34:31 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。
34:32 それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。
34:33 モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。34:34 モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。
34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。
このように、イスラエルの民がモーセに近づいて、主の戒めを聞くために、モーセは輝く顔におおいをかけました。この出来事についての説明がコリント人への手紙第二3章に書いてあります。読んでみます。3節からです。「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。」パウロは、旧約の律法に仕える奉仕が、モーセの顔が輝いたように栄光あるものであれば、新約の奉仕者は、なおさらのこと栄光にあふれている、とあります。続けて読みます。
「そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。」モーセが顔におおいをした理由がここに書かれています。おおいは、ただそのまぶしさを隠すものだけではなく、その輝きが消えていくのをイスラエルの民に見せないためでもありました。その輝きは語っているうちに消えていきました。
そしてそのことから、パウロは、現在のイスラエルの人たちも、おおいがかけられているという話に移していきます。「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。」現在でも、ユダヤ教の会堂では、モーセの律法が読まれていますが、モーセにおおいがかけられていたように、彼らの心にもおおいがかけられています。律法の目標であるキリストを受け入れていないために、まだ真理を悟っていない、ということです。
そして、私たちに与えられている、すばらしい約束が次に書かれています。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」モーセが主と時間を取って輝いていたように、私たちも主の栄光を、主との交わりをとおして、反射することができます。いや、モーセ以上に反射することができるのです。キリストのほうに目を向けるなら、そのことによって御霊が私たちを変えていかれます。
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ここでの御霊は聖霊のこと。
聖霊が三位一体について教えるから、罪が無い人(ワクチン未接種)で、神の名前と三位一体を理解した者は永遠の命を約束される。
*ユダヤ教とキリスト教の根本的な違いは、ユダヤ教では「イエスをメシアと認めない」がキリスト教では「メシアはイエスである」と言うことでである。
イスラエルの教えがこれでは真理が理解出来ない為、約束の地には入れない。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります ・・・聖書最後の預言、大いなる恐るべき裁きの日は日本で起こるので、何もかも無くなる。神に救われ生き残った聖徒は「自由」。