○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○
= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =
☠ 流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_☠
◇◆ フラム号の漂流、ナンセンとの再会 ◆◇
ナンセンはフラム号を離れる前に、遠征の残りの指導者をスベアドラップと指名し、大西洋までの漂流を状況の許す限り続けるよう命令を出していた。 その状況とは船を捨てて陸を目指して移動するような事態を考えていた。 ナンセンは科学観測の作業、特に大洋の深度測定や氷の厚さの試験などを続けることについては正確な指示を出していた。 ナンセンは「ノルウェーで会うことがあるとすれば、この船の上か、あるいは船が無くなった状態だろう」と結論付けていた。
スベアドラップの主たる任務は、隊員を忙しくさせ続けることだった。 徹底した春の大掃除を命令し、船を不安定にする恐れがある周りの氷を掻き落とす隊を作ったりしていた。 フラム号に当面の危険性は無かったが、スベアドラップは修理や橇の分解掃除を監督し、船を捨てて陸を目指すことになった場合の物資を纏めることも監視していた。 1895年の夏が近づいて暖かくなると、日々のスキー練習を再開した。 これらの活動の中で気象学、磁気学、海洋学の観測活動はスコット・ハンセンの下で継続された。 フラム号は海洋学、気象学、生物学の動く研究室になっていた。
漂流が進むと海が深くなってきた。 推進測定で深さ6,000フィート (1,800 m) 、9,000フィート (2,700 m) および2,000フィート (610 m) の連続的な値が与えられ、近くに未発見陸地らしいものが無いことを示していた。 1895年11月15日、フラム号は北緯85度55分に達し、ナンセンが記録(1895年3月)した最北端から僅か19海里 (35 km) 南にあるだけだった。
この地点から漂流は次第に南と西寄りとなったが、その動きは長い間ほとんど認識できないほどだった。 不活動と退屈さが飲酒量を増やすようになった。 スコット・ハンセンは、クリスマスと新年が「通常のホットパンチとそれに続く二日酔い」で過ぎたと記録し、「次第次第に酔っぱらいを嫌うようになった」と記していた。 1896年3月半ばまでに、船の位置は北緯84度25分統計12度50分となっており、スピッツベルゲンの北に来ていた。
1896年6月13日、ほぼ3年近く経って初めて海の先端が開き、フラム号は生きている船になった。 =この時期、ナンセンとヨハンセンは食料確保の猟中にセイウチが襲ってきてカヤックが損傷し、修理のために無名島で南方への脱出行を停止する必要が生じていた=。 海上に浮揚したフラム号は、さらに2か月経った8月13日、フラム号は開いた海を見い出し、大砲を放つと共に氷を離れた。
フラム号はスピッツベルゲンの真北および西の氷から出現してきており、ナンセンの当初の予想に近く、ナンセンが正しく、その中傷者が間違っていたことを証明した。 同じ日の遅くに船はトロムソからのアザラシ漁船ノストロンから視認された。 スベアドラップはボートで漕ぎ寄せたが、ナンセンからの新しい情報は得られなかった。 フラム号は短期間スピッツベルゲンを訪れた。 そこでスウェーデンの探検家で技師のサロモン・アウグスト・アンドレーが気球の飛行の準備をしていた。 アンドレは気球で北極点まで運んでくれることを期待していた。 スベアドラップと隊員は短時間上陸した後、南のノルウェーに向かって旅を再開した。
再会とレセプション
遠征が行われている間に、1894年4月には既に、フランスの新聞「ル・フィガロ」で、ナンセンが北極点に到達したという噂が流れていた。 1895年9月、エヴァ・ナンセンはナンセンが署名した「北極点から送られた」というメッセージが発見されたと告げられていた。 1896年2月、「ニューヨーク・タイムズ」はシベリアのイルクーツから、ナンセンの代理人とされる者からの伝言を送り、ナンセンが北極点に到達して、そこで陸地を発見したと伝えさせていた。 アメリカ地理学協会はこれを「驚くべきニューズ」と呼び、「もし本当ならば、この時代になされた最も重大な発見だ」と語った。
専門家達はこれらの報告すべてに懐疑的であり、ナンセンがヴァードーに到着すると直ぐにダメ出しした。 ヴァードーでは、ナンセンとヨハンセンが、北極漂流理論の生みの親であり、たまたまその町に居たモーン教授に歓迎された。 二人は毎週来る郵便配達用蒸気船を待って南に向かい、8月18日にはハンメルフェストに着いて、熱狂的な歓迎を受けた。フラム号に関する知らせが無いことでナンセンの心にしこりがあったが、8月20日に、スベアドラップがハンメルフェストより南にあるシェルベイという小さな港に船を寄せ、その時はトロムソに向かっているという知らせを受けた。 翌日、ナンセンとヨハンセンはトロムソに船で向かい、仲間との感激的な再会を果たした。
祝賀と保養の数日の後、船は8月26日にトロムソを出港した。 南への航海は勝利の凱旋であり、港毎に歓迎会があった。フラム号は最終的にクリスチャニアには9月9日に到着し、軍艦の艦隊に護衛されて港に入り、ハントフォードに拠れば、市では見たこともないような数千人の大群衆に出迎えられた。 ナンセンとその乗組員は国王オスカル2世から歓待された。 歓迎会に行く途上では200人の体操選手が作った凱旋門の下を通過した。 ナンセンとその家族は国王の特別客として宮殿に滞在した。 対照的にヨハンセンは後景に留まり、ほとんど見過ごされており、「われわれの厳し人生の中にあって、現実はつまるところ私に見えるほど素晴らしくはない」と記していた。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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