仕事は 一応、今日と明日は、おやすみなんですが。
今日は、会議室に行って 掲示物を作って掲示したり、報告書を書いたり…、イベントの準備物の確認などをしてきたいなぁ。
足が悪いので、椅子に乗っての作業が不安なので、前回は息子に一緒に行ってもらい、手伝ってもらったんだけど。
考えてみると…。
自分が子供の頃は、実父の仕事が建設土木業だったので、架けた橋を見たり、出張所で飼っていた鶏や鶉、犬、日本猿などを見たくて遊びに行ったりして、働く現場は見ていないけれど、家で専門書を読んだり 図面を広げていたりする姿でも なんとなく 父の仕事のイメージを描けていたんですよね。
一方、自分は、電子部品の内職や、学習塾での指導スタッフの仕事の時は 子どもたちに 実際の仕事の様子を見せることができていたんだなぁ、と、ふと気づいた。
仕事ではないけれど、コーラスのコンサートは、車椅子で出た時には、三女に介助を頼んで 舞台裏も見せたのでしたねぇ。
21歳で なんとか病気に克ち 退院して 4日後に養父を、それから1年半後に養母が亡くなり、自分も退院時に、再発したら、もう効果的な薬も無いし、手術もできないので、と言われていたので、つくづく 人の寿命なんて いつ尽きるのか分からないと思って、それまでの、親の言いなりの生活をあらため、常に いかに自分は生きるか、を考えるようになったんだけど、仕事は生活のため、コンサートは、恩師に見せたかったため、と、自分のなかの目的は違ったけれど、これも ひとつの私の「後ろ姿」なのかもしれないなぁ。
同じ足を3度骨折してからは、「仕事」はもうするな、と、夫にも、子どもたちにも、ぎっちり言われているし、自分でも、そう、もう体力も落ちてきて、気力も、以前のようには燃えない…。無理だなぁ、という自覚はある……。
なにより、努力が大好きなのに、それすら、もう、集中力が続かなくなった…。大好きだったはずの読書もテレビ番組も今は 最後まで、が難しい…。
…と ちょっと 客観的にみたら、無理してるのは 明らか…。
疲れと 落ち込みのなか、昨日は…、今 思えば 次々に偶然 会えた方々には、高め、明るめのテンションで 話しかけ 元気な私だったけれど、上司とは、初めから静かに会話をし、会話が途切れ お互いに沈黙の時間もあったけれど、沈黙にドキドキすることもなく、自然体でいられた…。
それは、たぶん。
わたしの説明や質問、迷っていることを、上司は多用多忙でも、辛抱強く 最後まで聴いてくれ、アドバイスもしてくれるし、ご自分の考えや思いも たくさん聴かせてくれた約1年半の積み重ねのおかげ。
電話、対面… いったいトータルで どれだけの時間をプレゼントしていただけたんでしょう…。
夜の電話は、わたしもくたくたで、廊下に出るのも辛くて、家族がいる部屋で、というのが多かったので、娘たちも、わたしの受け答えは聞いているわけで…。これもまた、後々 わたしの思い出、ということになるのかなぁ。
子どもの前では わたしは 誰かの悪口や陰口を言うことは避けてきたけれど、下の子が思春期に入ったときに、そろそろ、自分の感情と行動のコントロールのためには、ありのままの感情を私に伝えやすくできれば、ということと、私にも 様々な感情があって、人間関係にも悩み、傷つくこともあるのだ、だから、あなただけの問題・悩みではないよ、一緒に考えるよ、ということも伝えてゆく時がきたなぁ、と思い、フランクに話し合えるように、と、方針を変えることを娘たちに伝えて、実際に上司との悩みを折に触れ、話してきた2年半でした。
今まで、誰かのことで愚痴る姿をあまり見せてこなかったので、大丈夫かな、と初めは不安だったのですが ときには、私にアドバイスまでしてくれるようになった娘たち。
次女も、人間関係のストレスを自分から話すようになり、今の仕事に移ってからは、以前の職場よりも、気持ちの整理をつけやすくなっている感じ。
親が変われば 子どもが変わる…なんども教わっていたけれど、ほんとだなぁ…。特に次女の成長を感じます。
わたしは常に親の愚痴を聞き、慰め 励まし、見かけだけの大人になってしまったので、自分の脆さとの違いを感じます。
ある意味、最悪の人間関係からのスタートだった上司と、さらに立場が変わって、より密接にかかわることになった1年半、とても勉強になりました。
挫折に終わっても、娘たちの糧になれば、と、がんばった面もあったので、結果として、子育てまで支援していただいた感じです…。
上司が変わると また、別の自分の課題が見つかることでしょう。
今 すでに 見えていることがありますが、先日 上司に しっかり2、3、指摘されて キツかったけれど 事実ですねぇ。
今までで一番キツいことを言ってくださったかも。
