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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」⑤

2023年03月08日 18時53分03秒 | 渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」
合囲地境と皇民化教育①

 前回は「鉄の暴風」と「通史編」の関連性についての疑義を呈しましたが、今回からは「通史編」の内容そのものについて考察してまいりたいと思います。

 具体的には自決命令の決定的証拠という「兵事主任の証言」への考察ということになりますが、当ブログでは既に「誰も知らない「兵事主任の証言」」というタイトルで取り上げており、拙筆ながら個人的見解を列挙しております。

 従って内容が重複する部分もあり、同じことを繰り返すことは効率的ではないかもしれません。しかしながらこの「兵事主任の証言」は、自決命令があったと主張する側にとって最重要な事柄であると認識しておりますので、内容は同じでもできるだけ別の視点、あるいは「通史編」に沿った考察をしていきたいと思います。

 まずは「通史編」では箇条書きだった「兵事主任の証言」ですが、さらに理解することができるもの(①と②の部分)として、より具体的な内容を以下に引用させていただきます。


 
 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」
 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」1988年6月16日付『朝日新聞』(夕刊)



 以上の証言が「通史編」では採用され、わかりやすい箇条書きとなったということになります。

 この証言により自決命令があったという決定的な証拠が提示されたわけですが、この内容を精査してみると、個人的見解として疑問が複数浮かびあがります。特に安仁屋氏の主張する集団自決の原因とされる「合囲地境」と「皇民化教育」に関する点から、いささか肯んじきれないものがありますので、以下にできるだけわかりやすく説明していきたいと思います。

 安仁屋氏が主張する合囲地境というのを極々簡単に言い表すならば、正に安仁屋氏がいう「村の行政は軍の統率下」だったことだと思います。全ては軍が管理し管轄し、住民はその絶対的な支配体制の一歯車として、全ての思想を含めた生活や行動を軍に「捧げる」ことを第一とする、いわゆる主従関係であるといっても過言ではありません。
 
 またそれは何も戦争を継続するためではなく、それよりもはるか以前の琉球王国が消滅した琉球処分の頃から、俗にいう「皇民化教育」によって日本へ隷属し、沖縄の人びとはそれに甘んじて生きるということを「強制」されたということになるでしょう。「日本人」になることを「強制」したともいえます。少なくともそのようなイメージを持つ方々が漠然的なものも含め、圧倒的多数なのではないでしょうか。
 
 さらにこれらは何も渡嘉敷島に限ったことではありません。戦争中における軍民の主従関係というなら沖縄本島だけでなく、朝鮮半島を含めた日本国全体に当てはまることであると思います。皇民化教育に関しても沖縄は浸透(人によっては強制的に)していく過程が多少遅れただけで、これも結局は日本全体に言えることでしょう。
 
 軍と民の確固たる隷属関係が成立し、あまつさえ一個人ではそのような体制を崩すことが全く不可能な状態あるいは情勢だったのが、当時の沖縄および日本だということがある程度理解できます。そして、これまた一個人が軍の命令を無視、あるいは排除したら誰がどう考えても大問題になることは、戦争を経験した世代の方々は当然のこと、特に沖縄では「スパイ」として、憲兵や特高警察に連行されたこともあったのではないかと思われます。
 沖縄以外でも「非国民」というレッテルを張られるばかりでなく、沖縄と同様官憲に逮捕されたことが少なからずあったでしょう。また、戦後の世代もそのような状態が蔓延っていたと、歴史の教科書や文献等で陰に陽に教えられてきたと思われます。

 しかしながら今回掲示した「兵事主任の証言」を読む限り、さらには信ぴょう性の正否を問わない限り、非常に興味深い事実が浮かび上がっていることが判明します。

 兵事主任は堂々と軍の命令を無視しているのです。
 無視するどころか、恣意的に命令を歪曲しているのです。

 ただし、ここでは兵事主任の行動、即ち軍の命令に対し無視や歪曲した事について非難や批判をする気はないし、支持も称賛もしないということを明記し、問題はそこではないことも付言いたします。


次回以降に続きます。

渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」④

2021年08月02日 23時00分13秒 | 渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」
「鉄の暴風」を無視、あるいは排除するその不可思議

