最近、スカパーで再放送をやったので、思い出して書き留めておきます。
攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGは、「個別の11人」を名乗る、難民開放の革命を標榜する自爆テロリストたちの事件を発端とした、革命と戦争の物語です。
そのなかで、テロを起こすようにしむけるウィルスに使われた架空の著作「個別の11人」が能楽に関連したのもだったんですよね。
この物語の核となっている人物、クゼの独白で語られる内容は、以下の通りです。
パトリック・シルベストル著「個別の11人」。
インディビジュアリストの聖典。
それがなぜ素晴らしいのか。
それは、5・15事件を日本の能に照らし合わせ、その本質を論じたところにある。
能とは、戦国の武士たちがあらゆる芸能を蔑むなか、唯一認めてきた芸事だ。
それは、幾多の芸能の本質が決定された物事を繰り返しうるという虚像にすぎないのに対し、能楽だけが、その公演をただ一度きりのものと限定し、そこに込める精神は現実の行動に限りなく近しいとされているからだ。
一度きりの人生を革命の指導者として終えるなら、その人生は至高のものとして昇華する。
英雄の最後は死によって締めくくられる。
死によって永遠を得る。
正直、こうやって文字に起こすと、ちょっとわけわからんです。
元ネタは三島由紀夫で、おそらく、能に対する考え方、「をはりの美学」「葉隠入門」「若きサムラヒのための精神講話」「文化防衛論 」あたりの評論、というか、エッセイが、その中心かと思われます。
三島由紀夫にとって、能とは、ただの芸能ではなかったのですね。
彼は、能を、芸術作品としてのみならず、人間の生活、戦争をも含んだその他のあらゆる行動様式の型、国民の精神が純度の高い状態で抽出された一種の結晶体としてとらえていました。
能の演目は、神様を讃えるようなものを除き、たいていがその主人公の人生のハイライトです。
実際に人生に起こりうる悲劇や喜劇の「型」としての「能」は、現実の人生がそうであるように、演者たちが集まって練習に練習を重ねることなく、ほぼ即興の状態で演じられます。
故に、革命を起こすこと、歴史に名を残すようなことを成し遂げること、それ自体も「能」と捉えた、そうゆう解釈なんだと思います。そして、葉隠にある「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という死に対峙して真剣に向き合うことの精神の極限的な緊張状態を「能」の演者たちに重ねていたのではないかと思うのです。
「死によって永遠を得る」
というのは、能の主人公たちが、その壮絶な死によって主人公として能の曲となって昇華されていることを思わせます。
本当は、作中に三島本人の名前を出して「近代能楽集」を持ってきたかったらしいのですが、戯曲集である作品をどうやって物語につなげるつもりだったのかは謎です。
さらに突っ込むと、この「個別の11人」ウィルスに感染しながら、強固な革命の意志がウィルスに打ち勝って、本当の革命を起こそうとするクゼの顔は、表情筋を動かすことが出来ないワンオフであり、能面と通ずるのですよ。
でも、最後、リンゴかじってたんでね、多分、本当は動かせたんでしょうね。
首相暗殺に失敗したあと、顔は変えたんじゃないか、と。集団自決からエスケープした時には、もう、表情筋を動かせる状態だったのかもしれません。
それでも、あえて能面の顔を保持していたクゼは、この作品における「シテ」の機能を十分に果たしていたと思います。
あと、スタンド・アローン・コンプレックス、という概念自体が、もう、能そのものですよね。
囃子方からシテ方、ワキ方...すべての演者さんは、いつもは個人個人で自分の芸を磨いています。何度も繰り返し一緒に練習するということがないのです。それでも、本番で舞台に集まれば、きちんと演目をやってのけます。もう、まさに9課のごとくに鮮やかです。
とまれ。
攻殻機動隊に興味のない人にとっては、まったくわけの分からない話になってしまいました。
でも、大変面白い作品ですので、見たことのない方には、お勧めします。ぜひ、1stから!
