『新潮45』 (2013年第6月号)で佐伯啓思氏の発言の引用
佐伯啓思×西田昌司の対談”日本人が一夜にして蘇る「秘策」あり”
小見出し”「国際社会」の罪深さ”というテーマから引用
【佐伯】・・・・。考えてみると、近代社会は、たとえば近代国家は個人の自由を基本的な価値にしましたね。生命、自由、そういうものを基本的人権としてまず尊重する。そして平和でしょう。民主主義、平等主義。それに幸福、富の追求。これは基本的に市場原理で行って行く。これらを重要な柱にして、国家が成り立って来ましたね。
近代国家や近代民主主義の形成期には、何かある種の理想のようなものも、もしかするとあったかも知れない。あるいは、それを抑圧していた専制君主がいた時分ならね。もっと個人の自由がほしいとか、みんな平等なはずだとか、そうした声が少なからず「理想」に聞こえたかもしれません。しかしある程度達成されると、結局、国民一人ひとりの放縦な欲求の解放にになる。皆が自由を求めればその自由は競合して互いに自由の食い合いになり、最後は誰かが「力」ににものを言わせるという話になってくる。
・・・・。
【佐伯】幸福や富を追求する場である自由競争も同じですね。結局「力」です。一見、競争を公正なルールで行っているように見えますが、そのルールの中で力の強い方がどうしたって勝つように出来ているわけです。
そうすると、今、市民社会なり国際社会なりを作っているように見える近代国家の生み出した基本的人権、自由、平等、それから市場競争や富の追求であるとか、こうした原理原則、近代的なルールも、一皮剥けばやはり力の強いものが有利になるように出来ているという話です。
『新潮45』 (2013年第6月号), p.35-36で 佐伯啓思氏の発言の引用
『新潮45』 (2013年第6月号)で佐伯啓思:反・幸福論第29回より引用
小見出し”「大地の経済学」から引用
・・・・、われわれの経済観念はどうしても土地に対する信頼に基づいているのです。よかれあしかれそこから始まっているのです。「農」がまずは基本なのです。ここで別に『日本書紀』を持ち出して、天孫降臨に際して、アマテラス大御神が、その孫に稲穂を持たして、高天原の稲作生活を人間に伝えた、という話をもちだすまでもないでしょう。「ニニギノミコト」がすでに稲作を暗示する言葉で、葦原の国は葦が茂った場所です。その場所が、稲穂がおい茂る瑞穂の国でした。米作りは、かくて、もともと日本人にとっては、神とともにある生活であり、したがって、神に対する感謝やそれを表現する共同体の祭りと不可分だった。農と村と祭りは不可分だったのです。
ここに、稲作、米作りは、人が痩せこけた土地に働きかけそこから商品を作りだすというような西欧の経済観念すではなく、それ自体が、神のめぐみであり、さらには自然のめぐみである、という観念もでてきた。日本では、いくら土地を耕しても、決してジョン・ロックのような「労働価値説」などでてこないのです。農は、日本では、かくて、神とともに生きる生活が作り出すおのずからの秩序にほかならなかったのです。
アマテラス大御神の親切心が日本資本主義の原型だなどとはいいません。しかし、土地がある程度、安定した形で価値を生みだす社会における経済観念は「砂漠の経済学」とは大きく異なったものであることは容易に想像のつくところでしょう。「無」から「価値」が生みされる。さらには「カネ」が「カネ」を生む、という錬金術的発想はわれわれには無縁というものなのではないでしょうか。われわれにはあのアラブ人のように「失敗してもどうせ無に戻るだけさ」というあっけらかんとして覚悟もありません。失敗しても土地が残るのです。辛抱強く待てばまた富は生み出されるのです。ここから日本人の経済観念の特徴がでてきます。勤勉さと忍耐力、組織の重視、集団の規律への従順、短期の利益より長期の安定への志向、金銭的評価にのらないものの重視、労働目体への敬意といったものです。ここでは利益を生むよりも、汗水たらして共同で働くことが大事なのです。
かくて「砂漠の経済学」に対して、日本のそれは、強いていえば「大地の経済学」といってもよいでしょう。
そしてこれらは日本的経済のエートスとされたり、日本的経営の特質などといわれてきたものなのです。それほ、「砂漠の経済学」である、富を生むものとしての「資本」への期待、どこへでも持ち運べる「カネ」への固執、個人能力の
重視、といったエートスとは対照的といってもよいでしょう。
今日、日本経済はたいへんな苦境に立たされています。アべノミクスによってちょっと調子が戻った、というようなことではすみません。グローバルな激しい経済競争のなかではどうしても苦境に立たされるのです。
