時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

夜汽車はゴトゴトと、朝を目指す

2008年06月04日 | 
以前、飛行機に乗ってる時ってのは非日常的な空間である、と書いた。
だが、それは夜汽車にも当てはまる。

夜汽車というものも、非日常な空間であり時間でもある。

夜汽車に乗る機会というのは、今のご時世では、めったにない。
本数も少ないし、飛行機もすっかり一般的になったし、で。

だとしたら、なおのこと、非日常的であり、特別でもある。
私はもう長い間、夜汽車には乗っていない。乗ったのは昔だ。
でも、その時のことは今も思い出せる。断片的に、だけど。

私の頭に残る夜汽車体験を書いておこう。

夜汽車からは、窓の外の風景はほとんど見えなかった。
なにせ、外は夜。闇。昼間の風景とは違う世界がそこに広がっていた。
だからこそ、闇の中におぼろに見える夜景色には、想像力を刺激された。
あの闇の向こうには、山がつらなっているのかな、とか。
月明かりに照らされた黒い山のシルエットの中には、どんな生物がいるのかな、とか。
だだっぴろく広がる田畑には、朝になれば朝もやに包まれてるのかな、とか。
あの道は、どこに続いているのかな、とか、
あの家は電気が消えてるが、もう寝てしまったのかな、とか。
いちいち、どうでもいいことばかりなのにもかかわらず、けっこう、想像力を刺激された。

そんなこんなで景色をとりとめもなく眺めていると、時々、闇景色の中に小さな明かりがついてることがあった。
それは、踏切そばの電柱だったりもすれば、倉庫のわきに置かれた自動販売機の明かりだったりもするし、道の脇に設置された電柱だったりもするし、色々だった。
で、そんな小さな明かりは、自分の足下近辺だけを、スポットライトのように照らしているだけなのだ。

気にしなければ、なんの変哲もなく見過ごしてしまえる明かり。

だが、私はそんな明かりが・・・好きだった。
そこには寂しさをも感じるし、下手したら妙な風情を感じてしまうことすら、あった。

また、夜汽車には、視覚的な風情だけでなく、音の風情もあった。
ガタタタッタタ~ ガタタタッタタ~という音が、夜の闇の中にこだまして遠くまで響いて行く感覚もあった。
窓の外を見ないでまどろんでいると、時々ひときわ重い音が下に響き渡った。ガダンガダン、ゴ~~という音。
それは鉄橋を渡る音だった。
「あ、今、鉄橋を渡っているな」と音で分かった。

かとおもえば、ドップラー効果で踏切の警報音が一瞬のうちに現れ、あっと言う間に後ろのほうに遠くなっていった。
「今度は踏切を通ったな」と、やはり音で分かった。

音を聞いて、振動を感じていると、もうそれだけでトリップしてしまった。
長い旅の醍醐味のひとつだと思う。

で、時々、どこかの知らない駅に長く停車したりする時もあった。
そんな時に窓から外を見ると、見知らぬ駅の風景がまたよかった。
活気のある駅は、弁当などの売り子が窓ごしに乗客と商売していた。
寂しい駅は、人っけもなく、駅のところどころを照らす明かりも、寂しげ。ホームの先端の方は僻地のようにも思えた。

で、そんな空間に包まれてると、中々寝付けなかったはずの私も、うとうとしてしまった。
で、夜に同化していった。

そして・・朝に向かっていった。

朝。窓の外の明るさに、いつもより早く目覚めた。
だだっ広い田園風景。田んぼが広がってた。はるか向こうには朝日が登ってきていた。
まぶしかった。夜汽車は心もちカーブの路線を走っていた。
電車内で歯を磨くという体験は、不思議だった。

夜を抜けたのだった。

昨夜の、どこかわからない駅に停まっていた光景や、闇の中に小さな明かりが足下を照らしていた光景など、嘘のようだった。

やはり、非日常的な体験をしたのだ。

今では夜汽車は段々姿を消そうとしている。この日記で書いた体験も、いずれ闇の中に消えてゆくのだろうか。

悲しいことだと思う。


夜汽車は、ゴトゴトと。
朝を目指して、闇の中を走った。非日常を乗せて。

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