大分県
宇佐神宮(宇佐市)(国宝・国の史跡・天然記念物・国指定重要文化財)
南中桜門
宇佐神宮は大分県宇佐市にある神社です。全国に約44,000社ある八幡宮の総本社で、通称「宇佐八幡」とも呼ばれています。参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としています。
境内は国の史跡に、宇佐神宮社叢(上宮が鎮座する亀山と下宮周辺にかけて広がる常緑広葉樹林の森)は国の天然記念物に指定されています。
呉橋
本殿(第一殿から第三殿に至る3棟)と孔雀文馨(くじゃくもんけい)が国宝に指定されています。
一之御殿(八幡大神)725年創建
二之御殿(比売大神)733年創建
三之御殿(神功皇后)823年創建
一之御殿
文馨は中国から伝わった工芸品(打楽器の一種)で、ここに所蔵されている孔雀文馨は鎌倉時代(1209年)に製作されたものです。
このほか多数の工芸品が所蔵されており、国の重要文化財に指定されています。
宝物殿
臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)(臼杵石仏)(臼杵市)(国宝・国の特別史跡)
大日如来像(古園石仏群)
臼杵磨崖仏は臼杵市にある4群60余躯の磨崖仏で、一般には臼杵石仏の名で知られています。その規模と数量において、また彫刻の質の高さにおいて日本を代表する石仏群となっています。
1952年、国の特別史跡に指定
1962年、国の重要文化財に指定された後、
1995年、磨崖仏では全国で初めて、国宝(彫刻の部)に指定されました。
ホキ石仏第一群第四龕(地蔵十王像)
臼杵石仏像は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、1000年もの間、風雨に曝され続けてきました。阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られたこの石仏は元々脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わって石仏を削り取ってしまったため、現在は多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっています。
ホキ石仏第二群第二龕(九品の弥陀像)
このように劣悪な環境の中で多くの仏頭が剥落しましたが、中でも最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は1994年に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままでした。
1995年の国宝指定の際にその条件として仏頭を元の位置へ修復することを文部省(当時)から提示され、現在の姿に復元されることとなりました。
ホキ石仏第二群第一龕(阿弥陀三尊像)
臼杵石仏像の神秘的なところは、これらが造られた事情や時期を証する史料が一切残っておらず、いつ何のために作られたのか全く不明である、ということです。
仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されていますが、何れにしてもこの60余躯もの像をいったい誰が、何を思い作ったのでしょう。
ホキ石仏第一群第二龕(如来三尊像)
富貴寺(ふきじ)(豊後高田市)(国宝・国の史跡・国指定重要文化財)
富貴寺大堂
富貴寺は豊後高田市にある天台宗の寺院で、山号を蓮華山と称します。本尊は阿弥陀如来、開基は仁聞と伝え、宇佐神宮大宮司の氏寺として平安時代(718年)に創建されました。
阿弥陀堂(富貴寺大堂)は近畿地方以外に所在する数少ない平安建築で、京都府の治平等院鳳凰堂、岩手県の平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物となっています。
1952年、大堂が国宝に指定されました。
2013年、富貴寺境内が国の史跡に指定されました。
山門と両袖に立つ阿吽仁王像
その他、木造阿弥陀如来坐像(本尊、平安時代)、大堂壁画が国の重要文化財に指定されています。
夜の大堂の中に見える木造阿弥陀如来坐像
豆田町(まめだまち)(日田市)(重要伝統的建造物群保存地区・国指定重要文化財・登録有形文化財)
豆田町
豆田町は日田市市街地北部の花月川沿いにある地区です。
江戸時代以降の商家や蔵屋敷が多く残り、当時建てられた古い建築群が現存、保存されています。
商家の町並み
御幸通りでは電柱を撤去し地下に埋める工事を行い、より伝統的町並みを再現しています。
