と考えた。
息子たちが生まれてから、病気をしないで、怪我をしないで、と祈りつつ子育てをしてきた。
それはどなたもおんなじ。
遠足・修学旅行に行くたびに、運転手さんが健康でありますように、バスガイドさんが元気な人でありますようにと。
無事故で帰ってくるためには、息子だけの無事故を祈っていてはダメ。
そんな思いで、送り出していました。
お弁当なんて、下手くそで、見せられるものじゃないのは承知の介・・。
成長する過程で、幼稚園から小学校、小学校から中学校と、進級、進学するたびに、新しい扉を開けていくのを祝って。
次のステップへスムーズに行くように、どんな環境にも図太いくらいに馴れ親しんで、困難に直面しても逃げることなく踏ん張っていけと願いました。
地域がら、10数キロの道のりを自転車で通った中学高校。
今この季節であっても、汗だくの生徒さんを見ると、ああして走っていたんだなぁと熱いものがこみ上げます。
その頃は、ただガンバレ、くじけるなと玄関を出る背中を押したものです。
どんな季節でも我慢良く通い続けた。
それが根気となり身についたのかとも思う。
ただ私の子育てが、息子たちにどう伝わっているかは定かではありません。
あんなことこんなことにこだわって、言いつづけてきたことも無いし。
ただ、話はちゃんと聞こう、と思っていました。
大きな声で、学校で習った好きな歌を歌って帰ってくる。その声が遠くから聞こえてくると、嬉しくて。
ああ、今日も楽しかったんだなぁって。
昨日。
大掃除をして色々と考えました。
大掃除とは言っても、ただ埃を払い、チリを片し・・ということではなく、思い出や、不要になった様々な書類などもこの際だからと思い切り。
そんな中、私の処分した園芸の書籍。それは廃品回収に出そうとくくりました。
出せなかったのは、自分の花日誌。その中には息子たちの入学に合わせて紅白のチューリップを植えたもの、季節に合わせて、息子達と成長していった植物たち。
それがふんだんに写真として残っていました。
朝出かける前のランドセルを背負った写真。宝物です。
自立していくってどういうことだろう。
家を建てた時は、義父と主人の夢を乗せたもの。
その中に私は息子3人の夢も乗せて。
今、青年になった息子たちがここにいつまで居るのが良いのだろう。
けっして追い出すのじゃないけど、自分の好きなように家を建てる。
それこそが自立というのだろうか・・。
食事の用意をして、洗濯をして、・・ということを母親はいつまでするのだろう。
自分のことは自分でしなさいという子育てをしてこなかった。
母親の役目、これは子育てをしているんだと、子供らが自分ですることを、最低限しか教えなかったのかもしれない。
今まで、節目節目に開けた扉。どれも送り出す時は、息子たちの新しい扉だと思っていた。
でも、親の把握している中だったのかもしれない。
これから人生の伴侶を得て、共に白髪まで・・・の人生を支えあい慈しみあいながら、幸せな人生を作ることこそが、新しい扉なんだと思う。
親の手元を離れ、間取りを考え、電気等の配線を好きなようにして、全てを自分たちの手ですること。
ここはもう、息子たちの家じゃなくなっていくのだろう。
自分の空間が無い、好きなように好きなことが出来ない中途半端さ、押し付けられた形の中での生活。
子供の頃はそれが与えられた環境だった。
だけど、自らお金を稼げるようになったら、自分のことを自分ですることの意味が大きく変わってくるんだろう。
今までは、子離れすることは寂しいことだと思っていたし感じていた。
でも、大掃除をしながら。、ここは、子育てしていく上で必要だった家。
これからは、自分の家を持つこと、家庭を作ること。その大切なことを感じた。
何も、持ち家ということではなく、アパートでも良いかもしれない、ただ、自分の家という自覚のある形をもって家庭を作ること。
まだまだ、先の話なのかもしれないけど、私の中では、心構えが出来たと思った。
ここは、家に対して文句や愚痴を言い続けて居る場所じゃない。
出て行くことは、悪いことじゃない。当たり前のことなんだ。。
人生の通過点なんだ・・・・・・
それが実家というものなんだ。
私自身、結婚して早くも25年が経つ。
結婚したのが26歳の秋。
あと、2年もしたら・・・・両親とご飯を食べた家に居た年数を超えてしまうんだ。
ここにいる年数のほうが長くなるんだ・・・。
なんて悲しいんだろう。
親と一緒にいられた年数より、ここでの暮らしのほうが長くなるなんて。
悲しくて仕方ない。
悲しくて仕方ない。
娘と息子は違うかもしれないけど、長男も24になる。三男でさえ20歳。
もうあとどれくらい、この屋根の下で、みんなが一緒にいられるんだろう。。