 「通史編」の具体的な内容を考察するにあたって、その内容よりもとりあえず取り上げなければならないのが、先述の通り「鉄の暴風」が全く無視されているということです。「赤松大尉の自決命令」という、非常に重要な観点が文字通り無視、あるいは排除されてしまっているということです。

 「鉄の暴風」はノンフィクションです。
 すなわち「赤松大尉の自決命令」も事実なのです。「通史編」の発行年は1990年ですが、その当時も当然ながらノンフィクションでありました。しかも繰り返しになりますが、1985年の沖縄タイムス紙上にて「赤松大尉の自決命令」はなかったと主張する「ある神話の背景」の著者である作家の曽野綾子氏と、「鉄の暴風」の編著者であり沖縄タイムスの記者だった太田良博氏によって、自決命令に関する直接的な論争が新聞連載という形式で行われており、太田氏はそこでも一貫して「鉄の暴風」における「赤松大尉の自決命令」は事実であると主張しております。
 そして現在(2021年)も訂正されていないことから、少なくとも出版元である沖縄タイムス社は「鉄の暴風」の内容を事実と認定しているようです。
 ちなみに曽野氏と太田氏の論争については、当ブログ「曽野組と沖タイ連合の仁義なき戦い」にて考察しておりますので、興味がある方は御一読をお願いいたします。

 「赤松大尉の自決命令」の真偽についてはともかく、上記のような経緯があり「赤松大尉の自決命令」が事実と認定、あるいは主張するスタンスの執筆担当者(安仁屋氏)であるならば、非常に重要かつ決定的な要素として掲載されてもよさそうなものですが、「通史編」や「資料編」にはそれがないのです。
 ちなみに安仁屋氏はこの「通史編」に限らず、他の著作物や自らの主張によって、その是非はともかくも一貫して「命令はあった」というスタンスをとっております。なお、安仁屋氏が執筆した文献は図書館等でご簡単に入手できるものでありますから、興味のある方は各自考察なさってください。

 「通史編」や「資料編」では、その代わりというのが適切かどうかわかりませんが、渡嘉敷島の最高指揮官であり最重要人物であり、集団自決の首謀者といっても過言ではない赤松大尉の文言や行動をバッサリ切り捨てられております。そして単なる一介の人物、あるいは一兵士(この場合は一下士官ですが)ともいえる「兵器軍曹の自決命令」が全面的に取りあげられているのです。

 このような現象はどう解釈したらよろしいのでしょうか。
 
 「赤松大尉の自決命令」がない理由についての仮説は、様々な観点から複数あると思われます。

 まず執筆者が違うから、当然そのスタンスも違ってくるということです。確かに「鉄の暴風」の執筆担当者は太田氏であり、「通史編」の担当者は安仁屋氏であることに間違いはありません。
 しかし、例えば二人のどちらかが自決の「命令はなかった」とする立場であったら、そこには決して埋まらない溝ができそうなものではありますが、ご両人とも自決「命令はあった」という立場の方々なのです。集団自決に対する考え方は、ほぼ同じ考えだといってもおかしくはないのです。
 また、「通史編」の執筆担当者が「命令はなかった」というような仮説の提示、あるいは主張を仮にもなさっていたのならば、「鉄の暴風」は信ぴょう性が疑わしいとして、当然のごとく除外されたかもしれません。しかし実際の安仁屋氏は先述の通り「命令はあった」と主張する立場の方なのです。
 このような経緯をみる限り、なぜ「通史編」に最重要項目であるはずの「赤松大尉の自決命令」が掲載されないのか、個人的には非常に不思議なことだと思っております。

 次に字数や紙面の制限によって除外されたのではないか、ということも考えられますが、この点については可能性が非常に低いと思われます。
 重要項目を無視、あるいは除外する行為自体、一般的常識に当てはめても非常に考えにくいことなので、これ以上の考察は無意味と思われます。。

 最後は安仁屋氏も実際問題として、「鉄の暴風」の信ぴょう性を疑っているのではないか、という仮説の提示です。別の言い方にすれば暗に「疑わしいと認めている」ということにもなります。
 「鉄の暴風」における「赤松大尉の自決命令」は残念ながら信ぴょう性が低く、「通史編」に掲載されることは不適切と安仁屋氏は感じますが、再三指摘している通り安仁屋氏は「命令はあった」というスタンスを堅持しております。
 したがって「命令はあった」という主張やスタンスを維持し継続させるためには、信ぴょう性の低い証拠よりも、確実に信頼性のある証拠の提示の必要性が生じ、その結果が「兵器軍曹の自決命令」の掲示に繋がったのではないでしょうか。
 少なくともこれらによって「命令はあった」という主張の継続が可能になるのです。同時に「赤松大尉の自決命令」は無視され、排除されてしまうのです。
 そういった意味では安仁屋氏や同じスタンスを持つ方々にとって、非常に「重大な事実」となっていることが更に理解できるのではないでしょうか。