町の随所に見られるクランク状の道路は旧城下町によく見られる枡形と呼ばれる造りで、わざと見通しを悪くして侵入者(敵)を待ち伏せするためとも、距離感を狂わせるためともいわれています。
国土交通省より「美しいまちなみ賞」を受賞。
2004年、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
蔵屋敷
●国指定重要文化財
草野家住宅(主屋、座敷蔵、隠宅蔵、北蔵)(旧商家)
長福寺(本堂)
●登録有形文化財
岩尾家住宅(土蔵、離れ、主屋)(旧日本丸製薬所)
瀬戸内海国立公園
瀬戸内海国立公園は瀬戸内海を中心とする国立公園で、1934年に雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島綿江湾国立公園)とともに、日本で最初の国立公園の一つとして指定されました。
当時の指定区域は香川・岡山・広島の各県内を中心とした一帯のみでしたが、その後数回にわたり区域の拡張がなされました。現在は当時の3県に加え大阪・和歌山・兵庫・山口・徳島・愛媛・福岡・大分の1府10県までまたがり、紀淡、鳴門、関門、豊予の四つの海峡に区切られた海域を含めると、国内で最も面積が大きい国立公園となっています。
瀬戸内海の穏やかな海面に浮かぶ大小1000余りに及ぶ数多くの島々は周囲の灘や瀬戸(向かい合う陸地が接近して海が狭くなっているところ)などとともに多島海景観を形成していて、それらを眺める展望地が公園内に多数点在しています。
また、瀬戸内海一帯は古くから人と自然が共存してきた地域であり、島々の段々畑や古い港町の家並などの人文景観は多くの人々を魅了しています。
現在大分県では、国東半島(両子山)、高崎山、姫島、高島の4箇所の地域が瀬戸内海国立公園に指定されています。
瀬戸内海国立公園(大分県)
高崎山(大分市・別府市)(国指定天然記念物・国立公園)
高崎山
高崎山は大分市西部と別府市の境界付近に位置する標高627mの山で、野生のニホンザルの餌付けで知られており、宮崎県の幸島と並んで「日本のサル学発祥の地」とも言われています。
1934年に阿蘇国立公園(現、阿蘇くじゅう国立公園)の一部として指定されましたが、1956年に分離、瀬戸内海国立公園に編入された、特異な経歴を持ちます。
また国立公園のなかでも特に重要な地域である特別保護地区に指定されています。
高崎山に住む野生のニホンザル
1953年に「高崎山自然動物園」が開園し、同年のうちに高崎山の猿および猿生息地が国の天然記念物の指定を受けました。
高崎山には古くからニホンザルが生息していて、明治時代末期に600頭ほどを数えていました。後の大正時代の山火事で頭数が激減しましたが、1940年には100頭以上を数えるようになり、終戦直後には200頭程度にまで増えて農作物への被害が深刻となりました。
そこで狩猟などによるニホンザルの駆除が試みられましたが失敗、これを耳にした当時の上田保大分市長が、駆除に代えて餌付けし観光資源として利用しようとしました。これが自然動物園の始まりです。
現在は約1500頭の猿が二群に分かれて棲息しており、伝説のボス猿「ベンツ」が長年動物園の人気者として君臨していたことでも知られています。
芋を食べる餌付けされた猿たち
伝説のボス猿「ベンツ」
ベンツは高崎山史上最強のαオス(ボス猿)と言われている猿です。動物園が始まって以来唯一、二つの群れ(B群、C群)でナンバー1になった猿で、1987年9歳の時に史上最年少でB群のαオスになった後、C群のメスに恋をしBからC群に移り、後の2011年そこでもαオスになりました。
C群でトップになる以前、まだナンバー2だった頃ベンツは839頭の群れから成るA群にたった1頭で迎え立ち、全ての猿を追い散らかしてしまったそうです。それからというものA群はベンツの顔を見るだけで怖がって逃げてしまい、以後公園の餌付け場所には全く姿を見せなくなってしまったということです。
他を寄せ付けない程の圧倒的な強さと統率力、一方で地位を捨ててまで人間でいう100歳を過ぎても尻を追いかける程メス好きな性格、その破天荒な生き様が人々を魅了し、ベンツを一目見ようとする観光客が大勢高崎山を訪れ人気を呼びました。
ベンツは2013年秋に一時行方不明になり、2週間ほど経った後約6キロ離れた大分市内の市街地で発見、保護されました。一度はC群のαオスに復帰するものの、同年12月に再び姿を消してからはそのまま戻って来ず、死んだと判断されました。
ベンツ像
その時「ベンツ」の年齢は推定35歳で、人間に換算すると105歳以上だったそうです。