goo blog サービス終了のお知らせ 

都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
時には庭の花の写真、時にはテーマパークの写真。

縁切榎 板橋区本町

2013-11-02 19:30:56 | 都内散歩
縁切榎  (板橋区本町)  

【住 所】東京都板橋区本町18-9 Mapion地図
【縁切榎:板橋区の掲示】
江戸時代には、この道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。
板橋宿仲宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎を避けるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
まお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
男女の悪縁んを切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
平成一八年三月  板橋区教育委員会

【縁切榎の由来説】
縁切榎は榎大六天神社の御神木で、祀られている大六天は神道の神ではなく仏教の神(天魔)様です。
またこの縁切の伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。ここから借用縁切霊木譚


【縁切榎 の写真】 平成25年10月27日
 三代目の縁切榎

 縁切榎の祠 

 縁切榎の板橋区の掲示 

 初代縁切り榎は明治時代に焼失したが、一部がコンクリートで固められて石碑となっている。
 なお、二代目は昭和四十年代に切られてしまったとか。 

 縁切榎に奉納され絵馬 


 





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラグビー 日本 ニュージー... | トップ | 第45回 全国大学対抗駅伝... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

都内散歩」カテゴリの最新記事