退任まで、あと4日…。
今日は、会議室に行って 掲示物を作って掲示したり、報告書を書いたり…、イベントの準備物の確認などをしてきたいなぁ。
足が悪いので、椅子に乗っての作業が不安なので、前回は息子に一緒に行ってもらい、手伝ってもらったんだけど。
考えてみると…。
自分が子供の頃は、実父の仕事が建設土木業だったので、架けた橋を見たり、出張所で飼っていた鶏や鶉、犬、日本猿などを見たくて遊びに行ったりして、働く現場は見ていないけれど、家で専門書を読んだり 図面を広げていたりする姿でも なんとなく 父の仕事のイメージを描けていたんですよね。
一方、自分は、電子部品の内職や、学習塾での指導スタッフの仕事の時は 子どもたちに 実際の仕事の様子を見せることができていたんだなぁ、と、ふと気づいた。
仕事ではないけれど、コーラスのコンサートは、車椅子で出た時には、三女に介助を頼んで 舞台裏も見せたのでしたねぇ。
21歳で なんとか病気に克ち 退院して 4日後に養父を、それから1年半後に養母が亡くなり、自分も退院時に、再発したら、もう効果的な薬も無いし、手術もできないので、と言われていたので、つくづく 人の寿命なんて いつ尽きるのか分からないと思って、それまでの、親の言いなりの生活をあらため、常に いかに自分は生きるか、を考えるようになったんだけど、仕事は生活のため、コンサートは、恩師に見せたかったため、と、自分のなかの目的は違ったけれど、これも ひとつの私の「後ろ姿」なのかもしれないなぁ。
同じ足を3度骨折してからは、「仕事」はもうするな、と、夫にも、子どもたちにも、ぎっちり言われているし、自分でも、そう、もう体力も落ちてきて、気力も、以前のようには燃えない…。無理だなぁ、という自覚はある……。
なにより、努力が大好きなのに、それすら、もう、集中力が続かなくなった…。大好きだったはずの読書もテレビ番組も今は 最後まで、が難しい…。
…と ちょっと 客観的にみたら、無理してるのは 明らか…。
疲れと 落ち込みのなか、昨日は…、今 思えば 次々に偶然 会えた方々には、高め、明るめのテンションで 話しかけ 元気な私だったけれど、上司とは、初めから静かに会話をし、会話が途切れ お互いに沈黙の時間もあったけれど、沈黙にドキドキすることもなく、自然体でいられた…。
それは、たぶん。
わたしの説明や質問、迷っていることを、上司は多用多忙でも、辛抱強く 最後まで聴いてくれ、アドバイスもしてくれるし、ご自分の考えや思いも たくさん聴かせてくれた約1年半の積み重ねのおかげ。
電話、対面… いったいトータルで どれだけの時間をプレゼントしていただけたんでしょう…。
夜の電話は、わたしもくたくたで、廊下に出るのも辛くて、家族がいる部屋で、というのが多かったので、娘たちも、わたしの受け答えは聞いているわけで…。これもまた、後々 わたしの思い出、ということになるのかなぁ。
子どもの前では わたしは 誰かの悪口や陰口を言うことは避けてきたけれど、下の子が思春期に入ったときに、そろそろ、自分の感情と行動のコントロールのためには、ありのままの感情を私に伝えやすくできれば、ということと、私にも 様々な感情があって、人間関係にも悩み、傷つくこともあるのだ、だから、あなただけの問題・悩みではないよ、一緒に考えるよ、ということも伝えてゆく時がきたなぁ、と思い、フランクに話し合えるように、と、方針を変えることを娘たちに伝えて、実際に上司との悩みを折に触れ、話してきた2年半でした。
今まで、誰かのことで愚痴る姿をあまり見せてこなかったので、大丈夫かな、と初めは不安だったのですが ときには、私にアドバイスまでしてくれるようになった娘たち。
次女も、人間関係のストレスを自分から話すようになり、今の仕事に移ってからは、以前の職場よりも、気持ちの整理をつけやすくなっている感じ。
親が変われば 子どもが変わる…なんども教わっていたけれど、ほんとだなぁ…。特に次女の成長を感じます。
わたしは常に親の愚痴を聞き、慰め 励まし、見かけだけの大人になってしまったので、自分の脆さとの違いを感じます。
ある意味、最悪の人間関係からのスタートだった上司と、さらに立場が変わって、より密接にかかわることになった1年半、とても勉強になりました。
挫折に終わっても、娘たちの糧になれば、と、がんばった面もあったので、結果として、子育てまで支援していただいた感じです…。
上司が変わると また、別の自分の課題が見つかることでしょう。
今 すでに 見えていることがありますが、先日 上司に しっかり2、3、指摘されて キツかったけれど 事実ですねぇ。
今までで一番キツいことを言ってくださったかも。
退任まで、あと4日…。