 勿論、上記の仮説は仮説であって、その領域から出ることはあり得ません。
 あとはこの顛末を一番理解しているはずの安仁屋氏ご本人から、何らかの回答やアクションが得られればよいのですが…多分無理ではないかと思われます。

次回以降に続きます。

渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」③

2021年06月05日 04時01分41秒 | 渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」
「重大な事実」とは何か


 今回から具体的な内容の考察をさせていただきますが、最初に取り上げなければならないのは以下の引用文です。


「この事件については、重大な事実が明らかとなっている」


 この「重大な事実」とは米軍が上陸する前から、渡嘉敷島の住民たちに「自決命令」が出されていたということになり、その具体的内容が箇条書きに掲示されているというものです。詳しくは前回の「具体的な内容」をご参照いただくとして、これを簡略化すれば、事前に配布された手榴弾で軍が住民に「自決せよ」と命令した内容だと思われます。
 ただし、この「通史編」だけを読むと、何らかの「重大な事実」が明らかになったのは理解できますが、それがなぜ「重大なこと」なのか、その理由が書かれていないのでわからないかと思われます。特に渡嘉敷島の集団自決に関する「自決命令」云々の顛末を知らない方や、この「通史編」で初めて集団自決を知った方にはより一層のこと分からないのではないかと思われます。
 そういったわけですので、「重大な事実」が何ゆえに「重大なこと」なのかということを、今回はできるだけわかりやすく簡潔に解説させていただきます。

 渡嘉敷島の集団自決が軍の命令で起ったことが世間一般に周知されたのは、1953年発行の「鉄の暴風」が最初です。そこには渡嘉敷島の最高指揮官でもある赤松大尉が住民に「自決せよ」といった内容の命令を下し、しかも最初から決定されていたということが描写されています。さらに「鉄の暴風」は創作でなく小説でもないノンフィクションだといった体裁であることから、ある一定の時期まではこれらが全て事実であるという認識が流布されていました。
 しかし1973年発行の「ある神話の背景」により「鉄の暴風」で描写された集団自決、特に赤松大尉の「自決命令」が当の本人によって完全に否定され、ノンフィクションであるはずだった「鉄の暴風」の信ぴょう性が疑われはじめました。
 そして「ある神話の背景」発行以降は、赤松大尉による「自決命令」があったかどうかの論争が続いていきます。また、1980年代になると「鉄の暴風」編集者と「ある神話の背景」の執筆者とが「沖縄タイムス」紙面上で直接的な論争を繰り広げていました。
 これらの現象は軍による自決命令があったかどうかという点において、いわゆる歴史認識問題が沖縄戦でも提起されていたということになります。
 「自決命令はあった」という立場の人は「鉄の暴風」を根拠にし、また「自決命令はなかった」という立場の人は「ある神話の背景」を根拠にして、それぞれがそれぞれの論理を展開し、それぞれの正当性を主張しているのが1980年代でした。

 「自決命令」の有無はともかく、このような自決命令の論争が続く状況のなか、「通史編」は1990年に発行されました。
 「自決命令はあった」という証拠が新たに見つかり取り上げられているのですから、必然的に「自決命令はなかった」という主張を否定できることにもなります。そういった意味で、特に「自決命令はあった」という立場を主張する側としては、明らかに「重大な事実」となるということが理解いただけるかと思います。

 「通史編」の「重大な事実」は「自決命令があった」という証拠です。従って信ぴょう性が疑問視された「鉄の暴風」の正当性を補完する内容かと思われますが、必ずしもそうとは言い切れない部分があります。「鉄の暴風」では「赤松大尉の自決命令」だったのに対し、「通史編」では「軍の自決命令」あるいは「兵器軍曹の自決命令」となっているからです。
 勿論、指揮系統をみれば、最終的には赤松大尉に辿りつくことが可能かと思われます。
 しかし「通史編」の史料を読む限り、赤松大尉の直接的な関与は見当たりません。指揮系統の遡及はあくまで理論上であり推測であって、少なくとも「通史編」では断定できるものではないし、これをもってして赤松大尉の自決命令とするのは無理があるかと思います。そういった意味では、なおさら「鉄の暴風」との関連性は薄いのではないかと思われます。

