イカサマの宇宙

Splendido Universo di Ikasama

空想ヴァチカン航空

2005-01-28 02:04:14 | Weblog
そういうわけで、イタリア代表アリタリア航空はつぶれそうなのです。ずっとつぶれそうだけれど、つぶれないので、このままつぶれないかもしれないが、ともかく私がイタリアにいたときは国内便はいつもストライキで飛ばないわけで、飛ばない飛行機といえば、アリタリア航空なのです。そういえばその昔、パゾリーニという人が「アラビアン・ナイト」という凄い映画を作ったときに、パゾリーニ本人が空を飛んでしまうという、観客があっけにとられるトンデモ・シーンがあるのですが(なにがトンデモってそれは見てのお楽しみ)、それはね、アリタリアの飛行機がストで飛ばないから、パゾリーニがね「えーい、飛ばぬなら飛んで見せようパゾリーニ。それならオレが飛んでやるぅー!」と言ってスト破りを決行、本当に自分で飛んでしまった。ということだったとか。
(うそです)。

まそういうわけでね、問題はですよ、

アリタリア航空がなくなったら、次はなに航空がイタリアを代表する航空会社となるのか?

ということですよ。
この大問題をですね、トー大のイタリア人講師の先生に質問したところ、その答えは、

「そりゃ、ヴァチカン航空じゃ。」
「え!ヴァチカン航空ですか!」
「そうじゃ、スッチーは修道女がやればいいじゃろ。修道女もいつまでも孤児院だの病院だの学校だの。。。そういう時代は過ぎたのじゃ。今、社会が求めておるのは、空飛ぶ修道女じゃ。」
「じゃ、パイロットは。。。」
「神父じゃ。助ける人々のために身を投げ出す、犠牲の精神が神父の使命じゃ。」
「犠牲、、、て、その飛行機、本当に大丈夫なんですか?」
「ウッウー、そりゃもちろんじゃ。神のご加護つきじゃ!安全第一じゃ。
空飛ぶ修道女、空飛ぶ神父、これからの時代に求められているのは、ヴァチカン航空、
無論、機内アナウンスは、ラテン語じゃ!」
「なるほど!じゃあ、もうこれまでのように、英語、フランス語、イタリア語、、、といった各国語で機内アナウンスをする必要はなくなるわけですね!」
「ウー、もちろんじゃ!そういった複雑なことが一切解消されるわけじゃ、ヨーロッパの共通言語とは何か、それはもちろんラテン語じゃ。ラテン語を使えば、すべての問題解決じゃ。ラテン語を話すスッチー、それにはやはり修道女をスッチーにするのが一番簡単じゃ!アリタリアがなくなっても全然困らんよ!これでキミの問題は解決したかね?」

空想ヴァチカン航空。あったらおもしろそうです。だけどオレは乗れないな、だって、ラテン語で女性名詞の活用くらいしか言えないもの。

トンカ

2005-01-20 01:58:11 | Weblog
アンコナとフューメのあいだに、あるいはミッデルケルケとどこか未知の町とのあいだに灯台が立っています。その光は夜な夜な扇のように海上を輝かすのです。扇の一閃、そして闇、それからまた一閃。ヴェンナタールの野原にはうすゆき草が咲いています。

これは地理でしょうか、植物学でしょうか、それとも航海術でしょうか?これはヴィジョンです、絶対の孤独のさなかに永遠に存在するもの、したがって、存在しないものといってもよいでしょう。それとも、何なのでしょうか?

(ロベルト・ムージル「三人の女」)

念力シュークリーム

2005-01-18 11:34:52 | イカサマ
週末に友人の会があったのでございます。こんなときに手作りのお菓子を持っていこうと思うなんて、それはただただイカサマアヤが見栄っ張りだからでございますよ。しかもシュークリームに挑戦するなんてもう本当に見栄っ張りでございますよ。しかし遠い記憶をたぐり寄せればですね、高校生のときにシュークリームを作って成功したようなおぼろげな記憶があるのですよ。いや。。。あれは中学生の弟が作ったのだったか。。。いずれにせよ、中高生が作れるお菓子を大学院生が作れないわけはないと思うのですよ、なんといってもそのあと大学受験、大学院受験の大波小波を乗り越えてきているのだからね、シュークリームなどお茶の子さいさい(のはず)ですよ!

