あずまあそびのかずかずに

東日本橋で謡(喜多流)のお稽古をしています♪

「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」における能について

2012-09-25 02:32:21 | 日記
最近、スカパーで再放送をやったので、思い出して書き留めておきます。

攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGは、「個別の11人」を名乗る、難民開放の革命を標榜する自爆テロリストたちの事件を発端とした、革命と戦争の物語です。
そのなかで、テロを起こすようにしむけるウィルスに使われた架空の著作「個別の11人」が能楽に関連したのもだったんですよね。
この物語の核となっている人物、クゼの独白で語られる内容は、以下の通りです。

パトリック・シルベストル著「個別の11人」。
インディビジュアリストの聖典。
それがなぜ素晴らしいのか。
それは、5・15事件を日本の能に照らし合わせ、その本質を論じたところにある。
能とは、戦国の武士たちがあらゆる芸能を蔑むなか、唯一認めてきた芸事だ。
それは、幾多の芸能の本質が決定された物事を繰り返しうるという虚像にすぎないのに対し、能楽だけが、その公演をただ一度きりのものと限定し、そこに込める精神は現実の行動に限りなく近しいとされているからだ。
一度きりの人生を革命の指導者として終えるなら、その人生は至高のものとして昇華する。
英雄の最後は死によって締めくくられる。
死によって永遠を得る。

正直、こうやって文字に起こすと、ちょっとわけわからんです。

元ネタは三島由紀夫で、おそらく、能に対する考え方、「をはりの美学」「葉隠入門」「若きサムラヒのための精神講話」「文化防衛論 」あたりの評論、というか、エッセイが、その中心かと思われます。

三島由紀夫にとって、能とは、ただの芸能ではなかったのですね。
彼は、能を、芸術作品としてのみならず、人間の生活、戦争をも含んだその他のあらゆる行動様式の型、国民の精神が純度の高い状態で抽出された一種の結晶体としてとらえていました。
能の演目は、神様を讃えるようなものを除き、たいていがその主人公の人生のハイライトです。
実際に人生に起こりうる悲劇や喜劇の「型」としての「能」は、現実の人生がそうであるように、演者たちが集まって練習に練習を重ねることなく、ほぼ即興の状態で演じられます。
故に、革命を起こすこと、歴史に名を残すようなことを成し遂げること、それ自体も「能」と捉えた、そうゆう解釈なんだと思います。そして、葉隠にある「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という死に対峙して真剣に向き合うことの精神の極限的な緊張状態を「能」の演者たちに重ねていたのではないかと思うのです。
「死によって永遠を得る」
というのは、能の主人公たちが、その壮絶な死によって主人公として能の曲となって昇華されていることを思わせます。

本当は、作中に三島本人の名前を出して「近代能楽集」を持ってきたかったらしいのですが、戯曲集である作品をどうやって物語につなげるつもりだったのかは謎です。

さらに突っ込むと、この「個別の11人」ウィルスに感染しながら、強固な革命の意志がウィルスに打ち勝って、本当の革命を起こそうとするクゼの顔は、表情筋を動かすことが出来ないワンオフであり、能面と通ずるのですよ。
でも、最後、リンゴかじってたんでね、多分、本当は動かせたんでしょうね。
首相暗殺に失敗したあと、顔は変えたんじゃないか、と。集団自決からエスケープした時には、もう、表情筋を動かせる状態だったのかもしれません。
それでも、あえて能面の顔を保持していたクゼは、この作品における「シテ」の機能を十分に果たしていたと思います。

あと、スタンド・アローン・コンプレックス、という概念自体が、もう、能そのものですよね。
囃子方からシテ方、ワキ方...すべての演者さんは、いつもは個人個人で自分の芸を磨いています。何度も繰り返し一緒に練習するということがないのです。それでも、本番で舞台に集まれば、きちんと演目をやってのけます。もう、まさに9課のごとくに鮮やかです。

とまれ。
攻殻機動隊に興味のない人にとっては、まったくわけの分からない話になってしまいました。
でも、大変面白い作品ですので、見たことのない方には、お勧めします。ぜひ、1stから!


