生きるということは家族の死と必ず向き合わなくてはいけないことだから、しかたがないことだ。
しかもおじいちゃんは私よりずっと年上だから先に天国に行くのは自然なことだし、もし私が先に天国にいくなんてことがあったらそんなじじ不幸なことはないし、おじいちゃんが穏やかに天国にいけたことはよかったのかもしれない。
でも、やっぱりおじいちゃんに会いたい。
甘えてるのかもしれない。
受け入れていかないといけない。
なるべく考えないようにしてる。まだおじいちゃんの思い出話を懐かしく話すことはできない。
朝起きるとまた病院へ行くような錯覚をしてしまう。
おじいちゃんの住んでた地域に行くとおじいちゃんと一緒にいるときのことを思い出してやっぱりまだ悲しくなってしまう。
瀬戸内寂聴さんが言ってた
「人には時間薬っていうのがあって、その時は本当に死んでしまうんじゃないかと思うほど悲しいことも時間が経つとその苦しみは少し和らぐ。だから人間は生きていける。忘れることはないけれどその瞬間の悲しさは少しずつ緩和されていくものよ」
私は心霊現象みたいなことはまったく経験したことないし、できたら信じたくないと思っているほうだけど
おじいちゃんが亡くなる前の日のよる。
夜中に私は足の裏をくすぐられた。
旦那さんかと思い「ばかじゃないの。くすぐったいからやめてよ」と言って寝た。
朝おきて、旦那さんに「なんで昨日の夜足の裏くすぐったの?少し起きちゃったよ」というと
旦那さんは「寝ててそんなことはしてない」と言った。
私は「え?」と思った。そんなこというと嘘だろと思われるかもしれないけど・・はっきりとはっきりとくすぐられた。
勘違いでも何かがあったのではなく。
間違いなく足の裏を手でくすぐられた。
旦那さんは「おじいちゃんの足の裏をいつもくすぐってるから仕返しに来たんじゃない?」と冗談言ってた。
私は、おじいちゃんが意識がなくなってから、少しでも反応があったらいいなと思い毎日のように足の裏をくすぐっていた。
ちょっとでもピクってなればいいなと思い。
入院したばかりの頃は私が足の裏をくすぐると「くすぐってーわい。」と言ってくれた。
でもどんどん反応はなくなっていって
その頃はどんなにくすぐってももう反応はなくなっていた。
でも私は毎日おじいちゃんの足の裏をくすぐった。
ちょっとでもちょっとでも反応がほしくて。
お母さんは「やめなさいよ」といつも注意した。
そして朝、そんな話をしてるとお母さんから電話があり「病院から電話で早くきてとのこと」と・・
9時に病院について11時3分におじいちゃんは息を引き取った。
旦那さんの言うようにいつも私に足の裏くすぐられてたからさよならと一緒にお返しにきたのかな。
今、私はおじいちゃんは死んじゃったけど、私とおじいちゃんはフュージョンしたと思ってる。
ドラゴンボールのあれですよ。若輩ものの私はおじいちゃんとフュージョンしてパワーアップしたと思ってる。
おじいちゃんは死んじゃったけど、私の中では生きてる。というか一緒にいる。
そう思ってる。「千の風になって」の意味がいまならわかる。
おじいちゃんの姿はないけど
稲穂を見ても、山を見ても、何気ない信号をみても、歌を聴いても、そこにおじいちゃんがいるような気がする。
おじいちゃんがいつも一緒だから恥ずかしくない生き方をしていきたい。
おじいちゃんの孫であることが私の何よりの自慢だから。
また、足の裏をくすぐりにきてくれるといいな。
おじいちゃんならこわいっていう思いがない。
足の裏を布団からだして楽しみに待ってるよ