というわけで、シュークリームをね、がんばって作ったわけですよ。
ところで、シュークリーム作りの成否はご存知のようにシューが膨らむか、膨らまないかということにかかっているのでございます。タネをオーブンに入れて焼き上げる間に、心配で何度もオーブンの中を覗き込むのですが、これが、

なんということか全然膨らまない!

シューが膨らまない。。。妄想はいつも膨らむ一方なのに、シューは膨らまない。。。
なぜだ。。。不発だ。。。

苦悩しながらオーブンをじっと見つめるイカサマアヤ。。。すると、

おや、シューがちょっと膨らんだような気が!

「なに!見ていたら(原因)、膨らんだ(結果)。。。見ていれば(条件)、膨らむ(結果)。。。ということは、この調子でシューをじっと見つめて念力を送り続ければ、シューは膨らむ、ということ。。。?」

早速、オーブンの前に椅子を置いてどっかり腰をすえると、体を二つに折ってオーブンの中をのぞきながら、一心に念力をシューに送ることにするわけです。「ふくらめええ!ふくらめえええ!!シュークリームよ!ふくらめえええええ!」

しかし、念力を送るのが少々手遅れだったとみえて、シュークリームは思うように膨れないまま焼きあがってしまったのです。
「反省すべきは、最初から念力を送らなかったことだ。最初から念力を送っていたらもっと膨らんだかもしれない。」そう思えば、もう一度作ってみたくなるのが人情というもの、もう一度バターと小麦粉と水を計りなおし、タネをごねごねこねると、今度は最初からオーブンの前でじっとシュークリーム番を務めることにするのです。「ふくらめええ!ふくらめえええ!シュークリームよ!ふくらめええええ!」

とそのとき弟が台所へやってきて、「夜中にごそごそ、何やってんの?」
「いや。。。ちょっと、シュークリーム作ってるんだけど、シューが膨らまないから。。。オーブンを、見張ってる。」
さすがに口が裂けても念力を送っているとは言えなかったでございますよ。
この念力シュークリームを、次の日、友人の方々は文句も言わず召し上がってくださいました。この方々にも、私がシュークリームを念力で膨らませたなどということは口が裂けても言えないのでございました。
お粗末さま。

週末のイカサマアヤ、吉祥寺で「ペッ」様に出会うの巻

2005-01-08 12:57:59 | イカサマ
ところで、私、昨日ピアノの帰りに、ふらりと吉祥寺に立ち寄りまして、街をふらふら歩いていたのですが、不思議なことに、「どこかで見たような人」に何度も何度も何度も出会うのでありました。
「なんだなんだ?デジャ・ヴー?」

。。。もしかして。。。!
これは、この鳴かず飛ばずのイカサマアヤにも、ついに、ついに「運命の出会い」とかなんとかいうものなのかもしれません!いやー長かった。極寒の冬の時代いや氷河期といっても良いかもしれないつらく厳しい時代を過ぎて、ついに今、雪解けの気配が!春の来ない冬はないとはよく言ったもんだねえ。よかったよかった日本に帰ってきて。北風吹きすさぶ真冬の東京に私だけ春の訪れを感じるよ。なんだかジーンとくるねえ。は!アヤよ、これはうかうかしている場合ではありませんよ。運命の女神は前髪しかないというウワサ!躊躇してはなりません。この次に再見的人に出会ったときにはですよ、すぐさまつかつかとその人に近づくなり腕をぎゅっと掴んで、尋ねなければなりません。
「キミノナハ?どこかでお会いしませんでしたカ!」とね。。。

などと次々と渦巻く妄想に鼻の穴を大きく膨らませながら一人歩いていると、また来た!またですよ!その「どこかで見たような人」がなんとつかつかと向こうから歩いてくるではありませんか!
げ!げげげげげ!

