あずまあそびのかずかずに

東日本橋で謡(喜多流)のお稽古をしています♪

明日、目黒で会わないか?

2012-04-21 16:11:43 | 日記
しばらく絵をアップできないので、能楽についてのつれづれを。

私が初めて能楽に触れたのは、中学の芸術鑑賞会で、和泉流の狂言でした。柿山伏と棒縛りだったか?...とにかく、面白くって、他の狂言の台本にあたるものを図書館で借りて読んだり、実はお能とセットであることをなにかの本で読んだりしていました。とはいえ、当時は理系頭の子供だったので、のめり込むようなことはなかったのです。
しかし、高校に入り、数学ができないことに気づいてから、小説家を志すようになった私は、夢野久作という作家にどっぷりとはまりました。その夢野が能楽についてのエッセイや、「あやかしの鼓」なんていう小説やらを書いていたせいもあり、お能への憧れがムクムクと膨れ上がっていきます。民俗学や日本の古典文学への興味もあいまって、能というものが、なにか得体の知れない魅力を持ったものとして、私の中に浸透していきました。NHKでやる能楽鑑賞は必ず見ていましたし、叔母が古典芸能好きだったので、能楽鑑賞に連れて行ってくれることもありました。もちろん、大学も能楽の勉強と研究をするつもりで入ったのですが、ちょうど10代の最後あたりから20代の頭に精神を病みまして、勉学に挫折。マリリン・マンソンや人間椅子を聞きながらひとでなしの生活を送っていました。それでも、私の脳みその端っこには能楽が張り付いており、バイクのツーリングやその他の旅行などで三保の松原や鈴鹿の峠、隅田川、石山寺、大原や鴨社...能にゆかりの土地に行くと、感慨に耽ったりしていました。
精神的に落ち着いてからは、母の病気で大変だったり、欧州のサッカーにハマって、勢いイラストレーターのまねごとのようなことをしにイタリアに留学したりしたわけですが、このころ能楽に対する興味が再び高まりだし、イタリア留学の半年前くらいの間に、瀬尾菊次(今の櫻間金記)先生に謡と仕舞を習ったり、向こうに白州正子の本をもっていって読み漁ったり、再度、夢野を読み直したりしていたのは、異文化に触れたことによって、逆に自分のアイデンティティを確認しようとする試みだったのかもしれません。自分が自分であるための重要な要素として能というものがあるのは、この頃、はっきりと自覚するようになりました。
その後、バイクレースにハマり、しばらくはその思いも停滞していたのですが、応援していたライダーがスズキを去った年、謡をまた習ってみたいなぁ~、と、ぼんやり考えていた頃、偶然に安斎先生のお絵描き教室でT先輩とあかちんに偶然に出会い、喜多流の先生について謡を習うことになり、能というものに自分の人生をかけてもいいんじゃないかと思いつつあるのが現在です。

能は面白いです。
それ自体が、もうすでに完成された芸能なのですが、他の形の芸能、芸術として、多岐にわたって発展させていける、素材としての可能性も多分にあるのです。
能は、初音ミクのように、いろんな人がいろんな解釈で面白いことをすることができる。
これは極論でも妄想でもなんでもなく、本当のことなのです。昔の人は、能を題材にして歌舞伎を作りました。連歌を詠みました。俳句を詠みました。絵を描きました。室町時代以降の日本の芸能芸術の裏には能が流れているのです。それは、能が、それまでにあった日本の美意識や文学哲学をあまねく集め、凝縮し、洗練させた、まさにカルピス...基、日本文化の原液のようなものだったからこそ、いかようにもアレンジして薄めることができたのです。
それは、きっと現代においても変わりません。
いろんな才能を持った人たちが能という芸能に集まってきた時、日本の文化はワクワクするような発展をし始めるのではないでしょうか?
そして、それは日本にとどまらず、世界にも波及していけるものだと思います。
能には、それだけの力強さがあります。
能は、よく演劇の類いだと思われがちですが、実はクラッシック音楽に一番近く、言葉によるものではなく、あくまで音や色で感情や感覚に直接訴えかける芸能だと考えるからです。

とまれ。まず、見てほしい。
能は決して難しいものではありません。
「こんな曲、という主題があり、その主題に添って奏でられる音楽」という目でお能を見てみると、案外、誰でも楽しめるものなんではないかと思います。言葉は分からなくていいのです。当日渡されるリーフレットにだいたいのあらましが書いてあるので、たとえ初心者でも、それだけで十分なのです。もちろん、奥は深いので、勉強をすればするほど、面白さは広がりますが。

