紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

ザーカイさんを探して

2009-06-13 15:38:00 | ノンジャンル
 先日Kちゃんが「(新約聖書にある)ザーカイさんがキリストと出会ったあとの物語の続きを自分で考えて書いて来てください」という宿題が出た、という話をした。それで遥か昔、お兄ちゃんがまだ小学生だった頃の「花の日礼拝」を思い出した。

 その日は、クリスチャンで声楽家のゲストが、歌入りの聖書の物語を面白可笑しく披露してくださった。もう、教育会館は笑いと子どもたちのレスャ塔Xで沸き返っていた。そのあまりのウケ具合に、先生が少々お困りだったくらいの大盛り上がりだったのだ。そのときの物語の主人公がザーカイさんだった。

 ザーカイさんは『新約聖書/ルカ19』に登場する。阿南召神教会の楢山啓子牧師のお説教(2006年2月19日)より、一部省略しつつ引用させていただきます。

 エリコの町にザーカイという人が住んでいました。この人は取税人のかしらでエリコの人々からローマに治める税金を取り立てる仕事をしていました。彼は町の人たちから嫌われていました。
 ある日、エリコの町にイエス様がおいでになることになりました。エリコは、古くから栄えていた町でした。エリコの町には時々イエス様がおいでになりました。

 ザーカイはなんとかしてイエス様を一目見たいと思いました。というのもザーカイは自分の生活に満足していませんでした。お金はあっても、友達はいません。町の人々はまるで、ザーカイを敵のローマ人のように思っています。ザーカイは孤独でした。なんども自分の生活を変えたいと思いましたが、できませんでした。気がつくとお金をかかえて、それを数えていました。心に平安はなく、寂しい気持ちでいっぱいでした。

 イエス様のうわさは知っていました。病気の人を癒やし、奇跡をなし、弱い人々に優しくしてくださる方だと聞いていました。ですから、何とか、一目イエス様を見たいと思ったのです。大通りに出ましたが、もうイエス様の近くには人々がいっぱいで、近づくことができません。その上、ザーカイは背が低かったのでどうすることもできませんでした。かき分けて中にはいろうとすると、人々から意地悪されて、追い出されました。でもザーカイはあきらめませんでした。

 通りの近くにあったイチジク桑の木という背の高い木にのぼりました。その時、イエスさまはちょうどその木の下を通り過ぎようとしておられました。イエスさまはザーカイに自分のほうから声をかけられました。「ザーカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから。」

 ザーカイは自分の名前を呼ばれたのでびっくりしましたが、嬉しくて、すぐに木からおりてきました。そして喜んでイエス様を家に迎え入れました。すごい人気者のイエス様が自分のようなものの家に来てくださる、そのことを考えるだけも嬉しくてどきどきわくわくするのでした。一方、町の人々は「イエスさまはどうしてあんな罪人のところに行って食事をなさるのだろう」と非難をしました。

 ザーカイはイエス様を自分の家に喜んでお迎えしました。そして、僕(しもべ)たちにごちそうをつくるように命じて、イエス様を囲んで楽しい食事をしました。それは今まで経験したことのない楽しさでした。イエス様が自分を愛してくださっていると言うのが伝わってきました。

 イエス様と話をしているうちに、自分がいかに悪いことをしてきた人間であるかがわかってきました。ザーカイはそんな自分の本当の姿が見えてきました。このままの人生ではいけないと思いました。そこで、ザーカイは悔い改めて言いました。「イエス様、わたしは悪いことをしました。赦してください。騙し取ったものは4倍にして返します。またわたしの財産の半分を貧しい人々に施します。」

 なんという変化でしょう。イエス様に出会う前のザーカイはお金が大切な人でした。お金のためなら、人をだましても平気な人でした。今の世の中には欲に目がくらんでお金のために何でもする人がたくさんいます。欲に支配され、お金に支配された結果、その先にあるのは滅びです。

 しかし、ザーカイはイエス様とであって、人生の幸せはお金ではないと言うことがわかりました。欲望から解放されたのです。だから財産の半分を貧しい人にあげる決心ができました。悪いことをした償いもしようと決心しました。ザーカイはイエス様の愛と恵みによって完全に救われたのです。イエスさまは言われました。「今日この家に救いが来ました。わたしは、悪いことをして滅びに向っている人を探して、救うためにきたのです。」と。

 ザーカイという名前はヘブライ語では「無実の、潔白な」という意味です。これはどういう時に使うかと言いますと、裁判所で裁判が開かれます。その時、悪いことをして、訴えられていた人が裁判官に「ザカイ」と言われますとその人は無実になって釈放されます。これは法廷で使うことばです。 

 ザーカイは本当に悪い人で、罪人でした。町の人々も「あんな罪人と食事をして」と言ったぐらいの人です。でも、イエス様はザーカイの罪を赦してくださいました。イエス様が来られたのは人を裁くためではなく、救うためでした。ザーカイは自分の罪が赦されたので喜んで罪の償いをしようとしたのです。

 人間は永遠の世界で必ず神の前に自分の行いに対してさばきを受けなければなりません。聖書に「人間は一度死ぬこととさばきを受けることが定められている」と書いてあります。しかし、イエスさまはわたしたちの弁護士です。

 わたしたちが、永遠の裁きの座に立つ時、イエス様はわたしたちの裁判に立ちあって、「この人はザカイ、無実です」と言って下さるのです。これがイエス様の永遠の救いです。

 「つみびと」こそが、まず救われるというのは、こういうことなのだ、きっと。自らの罪深さを知り尽くし、必死で救いを求め、自らを明け渡す事ができる人から、救いの手が差し伸べられるのだろう。