余談:
久々に三島由紀夫を斜め読みしましたが、結構おもしろくてね。
近現代の作家でお能について言及してる人たちをとりあげてみるのも楽しいかな、と、思ったり。
夢野久作は言うまでもなく、坂口安吾とかも。
攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIGは、「個別の11人」を名乗る、難民開放の革命を標榜する自爆テロリストたちの事件を発端とした、革命と戦争の物語です。
そのなかで、テロを起こすようにしむけるウィルスに使われた架空の著作「個別の11人」が能楽に関連したのもだったんですよね。
この物語の核となっている人物、クゼの独白で語られる内容は、以下の通りです。
パトリック・シルベストル著「個別の11人」。
インディビジュアリストの聖典。
それがなぜ素晴らしいのか。
それは、5・15事件を日本の能に照らし合わせ、その本質を論じたところにある。
能とは、戦国の武士たちがあらゆる芸能を蔑むなか、唯一認めてきた芸事だ。
それは、幾多の芸能の本質が決定された物事を繰り返しうるという虚像にすぎないのに対し、能楽だけが、その公演をただ一度きりのものと限定し、そこに込める精神は現実の行動に限りなく近しいとされているからだ。
一度きりの人生を革命の指導者として終えるなら、その人生は至高のものとして昇華する。
英雄の最後は死によって締めくくられる。
死によって永遠を得る。
正直、こうやって文字に起こすと、ちょっとわけわからんです。
元ネタは三島由紀夫で、おそらく、能に対する考え方、「をはりの美学」「葉隠入門」「若きサムラヒのための精神講話」「文化防衛論 」あたりの評論、というか、エッセイが、その中心かと思われます。
三島由紀夫にとって、能とは、ただの芸能ではなかったのですね。
彼は、能を、芸術作品としてのみならず、人間の生活、戦争をも含んだその他のあらゆる行動様式の型、国民の精神が純度の高い状態で抽出された一種の結晶体としてとらえていました。
能の演目は、神様を讃えるようなものを除き、たいていがその主人公の人生のハイライトです。
実際に人生に起こりうる悲劇や喜劇の「型」としての「能」は、現実の人生がそうであるように、演者たちが集まって練習に練習を重ねることなく、ほぼ即興の状態で演じられます。
故に、革命を起こすこと、歴史に名を残すようなことを成し遂げること、それ自体も「能」と捉えた、そうゆう解釈なんだと思います。そして、葉隠にある「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という死に対峙して真剣に向き合うことの精神の極限的な緊張状態を「能」の演者たちに重ねていたのではないかと思うのです。
「死によって永遠を得る」
というのは、能の主人公たちが、その壮絶な死によって主人公として能の曲となって昇華されていることを思わせます。
本当は、作中に三島本人の名前を出して「近代能楽集」を持ってきたかったらしいのですが、戯曲集である作品をどうやって物語につなげるつもりだったのかは謎です。
さらに突っ込むと、この「個別の11人」ウィルスに感染しながら、強固な革命の意志がウィルスに打ち勝って、本当の革命を起こそうとするクゼの顔は、表情筋を動かすことが出来ないワンオフであり、能面と通ずるのですよ。
でも、最後、リンゴかじってたんでね、多分、本当は動かせたんでしょうね。
首相暗殺に失敗したあと、顔は変えたんじゃないか、と。集団自決からエスケープした時には、もう、表情筋を動かせる状態だったのかもしれません。
それでも、あえて能面の顔を保持していたクゼは、この作品における「シテ」の機能を十分に果たしていたと思います。
あと、スタンド・アローン・コンプレックス、という概念自体が、もう、能そのものですよね。
囃子方からシテ方、ワキ方...すべての演者さんは、いつもは個人個人で自分の芸を磨いています。何度も繰り返し一緒に練習するということがないのです。それでも、本番で舞台に集まれば、きちんと演目をやってのけます。もう、まさに9課のごとくに鮮やかです。
とまれ。
攻殻機動隊に興味のない人にとっては、まったくわけの分からない話になってしまいました。
でも、大変面白い作品ですので、見たことのない方には、お勧めします。ぜひ、1stから!
余談:
久々に三島由紀夫を斜め読みしましたが、結構おもしろくてね。
近現代の作家でお能について言及してる人たちをとりあげてみるのも楽しいかな、と、思ったり。
夢野久作は言うまでもなく、坂口安吾とかも。