 また、この「通史編」に掲載された史料の出現によって興味深い現象が起こります。それは自決命令があったと主張する側は、「赤松大尉の自決命令」ではなく「軍の自決命令」と強調されることが多くなっていき、それが現在(2021年)も続いているということです。
 別の言い方をすれば、具体的なもの(赤松大尉の命令)から抽象的なもの(軍の命令)に変換されているということであります。それと同時に決定的証拠であるはずの赤松大尉の自決命令が「自決命令があった」と主張する側から、何故か無視され始めたという奇妙な現象も起こっているということになっています。
 そして自決命令の根拠となった「鉄の暴風」よりも、公式的な見解として出版されたことが信ぴょう性を増したのか、この「通史編」に掲載された史料が決定的証拠として数々の書物や論文に引用、孫引きされ現在に至っている状況でもあります。

 「重大な事実」というのは、「自決命令があった」とする立場からすれば、非常に有利な史料であることがお分かりになられたかと思われます。
 そして何故か「赤松大尉の自決命令」が無視され、抽象的な「軍の自決命令」がメインとなった転機であるということも、個人的には「重大な事実」だと思っております。


次回以降に続きます。

渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」②

2021年04月10日 01時34分42秒 | 渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」
具体的な内容


 「通史編」の発行元は渡嘉敷村役場となっており、実際に執筆したのは渡嘉敷村史編集委員会の編集委員となります。
 各編集委員がそれぞれの分野を担当し執筆しているわけですが、沖縄戦や集団自決に関する分野は沖縄国際大学(当時)の安仁屋政昭氏が担当しています。
 なお、安仁屋氏については沖縄戦や集団自決に関する様々な研究書・論文・書物を数多く執筆・出版されておりますので、ここでは特にプロフィール等の解説をすることはいたしません。

 それでは集団自決に関し、「通史編」ではどのようなことが書かれているのかを、だいぶ長くなってしまうのですが理解を得るために、「第5章 沖縄戦と渡嘉敷」の「第五節 渡嘉敷島の戦闘と住民」から引用させていただきます。


 「二十七日午前九時(1945年3月27日─引用者注)ごろ、米軍は砲爆撃の支援のもとに、渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸を開始した。住民は砲撃に追われて日本軍陣地に避難してきた。住民の避難場所について防衛庁(現防衛省─引用者注)の記録では、「村の兵事主任新城真順から部隊に連絡があったので、部隊は陣地北方の盆地に避難するように指示した」としている。
 住民は恩納河原(おんながわら─引用者注)の谷間で一夜を明かした。米軍は日本軍陣地周辺に迫撃砲と機関銃で集中砲火をあびせ、一帯は前後の見分けもつかないほどの煙と火に包まれた。
住民の「集団的な殺しあい」は、一夜明けた三月二十八日に起こっている。(グラビア参照)
 この事件については、重大な事実が明らかとなっている。すでに米軍上陸前に村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。

  • 一九四五年三月二〇日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷村の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示に従って「十七歳未満少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
  • そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ二十数名(「集まった」の誤植だと思われる──引用者注)の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ〉
  • 三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山盆地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
  • 三月二八日、恩納河原の上流フィジガー(ガー=川の方言─引用者注)で、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。
(中略)
 住民の「集団死」は手りゅう弾だけではなかった。カマやクワで肉親を殴り殺したり縄で首をしめたり、石や棒きれでたたき殺したりして、この世の地獄を現出したのである。このときの死者は三二九人であった。


 この集団自決が起こった原因として、「通史編」では「合囲地境(ごういちきょう)」説を主張しておりますので、今回も長くなってしまいますが、「第5章 沖縄戦と渡嘉敷」の「第五節 渡嘉敷島の戦闘と住民」から再び引用させていただきます。