私は思わずその人をじーっと凝視してしまいましたよ。
向こうも一瞬驚いた様子でこちらを見る!視線と視線がビシーッとスパークする!とその瞬間、
私は気づいたのです。

「ペッ」様だ。。。

もとい、偽「ペッ」様なのでした。。。
なんだあ。どこかで見たはずだよねえ。どこにでもいるもんねえ。偽ビョン様をあまり見かけないということは、トム・クルーズやデ・ニーロの真似は到底無理として、イ・ビョンホンの真似もそうそうできなくとも、ペッ・ヨンジュンは簡単に真似できるということらしいですねえ。(ところで、家に帰って試してみると、なんと、このイカサマアヤでもできることが判明。すごすぎです。いや、すごいのはイカサマアヤのほうか?)

2005年冬、東京の巷にはニセ札とニセ「ペッ」様が大量に出回っているのですよ。

ちなみに、イカサマアヤはヨン様より、ビョン様の方が好みでございますよ。ちなみに、ビョン様とは、ドヒさんがフィレンツェで貸してくれた熱い韓国映画「JSA」で若い韓国兵士の役を熱演していたあの若者のことでございますよ。

「失われた時をもとめて」は古今和歌集と見切って、はやくも他の本に浮気する。

2005-01-05 23:49:03 | Weblog
まだ第一章「コンブレー」も終わっていないというのにもう飽きた。「失われた時を求めて」である。どうしてそう些細なことで心にさざなみを起こし涙を浮かべては、10ページも20ページも心の水面にできるさざなみについてねちねちぐるぐる説明するんだ?しかもそのさざなみとは、オレにとってはどうでもいいことなのだ。サンザシの花の色なんて、人間の偽善なんて、スノッブなんて、野蛮なオレにとってはどうでもいいことだ。そんなとるに足らぬこと。オレにはさざなみも、人間のちょっとした意地悪な側面も、興味はない。そんなこと紹介するために100ページも使うな!

期待はずれて、オレはこの本は読めても、この本に読まれることはなく、オレとこの本はなんとなく何の接点も結べぬまま、オレはオレで「なにをうだうだぬかしていやがるこの男」とどんどん言葉使いが荒くなり、本を心の中で罵倒しながら鉛筆で構文の切れ目に斜め線を入れている始末であった。オレはプルーストの「秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる」みたいな、古今和歌集的感性が気にくわない。しかし古今和歌集のごにょごにょポエムは和歌だから、たかだか長さが知れてるが、プルーストのは電話帳である。電話帳一杯のごにょごにょポエム。アアだめだアアオレはもう挫折しました、文学部失格、オレはまだ職を得ないうちから失業してプルーストを理解することもできぬ感性をもってしまったことを呪いながら、他の職業につこうとて、いまさらどうすることもできず、せめてイタリア語を飯の種にして、どこかで細々と生をつなぐことにしたい(希望的観測)と思いながら、

絶望して部屋の床に倒れ伏していると、目に飛び込んできたのが、とある文学全集であった。おおこれはなんや、なんでこんな本が私の部屋にあるのかはようとして知れなかったが、まあとにかくそんな本があって、「文学?今そんな言葉は聞きたくない気分なんや!」言いながらもぱらぱらとめくると、これが意外と面白い。ああオレはこんなのを読みたかったのだ。。。などと思いながら、「失われた時を」をほっぽらかして午後中かけて読んでしまった後、「そうだオレが好きなのはこういう体育会系文学だ」などとうれしくなって読み止しの本をほっぽらかしてプールまで自転車でぎこぎこ出かけるといきなり一時間もガンガン泳いでしまったから、今は筋肉痛で体の節々がギクシャクして、恐ろしく眠い。(明日へつづく)

