米大統領選の共和党予備選挙において、ロムニー氏がアイオワでの予備選を制した。共和党の予備選に関しては「無知蒙昧・愚かさの競い合い。ブッシュ(子)が聡明に思える」と欧州の新聞で揶揄されている中、見識・政治的手腕とも群を抜いているロムニー氏が極めて僅差とはいえ(アメリカ的意味での)保守層が強いアイオワで勝利したことは、アメリカ社会の良識はまだまだ捨てたものではないと感じた。
一方、我が国はどうなのであろうか?先日の大阪市長選挙を鑑みるに、暗澹たるものを感じずにはいられない。橋下氏の選挙戦略は単純である。『市民の敵「市職員」を討伐するために正義の使者、橋下が乗り込みます。市民の皆さんお力を』というものであろう。その目玉は市をぶち壊して『都』にするというものである。 要は、『市民の敵』を設定し、大衆の怒りをそこに向けさせ、敵を叩く正義の使者として大衆の支持を得るというものである。
このような大衆の「スケープゴートを叩きたい」という感情に訴える手法は結局のところ社会を分断し、理性的な議論を封じ込め、合理性より直感に頼った市運営にならざるを得ず、その負の影響は大阪市民及び大阪府民が直接受けることになる。
私が問題視するのは、歴史の経験則からこのようなことはわかりきってたにも関わらず、世論調査の結果に阿り、橋下氏をあたかも逼塞する日本社会の救世主のごとき言動を弄するマスコミ人である。
一通りの教養のある人間であれば、オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を読んだことがあるだろう。少なくても、マスコミ人に「社会の木鐸」としての自負があるならば、学生時代とはいわないが、マスコミ業界に入った以降は読んでいなければならない本である。
私はマスコミ人が当該書籍を読んだことがあることを前提として書くが、「大衆の反逆」を読んだ上で、世論調査に阿り「橋下提灯記事」を書くとはどのような了見なのかと言いたい。確かに、テレビは視聴率、新聞は購読数があるので「大衆の欲望」に応じた番組編成・紙面編成をしなければならないのは分かる。しかし、それにも限度があるだろう。あのような大衆扇動型政治の行き着く先は知れているのだから、そのことに対ししっかりと警鐘を鳴らしていく、それがマスコミの使命というものである。それを怠っているのであれば、社会の木鐸の名を返上し、人を見ては吼えている狆コロから名をとって『社会の狆コロ』と改称すべきである。
アメリカ政治も、選挙戦におけるネガティブキャンペーン、茶会運動に見られる『極端な保守』の政治的影響力の増大等の問題が多々ある。しかし、共和党の一つの州における予備選ではあるが、アメリカ社会はロムニーという扇動的な政治的主張とは距離を置いている政治家に票が集まる社会的厚みがまだ健在だということが今回の予備選で分かった。
一方我が国は、大阪という一地方の出来事ではあるが、扇動的な政治家が出てきた場合、そこに票が集中するという事態が発生した。但し、今回の橋下旋風は小泉首相(当時)の郵政選挙と同じ事象であり、今回の大阪市長選挙はローカルな特殊事情ということでは説明がつかない。橋下旋風は日本社会全体に起こりうる事態である。 このような○○旋風により、我が国はよくなるのだろうか。感情と思いつきによる投票行動で社会がよくなると私は全く思わない。
マスコミ人は、自社の視聴率アップ、購読数維持・アップの前にやるべきことがあるだろうと声を大にして言いたい。
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