汨羅の観察人日記(一介のリベラルから見た現代日本)

自称『リベラル』の視点から、その時々の出来事(主に政治)についてコメントします。

【国益】なるものの耐えられない軽さ

2013-05-12 13:35:58 | 政治全般

先日の参議院本会議において、参議院環境委員長の川口順子氏が、私的な外遊を優先し、委員会開催  の職務を放棄したとして同委員長を解任された。

これに対し、川口議員は「私は、領土と主権を守り、日中関係を改善するという重要な国益を守ったことにより解任されたわけですので、国会の判断は間違っていると言わざるを得ません。」と反論している。

ここでは、①国会会期中の委員長の海外渡航は認められていない ②そもそも、中国外務省の招聘で行われている会合であり、既に相手の手の内に乗っている ③参院での職責は環境委員長であり、外交云々は職責外 ④私的な話で主権云々するほうがおかしい という、そもそも川口氏及び自民との主張が根本から間違っているということは敢えて問題にしない。
本ブログにおいては、川口氏のいう【国益】というものに焦点を充てて書きたい。

そもそも、国益とはなんであろうか。国益とは字義のとおり、「国の利益」である。一方、その対義語は何か。【売国】であろうか。売国とは国を売るということであるが、「国の利益」に対して国を売るでは対義語になりえない。
国の利益に対する対義語であるのだから、国益の対義語は国の損失を意味する【国損】が対義語として近いといえよう。また、国に対して個人の利益というところで【私益】も対義語となり得る。

さて、川口氏や自民党は、委員会の開催日に中国における私的会合を優先したことをもって【国益】と表現したが、では、国会における環境委員会開催は【国益】ではないのだろうか。また、中国の要人と会話することは、国会で環境に関する審議を行うことより重要な国益なのであろうか。
端的に言えば、国会における環境委員会開催は紛う事なき【国益】であるし、それが中国の要人と私的に会話することより重要な【国益】であるとは誰も判断できないであろう。

このように考えると、川口氏や自民党、そして一部メディア(産経新聞)が国益云々騒いでいたが、彼らは単に川口氏の行動を正当化するために【国益】という単語を使用していただけであり、川口氏が中国人と会話することの利益と国会における審議の、どちらがより国の利益であるかなどと言うことは、深く考えていないと言うことがわかる。

そもそも、国家議員、財界人、役人、言論人等、公のために活動する者で、凡そ国家のために働かず、私のために働いている、国家に害を与えようと活動している者がいるのだろうか。ここはほぼ断言して言うがほぼ全員が自分の行いは国のためになると思って行動しているといえる。公の場において国の利益より個の利益を優先しようとして行動している者、国に損失を与えようと行動している者はまずいない。ただ、疑わしい事例として、産経新聞の一部社員が国の利益というより、単なる魔女狩り的下品さをもって記事を書いているようだが、彼らにしても国のためと思ってやっているのだろうと、私としては理解している。

このようにみると、党派的見地、自己の主張へのこだわりから、自分の主張は国益、相手側は国益に反する、売国云々主張しているのが、世間一般における国益論議であるといえる
経済政策による対立、安全保障政策に関する対立、人権に関する対立、種々対立の要因はあるが、ほぼ全員が「自分の行動は国のためになる」、つまり国益になると思ってやっているのであり、これに対し、売国、国益を損ねる云々言って見たところで、単に判断基準が違うとしかいいようがないであろう。

川口氏の事例からみてわかるように、【国益】論議は自分の思想・心情によりいかようにもなるものである。このような単語を用いて自己の行動の正当化を行うあたり、国の利益をどのように考えているのかと疑問に思う。さらに言うと、国の利益など余り考えず、自分の主義主張、考えこそ国の利益に沿っていると考え、そこで思考停止しているとしかいえないであろう。このような状況で発せられる【国益】なる言葉にいかほどの重みがあろうか。そのような状況において発せられた【国益】なる言葉には全く重みがない、軽い言葉になってしまってるといえる。

国益という言葉が、現在の日本において軽く扱われている以上、私は【国益】論議をみると、どうも眉に唾をつけてしまう。
私自身、仕事で国家行政の末端を担っているわけだが、私自身は、何かを考える上で考える基準は「公益」にすべきである考えている。例えば、ある政策は社会・個人の改善・発展にどのように役立つのであろうか。ある政策を行うことによる社会・他人の損失は何か。このような基準である。
幸か不幸か、日本社会において民族・宗教による対立は顕在化していないため、ほとんどの場合において、国の利益と日本社会における利益は同一であると言える。

百人百様の見解があるにも関わらず、党派的見地で自己正当化の方便として発せられる【国益】という言葉の現代社会における使用状況を鑑みると、公人は【公益】という視点で者を見て、社会を見る視点が必要であると強く感じる次第である。