ということで。
明日、12時から、目黒にある喜多六平太記念能楽堂で、喜多流職分会四月自主公演があります。
突然ですが、興味と時間がある方は、ぜひ足をお運びください。詳細はこちら。

「前座がカッコ良かったの...。」と、彼女は言った。

2012-04-18 15:08:52 | 日記
去る4月6日、私の地元にほど近い、滝不動というところで夜桜能というものが開催された。
演者の一人が謡の先生だったこともあって、この公演を見ることになったのだが、桜の下で「羽衣」をやる、というのは、想像するだに可愛らしいし、実際、桜は時期を合わせて満開となり、期待以上のシチュエーションに、胸が躍った。ただ、風が冷たく、春らしくない陽気であり、寒さとの戦いも覚悟せざるを得なかったが...。

一番の目的は「羽衣」のはずだった。
しかし、面も装束もつけずに演った、仕舞の「土蜘蛛」が思いのほかにカッコ良かったのだ。
源頼光の化物退治を題材にとっている、このお能は、シテの土蜘蛛が、ふぁっさ~、と、手から蜘蛛の糸を振りまくことで有名なお能である。歌舞伎にもなっているので、知名度の高い作品だ。今回の仕舞は、そのクライマックス、土蜘蛛と頼光たちとの戦いの場面を舞う。仕舞といいながらも、小道具の蜘蛛の糸を使うという豪華版である。
もともと演出が派手な演目で、楽しめることは承知していた。しかし、戦いが始まり、シテの土蜘蛛が手を振り上げ、糸を繰り出した、その瞬間、能楽堂では起こり得ないことが起こったのだ。

夜の虚空に、糸が舞ったのである。

私は、その美しさに驚嘆した。

いつもは下に垂れていくだけの糸が、風にのって優美にゆらゆらと動く。しかも、夜の暗い中である。白い糸が照明に映える。動きを得た糸は無機質な能の舞いに生命を宿し、実にイキイキとした戦いが繰り広げられたのだ。
野外でお能をやることの、最大の効果を見た思いがした。

ということで、絵を描いたのは「土蜘蛛」。
土蜘蛛は化物として象徴されてはいるが、その実は大和朝廷に駆逐された鉱山の民たちのことである。這いつくばって穴の中で作業する人々を、こう呼んだのだ。丹生、砂金、砂鉄...有用な資源を産する鉱山を支配して独占したい朝廷側の思惑により、彼らは蔑まされ敵とされた。
日本書紀の神武記に出てくる土蜘蛛は、手足が長いという記述があり、同じく山に居住する、妖怪の手長足長が連想され、とりあえず、蜘蛛の妖怪としての手長足長を描いてみた。
え?どう見てもキース・フリントだって?韮沢靖の絵にそっくりだって?
うん。気にするな。
私が一番気にしてる。



う~ん。
ねぇ?
やっぱ、韮沢が抜けない...。
私のイラストの師匠はジェイミー・ヒューレットと韮沢靖です。
この二人の絵は、よく真似してて、似たようなのをいくつも描いてきました。
ジェイミーさんだと「タンクガール」のペーパーバックとゴリラズの「Rise of the ogre」、韮沢さんだと「カメレオン」という画集が教科書。見すぎてボロボロになってます。
寺田克也、岡崎京子、松本大洋、マイク・ミニョーラ、メビウス、あと、月岡芳年とか、時々見かけるイギリスやイタリア、フランスの漫画とか、色々影響はされてます。でも、上記の二人が最強ツートップ。特に、ジェイミーさんからの影響は計り知れない。
好きだけでいくと、寺田克也最強なんですが、寺田さん、神すぎて、影響薄い...。でも、ペインターを使い始めたきっかけは、やっぱり寺田さんだったなぁ。「ペインタボン」がインタビューも含めて衝撃だった。

就職決まったんで、これから絵を描きまくりたいのですが、残念なことに、ペインター12が体験版の使用期限を迎えまして...どうするかね。とりあえず、intuos5を買って、付属品のペインターエレメントを使ってみるか、と。もしかしたら、私のやってることはエレメントで十分かもだしねぇ。
ああ、絵がうまくなりたいなー!