 「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。しかも住民をスパイの疑いできびしく監視しているなかで、軍が手榴弾を住民に渡すということは尋常ではない。この場合、赤松隊長の個人的な心情は問題ではなく、軍を統率する最高責任者としての決断と責任が問われなければならない。住民が密集している場所で、手榴弾が実際に爆発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ、「自決強要」の物的証拠というものである。
 このとき、慶良間諸島は米軍の猛烈な空襲と艦砲射撃をうけ、沖縄本島その他の離島との連絡は完全に遮断され、孤立していた。「戒厳令」は宣告されなかったものの、事実上の「合囲地境」であった。合囲地境というのは、敵の包囲または攻撃などがあったとき、警戒すべき区域として戒厳令によって区画したところである。合囲地境においては駐屯部隊の上級者が全権を握って「憲法を停止」し、行政権および司法権の一部もしくは全部を軍の統制下に置くことになっている。渡嘉敷島においては赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統率下に置かれていた。
(中略)
 「強制され」あるいは「追いつめられた」人びとの死を、「集団自決」と言うことはできない。
(中略)
 その背景には天皇のために死ぬことを最高の国民道徳としてきた皇民化教育があった。とくに沖縄戦においては「軍官民共生共死の一体化」ということが強制され、「死の連帯感」が醸成されていた。赤松隊から手りゅう弾を渡されたとき、人びとは「イザトイウ時ノ全住民ノ死」を受け入れざるをえなかった。しかし、これを「集団自決」の「任意性・自発性」と考えることはできない。天皇の軍隊の命ずる「死」を拒むことは不可能な時代であった」



次回以降に続きます。

渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」①

2021年04月03日 00時03分19秒 | 渡嘉敷島の集団自決 公式見解としての「渡嘉敷村史 通史編」
「渡嘉敷村史 通史編」を取り上げる理由


 当ブログを読んでくださる方々がお住まいになる都道府県や市町村には、発行年月日に相当な隔たりがあるにせよ、必ずといっていいほどに、各自治体の古代から近現代までの歴史を編纂した書物が発行されております。そういった歴史に興味がある方なら自ら購入したり、あるいは各自治体の図書館にて、自らが居住する自治体以外の書物もお読みになったりしたことがあるかもしれません。
 当然のことながら渡嘉敷村にも「渡嘉敷村史 通史編」と「渡嘉敷村史 資料編」という二種類の編纂された書物があり、渡嘉敷村の歴史にとどまらず、その自然環境や文化といったものや民俗的な観点からの視点も、緻密に詳細に解説されております。
 そしてこれも当然のことながら、沖縄戦における渡嘉敷村の様相、すなわち「集団自決」に関することも記載されております。

 では一体、渡嘉敷村という自治体が発行した「渡嘉敷村史 通史編」には、集団自決に関することについて、どのようなことが書かれているのでしょうか。
 今回はその点に着目して考察していきたいと思います。

 集団自決に関する研究書や書物は数多くあるのに、なぜ「渡嘉敷村史 通史編」に着目するのかという点については、タイトル通り「公式見解」という解釈が可能だと思うからです。
 別の言い方にすれば、渡嘉敷村という自治体が公式に「認定した事実」ということにもなります。つまり、そこに書かれているのは紛れもない「事実」であることを、渡嘉敷村が保証するかのように認めているということです。

 自治体が歴史に「お墨付き」を与えること自体の是非はともかく、集団自決や沖縄戦全体の研究・考察、あるいは学校教育における平和学習にて、陰に陽に多大で広大な影響を及ぼしているはずであると思われます。これはなにも渡嘉敷村に限ったことではなく、沖縄県内の各市町村にとどまらず沖縄県史に関しても同様です。
 また、沖縄戦に関する定番中の定番ともいえる「鉄の暴風」と、双璧をなしているといっても決して過言ではないかと思われます。

 従って看過することはできないと確信しております。

 そうでありますゆえ、「渡嘉敷村史 通史編」をあらためて考察していくことが、集団自決の「実像解明」の一助にもなるのではないかと考えた次第でございます。

 なお、今回は「渡嘉敷村史 通史編」のみの考察で、「渡嘉敷村史 資料編」に関しては参考程度に取り上げるつもりです。また、今後は便宜上「渡嘉敷村史 通史編」を「通史編」と表記いたします。


次回以降に続きます。


参考文献

渡嘉敷村史編集委員会編「渡嘉敷村史 通史編」(渡嘉敷村役場 1990年)