「文革時の壁新聞」としての産経新聞

2013-05-06 11:19:57 | 報道批評


新聞・テレビを始めとしたマスコミ各社は、商売(ビジネス)として新聞を販売し、テレビ番組を作成している以上、必ず想定する主要顧客層があり、そこにターゲティングをして紙面編成・番組編成をしている。
このため、主要顧客層から外れているヒトからみると、バイアスがかかった報道をしているように見えるということは、致し方ないことであると思うし、先日のブログでも指摘したところである。

 しかしながら、大手マスコミの中で、産経新聞は、この仕方のない範疇から大きく外れた、立場が違うからという理由ではない程度の低さが目立つ新聞であるので、ここで紹介しておきたい。

まず、産経新聞のターゲティング層であるが、想定されるのは【自分は保守的である】と思っており、かつ、【教養がない】層であろう。後者の「教養」については、種々定義があるだろうが、ここでは「自分の考えと違う考えも、成り立ちうると理解しうる知的能力全般」と定義しておく。 

産経新聞の紙面及びネット配信の記事を見ればわかるが、産経新聞の報道スタイルの多くは、民主党、中国、韓国を否定し、揶揄するというものである。一例ではあるが、以下にリンクを貼る。但し、MSN産経ニュースは一定期間経過すると、リンクが切れるので、了承してもらいたい
民主党
中国
韓国
これはあくまでも一例である。しかし、産経新聞の場合、このように民主党、中国、韓国に関する報道は、否定的価値観を基準に、批判・揶揄する記事が大半だといってもよい。これは、産経新聞以外の新聞との併読をすれば、はっきりわかる。

このように書くと、「産経新聞は事実を伝えている」と反論する産経新聞社関係者及び熱心な読者もいよう。

しかし、本当に事実なのであろうか。 例えば、上記リンクのうち、民主党が反省会を開くのは事実であるが、菅氏が民主党政権の失敗云々は単なる記者の主観である。そもそも、民主党政権や菅政権が失敗したか成功したか、現段階で判断しようもあるまい。

 四川地震の記事に至っては、記者にとり都合のよいネット上の書き込みを引用し、中国でも韓国的なものは嫌われているといった記事にしているが、凡そ日本でも極一部の程度の低い人間が行っている嫌韓なるものが、中国においてどの程度広がりがあるのかということは捨象し、あたかも嫌韓が中国の土壌としてあるという記事である。そこにはまともな検証もなく、よく言ってエッセイであり、端的にいって賢い中学生の感想文レベルの書き物である。

 このように、産経新聞の紙面作りの特徴は、特定の対象を否定・揶揄するというものである。私としては、このような新聞で社会を知る気にはならないので、当該新聞は購読しない。また、産経新聞社はこのような記事に対して喜んでお金を出して購読している層に対して「新聞」という商品を売り物にしているのであるから、商売としての「新聞」を肯定する私にしてみれば、産経新聞を特に否定しようとも思わない。

 私がここで明らかにしたいのは、産経新聞に書いている事項を「正論」として擁護している方々の内面であり、そのような人々を主要な商売相手にしている産経新聞の性質、さらにいうと質の悪さ・低さである。

 産経新聞の場合、特定の対象とは、現在のところ民主党、中国、韓国である。これらがどうやら「保守」「日本」の敵となってるようである。

私個人として、民主党は旧経世会的価値観が強い、戦後の保守・革新の枠組みで言えば保守政党であり、外交は幣原喜重郎を持ち出すまでもなく、ゼロサムゲームではなく、ウィン・ウィンの関係を目指しうると考えるので、このような「敵」設定は理解に苦しむところである。

 一方、産経新聞を「正論」と持ち上げている方々は、これらを敵と設定し、これらを否定・揶揄することで満足を得ている。さらに言うと、自分は保守であると満足しているわけである。

私に言わせれば、このような発想は、歴史的に見れば【革命勢力】の発想であり、保守とは全く相容れないものであろう。産経新聞を「正論」として持ち上げている方々は目をむいて反発するかも知れないが、産経新聞を「正論」と持ち上げている方々と、革命の熱気に煽られている方々のメンタリティーは同じだという結論に達する。

 そんなバカな、というヒトに問いたい。では、文化大革命時の紅衛兵と、産経新聞を正論と持ち上げ、民主党・中国・韓国が否定・揶揄して納得している方々のとの違いは何かと。所謂実権派を「右派」「米帝の手先」と否定・揶揄し、外国を人民中国の敵として否定するその発想方法と、文革時の紅衛兵とは何が違うのかと。使用する用語が違うだけで、思考形態は全く同じである。

つまり、自分と異なる考え、価値観の存在があり、それがこの世の中に成立するということが理解できない、つまり、教養がないということで同じ穴の狢であろう。

 そして、産経新聞は文革時で言えば、排除の論理で人々を扇動していた壁新聞程度の媒体に過ぎないというのが私の結論である。

 