余談:
久々に三島由紀夫を斜め読みしましたが、結構おもしろくてね。
近現代の作家でお能について言及してる人たちをとりあげてみるのも楽しいかな、と、思ったり。
夢野久作は言うまでもなく、坂口安吾とかも。

天女に羽根は生やさないという美学

2012-09-20 01:20:26 | 日記
「あずまあそびのかずかずに」
というのは、能「羽衣」の詞なんですが。
とりあえず、羽衣は描いとかなきゃいかんだろう、と、Painter12の調子や使い勝手を探る目的も兼ねて制作。

牡丹づくしです。
能では、その作品の主役のキャラクターを表すために、ちょっとした小道具を装備するのですが、羽衣の天女ちゃんは「天冠(てんかん)」と呼ばれる冠を戴きます。
喜多流はですね、牡丹の天冠。
他のとこは鳳凰だったりします。

これは、まぁ、牡丹の場合は、かなりリアルな感じで天女なんだろうなぁ、とか、個人的に思ってて。
鳳凰だと「鳥」ですから、鳥の化身っつーか、いわゆる、白鳥が舞い降りて天女になって水浴びはじめる、という一般的な羽衣伝説のイメージをまんま踏襲してる感じなんですが、牡丹だと、その天女が白鳥だってとこを無視してる気がします。
つまり、天女でしかない。
主眼が人間の姿をした天女の方にあるんじゃないかな、と。
飛び立つときも、白鳥に戻っちゃうんじゃなくて、天女のまんまで飛んでく感じ。

鳳凰を戴いたら、羽根を描いちゃうでしょうね、きっと。
羽衣返してもらうと、それが羽根になる感じ。
そっちもカッコいいような気もします。

しかし。
やっぱ、納得いくように描けないもんです。
色々失敗してるのはいつものことですが、絵はね、それでも完成させることで上達していくものなので、失敗は無視して描きあげるの。
これからも、いろいろとお能の絵を描いていくので、それで絵が上達していったらいいなぁ、とか思ったりも。

もちろん、能楽の勉強も一緒に進めていきたいです。
このブログは、自分が勉強していく過程を書き留めていくのも目的なんです。

はじめに

2012-09-10 15:10:29 | 日記
狂言はまだしも、日本の伝統芸能のなかで、ひときわ近寄りがたい空気をバシバシ醸し出している、お能。
公演を観に行っても、観客の年齢層は富士の高嶺。三十も半ばを過ぎた私でも、若者気分を味わえます。
うん。
お能。観ないね、知らないね、今日日の若者は。

本当は、面白いんですよ。カッコいいんですよ。ビューチフーですよ。萌ですよ。芸術爆発ですよ。
でも、能楽は、ひっそりひっそり、日々公演を続けています。カビや苔が生えそうな勢いです。

その能楽を、なんとか日の当たるところへ引きずり出せないか?
能楽師でも、研究者でも、なんでもない素人が考えているわけですよ。
どうやったら能楽というものが、日本の芸能芸術の表街道に返り咲けるのか?
つか、世界にだって羽ばたけるだろう?!
なんというか、日々、考えてるんですよ。

本当にずぶずぶの素人です。正直に言うと、謡のお稽古をしているといっても、お気楽極楽にやっているもんで、なんか上達してるんだかなんだか...。
ただただ、お能というものが好きで、「うわっ!なにこれ!カッコイイ!!」という、うわついた心が常に先行する、不埒な能楽ファンなのであります。
そんな人間がやることですので、はたから見たら、むちゃくちゃだったり、間違ったりするかもしれません。それでもはじめるのですよ。
絵を描いたり、エッセイ書いたり、観てきた演目の感想をブツブツ言ってみたり。お稽古のことも、おいおい書いていければいいかな。
色々やっていく予定です。
前掲の記事は、能楽関連専用でブログを分離する前に、趣味ブログで掲載したものを転載しました。

ちなみに。
私が習っているのは、喜多流の謡です。東日本橋、両国橋のたもとで、6人くらいで月3回のお稽古をしています。
興味を持たれた方は、こちらのメールアドレスまでお願いします。

>jellyfoolish@yahoo.co.jp  シロトリエミ