ところで、ツルゲーネフの「父と子」はどこへ行ってしまったのだろうか。。。


ごあいさつ

2005-01-05 00:54:36 | イカサマ
あけましておめでとうございます。
アヤ、新年の事始とて、ブログを作ってみました。
作ったといっても、ブログというものは申し込むだけでできてしまうらしいです。なんか適当に必要事項を書き込んだらあっけなく出来上がってしまいました。世の中なにごとも簡単になりました。
「イカサマアヤ」はアヤの妄想がひたすら爆走する閉じた宇宙なので、
掲示板よりもブログのほうが良いと思ったのです。
「イカサマアヤ」隠れ愛読者の皆様、よろしかったら、こちらをご覧ください。また、ご家族ご友人、ご近所の皆さんのみならず、電車で隣に立っている人などにもこっそりこのすばらしいブログの存在を教えてあげると、はじめは迷惑顔をされるかもしれませんが、あとで「いいことを教えてくれた!貴方は命の恩人です!」などと喜ばれるといこともないわけではないのではないかと、僭越ながら思う次第であります。アヤ拝

イカサマのアヤ、「失われた時を求めて」のために特別な読書術を考案するの巻

2005-01-04 23:35:27 | イカサマ
「失われた時をもとめて」を読みはじめたはいいが、なんということか3日くらい読んでもまだ話が始まらないのであった。話が前進せずにどんどん後ろ向きに進み、かと思えばそのすべての記憶というかヘンな映像や音や匂いや思考の断片が現在時に収束される仕組みなのであって、「始まる」とか「終わる」という概念自体がない世界なのかもしれません。だめだこういうわけわからない小説は頭の悪い私にはよくわかりません、それにですよ、訳文の日本語が難しくてよくわかりません。私の日本語能力のせいだろうか。主語と動詞が私の頭の中で意味を成してつながらない。。。本を読んでわからないのはイタリア語だけじゃなかった、母国語の本を読んでもだめだった、ということで新年早々暗澹たる気持ちになるのであった。

そこで考えたのだが、こういう本は真面目に読んでいいのだろうかねワトソン君?こういうナゾの本を読んでいると、この巻貝の中へぐるぐると巻き込まれて、出てこられなくなるという危険性はないだろうか。そうだそうだこういう魔術的な本を最初から最後までしっかり読めば本に読まれておしまいとなり、自分が本を読んだのか、本が自分を読んだのか、なにがなにだかわからなくなり、自己同一性の危機に陥って「自分探し」と言いながらプチット・マドレーヌを暴食し、菩提樹の茶をあおるように飲み、自暴自棄に陥ってしまうのではないでしょうか。これは由々しき問題ですぞ。こういう本に対抗するためには、新しい読書法が必要なのです。

すなわち、「失われた時を求めて」と同時に複数の小説を読んでいくことによって正気を保とうというのです。そうすると、「失われた時を求めて」が終わったその暁には、「失われたとき」は他の小説の記憶と交じり合ってさらに膨張し、全世界征服的な記憶の断片が私の頭の中でものすごい渦巻きを作る、という趣向なのです。

さてその渦巻きに参加する本ですが、とりあえず
「日本語を読むのに疲れるならイタリア語ならいいじゃろう!」
という安易な考えで、「失われた時」に疲れたら、
ツルゲーネフ「父と子」をイタリア語で朗読してもらって、
その辺でねっころがって聴く。という方法を考えてみた。毒には毒をもって処せい!

。。。と書きながら、私はこの試みは失敗に終わるかもしれない、いや終わるだろうという確信が胸に生まれたことを否定することはできないのだが、その確信は、まだ日が沈む前に西の空が夕焼けで茜色に染まるときに、まだ沈みはしないが、たしかにあと少しで沈んでしまうだろうと感じる、そんなものなのであった。私は目に涙を浮かべながら、菩提樹のあのうすい翡翠色のお茶にプチット・マドレーヌを浸してそれを口に含んだときに、プルースト大兄が自分に陶酔しつつ語るさまざまな映像に唖然としながら、それでも一方で「ニコライ・ペトローヴィチとパーヴェル・ペトローヴィチはどちらがお兄さんのほうだったかしら」などと考えたりするのだった。(井上Q一郎訳)