私が壁新聞と言うのは、もう一つ理由がある。文革時に壁新聞を作成していた人物達、本当に書いている内容を信じていたかというと、疑わしい。彼らは単なる文革派の走狗であり、思想を信じていたというより、権力に興味があった、よく言っても権力に【も】興味があったということであろう。
産経新聞の方々、ご多分に漏れずという傍証があり、これも提示したいのだが、今回はここまでにし、次回、この傍証を紹介したいと思う。


覚醒剤としてのアベノミクス

2013-05-02 00:59:16 | 政治全般

巷間、アベノミクスの効能が喧伝されている。やれ円安で輸出企業が生き返る。やれ、株高で景気が上向く云々。

日本銀行は白川総裁時代の金融政策は忘却の彼方か。日銀総裁は2%のインフレターゲットを達成するため、異次元の金融政策をやると大見得を切った。

大手マスコミは、あたかも日本経済は復活する。ただ、円安による物価高は心配といったような、基本的にはアベノミクスを肯定する記事を書き綴っている。

しかし、端的にいえば、アベノミクスなどバブルを発生させるに過ぎず、日本経済の復活など出来はしないということは、若干の経済学の知識、それもネットで検索できる程度の知識でわかる。そして、もう少し深く考察すると、日本経済を破滅に追い込みかねない、愚作であるということもわかる。

では、まず、アベノミクスとやらで日本経済は復活しないのか。簡単である。少子高齢化社会で生産労働力が減る上、国内市場が縮小する中で、短期的政策で経済成長など出来るわけがないのである。

少子高齢化の影響について若干捕捉する。経済成長は①生産労働力人口の増加、②技術革新及び③資本蓄積の増大によってもたらされる。少子高齢化社会においては、①の生産労働力人口の増加は、まさに人口の増減が直結する話である。③の資本蓄積の増大について、縮小する市場において設備投資等の資本蓄積を行う必要性そのものが減少するということは容易に理解できる。残るは②の技術革新だけとなる。①と③の要因で経済成長を望めない以上、短期的政策で経済成長を目指すということ自体に無理があるのである。

このようにいうと、やれヨーロッパ云々、アメリカ云々指摘する輩が出てくる。しかし、ヨーロッパは欧州そのものが一つの市場であり、経済に占める貿易の割合が2割の我が国とは根本的に経済構造が違う。具体的にいうと、西欧は中欧及び東欧も含めて経済圏にしているので、個々の国を見れば少子高齢化は進行しているが、欧州全体でみると、少子高齢化社会ではない。アメリカに至っては、移民で人口が増えている。

つまり、今の日本に必要なのは目先の経済成長ではなく、少子化対策をしっかりとやって人口増を図り、または女性の社会進出、65歳以上の高齢者が働き続けることの出来る社会システムの構築であり、いわば「漢方薬」的な政策である。

一方、アベノミクスとやらは、目先の株高と円安により、あたかも経済が強いと言われていた時代の日本を彷彿とさせ、一見、日本が復活したように見える。これに釣られ、極短い期間、経済は上向く可能性はある。しかし、経済成長の前提となる事項は何も変わらないのだから、経済成長するわけはなく、いずれ期待はずれに終わり、株は売られ、再び経済は冷え込む。言い換えると、アベノミクスとやらは、日本社会に覚醒剤を打ち、一見、元気になったと勘違いさせるだだということである。

ここで覚醒剤といったのは、単に短期的によくなったと勘違いさせるだけではなく、強烈な副作用があるからである。その副作用とは「日本国債」の価値下落である。

日本円を今まで以上に刷るのだから、短期の投機的な動きは別として、中・長期的には、貨幣量が増えて日本円の価値が下がるのであるから、通貨の価値と連動する国債の価値も下落するということは、一般論として理解できるであろう。国債の価値が下がるということは、国債発行時の利回りが高くなるということである。国債発行時の利回りが高くなると、将来的な償還が問題となる以前に、日本の金融機関が有する日本国債の価値が減ってしまい、結果、日本の金融機関は大量の不良債権を持つということになる。

ここで注意が必要なのは、国債は償還金額で発行されるので、国債の市場利回りが増えると、それより当該金利より低利で調達した時と比し、国債の価格が下がるということであり、金融機関の資産は目減りするのである。自己資本比率で縛られる今日の金融機関の多くは、安全な金融資産として大量の日本国債を有している。これが不良債権化するのであるから、アベノミクストやらを継続すると、日本経済はパニックに陥るのはほぼ間違いないといえる。現に、このリスクが高いからこそ、白川総裁は次元の違う金融政策など拒否をしてきたのである。

これこそ、私がここでアベノミクスは覚醒剤であり、かつ、愚作であると指摘する理由である。

最後になるが、アジアにおいてEUのような経済共同体を形成すれば、西欧諸国のように、少子高齢化ながらも経済成長云々という議論もあると思う。しかし、このブログを作成している段階(平成25年5月1日)の状況を鑑みるに、何を勘違いしたか、靖国神社及び憲法改正で中韓の神経を逆撫でする外交政策を行っているので、東アジアにおける単一市場など安倍政権では、その萌芽すら望むべくもないであろう。