それは、よくいわれるように、行政規制が強すぎるからだとか、非合理的な日本的経営に固執しているからだといったようなことではありません。もっと根本的なところで、われわれの心の奥底にある経済観念とグローバルな金融経済を動かしているエートスの間にあまりに大きな隔たりが生まれてしまっているからです。「砂漠の経済学」のエートスはなかなかわれわれにはなじまない。ヘッジファンドに代表されるような個人主義的で狩猟的な富の獲得という精神は、「大地の経済学」のエートスとは容易にはなじまないのである。
安倍首相は著書『新しい国へ』(文春新書)の中で、どうも今日のグローバルな金融本義は強欲でよくない、日本はいわば「瑞穂の国の資本主義」でいかなければ、と述べています。「瑞穂の国の資本主義」とは、「農」の上に「工」
がのり、その上に「商」がのり、その上に「金融」がのるような構造をもった経済です。支えるのは「農」なのであり、この土台があってようやくバランスの取れた経済ができると。そこで始めて勤勉の精神や集団的な協力といつた国の精神」をもった日本の経済が成立する。それは、金融中心のいわば強欲主義とは違うのです。
今日、グローバルな金融資本主義は、ますますバブル的になり、刹那的であり、利益優先的になっています。「無」から「金(カネ)」を生みだすことに奔走し、相互に食い合っている有様です。それはますます強欲資本主義に近づいているようにみえます。
この時代に、日本人の「大地の経済学」にみあった経済像を描き出すのはたいへんな作業でしょう。われわの経済観念は、激しい競争を通じて個人的利益を追求するものでもないし、錬金術的にバブルによってカネがカネを生むことをよしとするものでもありません。すべてを合理性と効率性による判断に委ねようというものでもありません。それゆえにこそ、今日、苦境に立たされているのは、このようなわれわれの経済観念なのです。そして、本当はわれわれ自身が復権を期待しているものも、このような経済観念なのです。
佐伯啓思. 反・幸福論 第29回「砂漠の経済学」と「大地の経済学」".『新潮45』 (2013年第6月号), p.330-332
佐伯啓思×西田昌司の対談”日本人が一夜にして蘇る「秘策」あり”
小見出し”「国際社会」の罪深さ”というテーマから引用
【佐伯】・・・・。考えてみると、近代社会は、たとえば近代国家は個人の自由を基本的な価値にしましたね。生命、自由、そういうものを基本的人権としてまず尊重する。そして平和でしょう。民主主義、平等主義。それに幸福、富の追求。これは基本的に市場原理で行って行く。これらを重要な柱にして、国家が成り立って来ましたね。
近代国家や近代民主主義の形成期には、何かある種の理想のようなものも、もしかするとあったかも知れない。あるいは、それを抑圧していた専制君主がいた時分ならね。もっと個人の自由がほしいとか、みんな平等なはずだとか、そうした声が少なからず「理想」に聞こえたかもしれません。しかしある程度達成されると、結局、国民一人ひとりの放縦な欲求の解放にになる。皆が自由を求めればその自由は競合して互いに自由の食い合いになり、最後は誰かが「力」ににものを言わせるという話になってくる。
・・・・。
【佐伯】幸福や富を追求する場である自由競争も同じですね。結局「力」です。一見、競争を公正なルールで行っているように見えますが、そのルールの中で力の強い方がどうしたって勝つように出来ているわけです。
そうすると、今、市民社会なり国際社会なりを作っているように見える近代国家の生み出した基本的人権、自由、平等、それから市場競争や富の追求であるとか、こうした原理原則、近代的なルールも、一皮剥けばやはり力の強いものが有利になるように出来ているという話です。
『新潮45』 (2013年第6月号), p.35-36で 佐伯啓思氏の発言の引用
『新潮45』 (2013年第6月号)で佐伯啓思:反・幸福論第29回より引用
小見出し”「大地の経済学」から引用
・・・・、われわれの経済観念はどうしても土地に対する信頼に基づいているのです。よかれあしかれそこから始まっているのです。「農」がまずは基本なのです。ここで別に『日本書紀』を持ち出して、天孫降臨に際して、アマテラス大御神が、その孫に稲穂を持たして、高天原の稲作生活を人間に伝えた、という話をもちだすまでもないでしょう。「ニニギノミコト」がすでに稲作を暗示する言葉で、葦原の国は葦が茂った場所です。その場所が、稲穂がおい茂る瑞穂の国でした。米作りは、かくて、もともと日本人にとっては、神とともにある生活であり、したがって、神に対する感謝やそれを表現する共同体の祭りと不可分だった。農と村と祭りは不可分だったのです。
