン4世はオプリーチニキと共に修道院を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や時課を行い、毎夜のように生神女マリヤのイコンに祈りを捧げ、好んで鐘つき役や聖歌隊長を勤めたという。 [一方、午後には処刑や拷問が行われ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。 イヴァン4世は拷問の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されているが・・・・・。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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