界を是とする、ゆえに、彼の名を是界と名付くる。

2012-04-05 15:02:39 | 日記

「是界」という能があります。
これがね、カッコいいんですよ。

話は、中国で僧侶をたぶらかしまくって、イケイケGo!Go!だった天狗の是界坊が来日。愛宕の太郎坊と徒党を組んで、日本の僧侶の本丸、比叡山へ乗り込むも、日本の神様スゴ過ぎて、是界坊、転びまろんで退却。というものです。
かなりの強度で、天台宗、および日本万歳!な内容で、これを普通にメディアにのせたら、あっというまに国際問題に発展しかねない問題作であります。
その辺は、作られた当時の大人の事情とか、電通的ななにかが働いていたことと思われますが、現在も上演されるということは、時代を超えた何かを内包していることは確かで、面白い作なのですよ。

まず、この能、なにがスゴいかというと、シテ(能における主役)が直面(能面OFF)で出てきます。
能面というのは、通常、真人間でないものが、「私は人間ではありません。」という記号として、演者が装着します。ちなみに、ここで言う真人間というのは、成人男子のみです。つまり、女、子供、老人は、人間ではありません。これは、話すと長くなるので、今は説明しませんが、とにかく、成人男子以外の役は能面を着ける、ということになっています。
是界坊は天狗ですから、本来は能面を着けてしかるべきなのですが、ここは直面。
たいてい能面をつけて出てくるシテにとっては、恥ずかしさ1000%の羞恥プレイです。
天狗が普通の人間に化けてやってきた、という設定なので直面なのですが、直面が能面、本当はその下に天狗の形相がある、そんな、ほかの能には見られないカラクリで、もう、のっけから心を鷲掴みです。

そして、いざ比叡山に殴り込み~。
中入り(本性を現すために、いったん引っ込む。)後に出てきた是界坊のカッコいいことったら、直面からのギャップがすごくて、腰抜かしますよ。もう、目が覚めるような展開です。まぁ、負けちゃうんですけどね。
負けちゃうんですけど、是界坊、めっちゃカッコいいんですよ。やられて、飛ぶ力もなくなっちゃって、這ふ這ふの態で逃げ出すんですが、堂々としてます。負けて、血が出るくらい唇噛み締めてるみたいな感じです。ジーン・シモンズです。
昔の人ならいざ知らず、少なくとも、私は「日本の神様はすごいなー!」なんて感想は持たないですね。
日本にいる神や仏に取り囲まれ、僧侶の誘惑に失敗し、逆に散々な目に遭う是界坊。
「もう、こんな国には、二度と来ねぇ!」と、言い捨てて、雲間に消える是界坊。
それは、淡々としたワキ(脇役)の風体との対比で、実に躍動的でイキイキしている。

天狗は一般に悪者です。
しかし、天狗は山の神でもあります。山とセットで恐れ敬われる存在でもあるのです。山という日常ではない場所において、人は理解できないことを、すべて天狗の仕業としました。山にそびえる大きな木は、天狗の住処とされました。山で悪いことをすると天狗にお仕置きをされると考えました。
天狗は自然そのものなのです。その存在は非日常であり、それは、人間が社会で生きていくうえで必要な常識の反対にあるものでもあります。
つまり、天狗はロックな存在なんであります。やっぱり、ジーン・シモンズです。
そんなロックの魂に心を揺さぶられ、従来の僧侶たちに反発する形で生まれた山岳信仰の山伏たちは、そのまま天狗の格好でもあります。
それゆえなんですね。
是界坊がカッコいいのは。

是界ってゆう名前もいいじゃないですか。
界を是とする。
界っていうのは、まぁ、この世のすべてです。良いも悪いも、すべてをひっくるめた体系。それをまとめて、「これでいいのだ。」と肯定してしまうこと。はい、バカボンのパパ出ました。
もう、本当、カッコいい。

是界はロック。だから、カッコいい。

と、いきなり、なんの話をしだしたのか?
シロトリ、気がふれたか?
そう思った方もいらっしゃったかと...。
いや、これから定期的に、能楽について語ってみようかと考えているのですよ。
あんまり親しみのない、この能楽という古典芸能の面白さを、なんとか伝えていければ、と。
実は、サイトも作りたいのですが、それは、ちょっと先になりそうなので、とりあえず、ここで始めようかな、と、試験的にやってみました。
むしろ、興味のない人に読んでもらいたかったりするので、よろしければ、おつきあいください。

(この能は、かれこれ1ヶ月以上前に見たのですが、まぁ、それからダラダラとしてまして、ようやく絵を描き、文が書けました。ふふ、もう、この天狗がアーセンには見えまい!ちなみに、是界坊は、鳥系天狗。つまり、烏天狗の類いです。でも、格が高そうなので、鳥は鳥でも、カラスではなくイヌワシをイメージに使いました。)