ここに、稲作、米作りは、人が痩せこけた土地に働きかけそこから商品を作りだすというような西欧の経済観念すではなく、それ自体が、神のめぐみであり、さらには自然のめぐみである、という観念もでてきた。日本では、いくら土地を耕しても、決してジョン・ロックのような「労働価値説」などでてこないのです。農は、日本では、かくて、神とともに生きる生活が作り出すおのずからの秩序にほかならなかったのです。
アマテラス大御神の親切心が日本資本主義の原型だなどとはいいません。しかし、土地がある程度、安定した形で価値を生みだす社会における経済観念は「砂漠の経済学」とは大きく異なったものであることは容易に想像のつくところでしょう。「無」から「価値」が生みされる。さらには「カネ」が「カネ」を生む、という錬金術的発想はわれわれには無縁というものなのではないでしょうか。われわれにはあのアラブ人のように「失敗してもどうせ無に戻るだけさ」というあっけらかんとして覚悟もありません。失敗しても土地が残るのです。辛抱強く待てばまた富は生み出されるのです。ここから日本人の経済観念の特徴がでてきます。勤勉さと忍耐力、組織の重視、集団の規律への従順、短期の利益より長期の安定への志向、金銭的評価にのらないものの重視、労働目体への敬意といったものです。ここでは利益を生むよりも、汗水たらして共同で働くことが大事なのです。
かくて「砂漠の経済学」に対して、日本のそれは、強いていえば「大地の経済学」といってもよいでしょう。
そしてこれらは日本的経済のエートスとされたり、日本的経営の特質などといわれてきたものなのです。それほ、「砂漠の経済学」である、富を生むものとしての「資本」への期待、どこへでも持ち運べる「カネ」への固執、個人能力の
重視、といったエートスとは対照的といってもよいでしょう。
今日、日本経済はたいへんな苦境に立たされています。アべノミクスによってちょっと調子が戻った、というようなことではすみません。グローバルな激しい経済競争のなかではどうしても苦境に立たされるのです。
それは、よくいわれるように、行政規制が強すぎるからだとか、非合理的な日本的経営に固執しているからだといったようなことではありません。もっと根本的なところで、われわれの心の奥底にある経済観念とグローバルな金融経済を動かしているエートスの間にあまりに大きな隔たりが生まれてしまっているからです。「砂漠の経済学」のエートスはなかなかわれわれにはなじまない。ヘッジファンドに代表されるような個人主義的で狩猟的な富の獲得という精神は、「大地の経済学」のエートスとは容易にはなじまないのである。
安倍首相は著書『新しい国へ』(文春新書)の中で、どうも今日のグローバルな金融本義は強欲でよくない、日本はいわば「瑞穂の国の資本主義」でいかなければ、と述べています。「瑞穂の国の資本主義」とは、「農」の上に「工」
がのり、その上に「商」がのり、その上に「金融」がのるような構造をもった経済です。支えるのは「農」なのであり、この土台があってようやくバランスの取れた経済ができると。そこで始めて勤勉の精神や集団的な協力といつた国の精神」をもった日本の経済が成立する。それは、金融中心のいわば強欲主義とは違うのです。
今日、グローバルな金融資本主義は、ますますバブル的になり、刹那的であり、利益優先的になっています。「無」から「金(カネ)」を生みだすことに奔走し、相互に食い合っている有様です。それはますます強欲資本主義に近づいているようにみえます。
この時代に、日本人の「大地の経済学」にみあった経済像を描き出すのはたいへんな作業でしょう。われわの経済観念は、激しい競争を通じて個人的利益を追求するものでもないし、錬金術的にバブルによってカネがカネを生むことをよしとするものでもありません。すべてを合理性と効率性による判断に委ねようというものでもありません。それゆえにこそ、今日、苦境に立たされているのは、このようなわれわれの経済観念なのです。そして、本当はわれわれ自身が復権を期待しているものも、このような経済観念なのです。
佐伯啓思. 反・幸福論 第29回「砂漠の経済学」と「大地の経済学」".『新潮45』 (2013年第6月号), p.330-332
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