蒼猫絵日記
猫耳とエルリック兄弟とミクと塊魂(女体化)な絵日記。
 



大事な用事を蹴ってまで原稿の為に一日過ごしたのに…、長い間、集中できない…っ
追い詰められなきゃ何もしない、追い詰められても何もしない。
クオリティ低いよ。うえええ。(泣)

ペン入れたはいいが、取り込む時にレベル補正すると細すぎる線が死ぬ…。
紙の陰影を拾いすぎ、飛ばしたら線が消えるんだがどうしたらいいものか。
もうちょい太い線で描くべきか…。
つか、取り込むのにもある程度時間かかるから、、うう。
ペン入れ飽きたらスキャンしよう…。

あ、そうそう!web拍手ありがとうございますっ!
えへへ、もうね、もの凄い嬉しいです。
内容はちょこちょこ入れ替えようかなーとは思ってます^^;
今は2/5の確立でダメダメなガウリナ小説があります。


○「59番目のプロポーズ」
 ちょっと前に噂高かった、「オタクとキャリアの恋愛話」を読んでみました。mixiだったから今まで読めなかった…。
うん、読みたかったから招待してもらいました。だって本買って読むのもなーって、思っちゃったんですよ。まぁ、なんだ、出版物に金を出す事の観念(社会と作者と出版社に与える利益と自身のスタンス)については置いておくとして。…というのは、友人が「コミケスタッフさんの苦労を実際にこの目で見たから、コミケカタログは買う」といっていたからなんだけど。てか、カタログの売上ってスタッフに入るの?まぁ調べてないけど。
 相方がmixiタイプのSNS嫌いで。なんか、もの凄く要約すると、「周りから隔絶された空間」であることが嫌で「気取るなよって思う」らしいです。招待されてないと色々読めないから不便だなー、位にしか思ってなかったけども、確かになって感心。SNSの利点って「限りなく実名性を持った匿名」であることなんだろうけど、mixiまで会員数増えると普通の状態と変わらない。かといって蜘蛛の巣の如く張り巡らされた相互リンクを機能させる為にはシステムは維持しておかないと成り立たないしね。んー。mixi規模まで来るとブログでいいよねぇ。匿名が嫌なら名前と自分のHPアドレスを入力してもらえばいい事です。でも実質、「勝手に入力される」ならいいけど自分から名乗り出る人ってあんまりいないよねぇ。国民性かな、やっぱり。>プチgooとかは開放されてますね。今は余り興味がありませんが、探せばいろいろな形のSNSがありそうです。SNSは次世代ネットワークコミュニケーションのキーとも言われているようです。
 話は逸れたけども。テンポ良く読めました。かなり読みやすい感じでしたよ~。ちんことかうんことか書いてあってかなり読むのに照れたけど。いや、書くのも照れるけど。まぁエロ漫画描きな自分だし、今更照れるもなにもないけど、開けっぴろげるものでもない、と思うのが恥と萌文化だと思うお(自己解釈)。閨の中の出来事は闇の中で行われるものだしね!(再び自己解釈)
 んー。。「強さ」「ひたむきさ」「向上心」って大事なんだなって。自分を恥じるよりも、上を目指して行動していくしかないんだな、って。胸にクル感じです。読んで良かった。
 …やっぱり大したレビューは書けないなぁ…。
 …私、慢性的に向上心が欠如してるんですよね。「なんで」って思いますけど。そしてたぶん、周りからも思われてることでしょう。
…レールに乗りまくってたから、自分で道を敷く事が出来ないんだろうな。精進あるのみです。



 さてと。話は変わりますががが。
 今ちょっと悩んでるんですけど。
「今付き合ってる人に前付き合ってた人の話ってしていいものなのかな」
いや、結構命題かな-…と。私は(気にならないのかな?)って思うんだけど全然聞かれないし。(やっぱり言わない方がいいよね)って思うし。…でも言いたいんです。
 なんで言いたいのかっていうと、今も引き摺ってて、懺悔がしたいんだと思う。許されたい。
 何を許されたいのか。それは、「彼女である自分」を認めて欲しいんです。きっと。
「蒼猫は彼女にするにはどうかと思う」なんて別れ際に言われたから、私はどうしても思っちゃったですよ。「じゃあ何にするにはいいの?」「それって、私の事、愛玩動物とでも思ってたの?」
最盛期、私は「猫っぽく」ある事に全力を注いでた。それに確かに愛玩動物とでも思わなきゃやってられない所があったと思う。だから、そういうダメな自分に対する自己嫌悪もあるんだろな。つか、ああダメだ元彼の悪口をネットに流すようになったら終わる気がする。なんとなく。でも言っちゃうぞー。
 …よし。もうこの話終わる。だから、最後に一つだけ疑問。やっぱ、男のロマンは「孕ませてやるっ」なんでしょか。漫画とかならいいけど。当時きちんといえなかったよ、やめてくれって。言っても結構無駄だったしね、睦言と思ってたのかどうかは憶測の域を出ませんけれど。私にはそういう価値観はないのです。まだまだ自分の事だけで手一杯ですよ…。何かあったら何もかも捨てて実家に帰ろうと思ってました。
あ、色々想像してたらお腹痛くなってきた…。うう…やめよう。原稿に消化してやるーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!
あ、でも合意の上ならいいと思うのですよ、いくらでも。

今は凄く幸せで、でも期待(きちんと健全な生活したりとかする事です)に答えられない自分が辛い。



つか!ヤバイ!今気がついたけど今日提出のレポートがある!(現在5:00)



>7/19追記。
○指摘を受けたので、記事の一部を改訂しました。
主観によりセリフを過大認識していました。確かに酷い表現でしたので、改訂いたしました。記事投稿時には何度も校正するのですが、「59番~」のテンションに文章を引き摺られてたのと、早朝だったのでハイになっていたようです。ご不快になられた方もいらっしゃると思います。ご迷惑をお掛けしました。
しかし、長い間私がそういうニュアンスで受け取っていた事、記憶にあるからこその記述であるという事をご理解ください。

○「今日提出のレポート」はなんとか提出できましたっ♪

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□「フレディvsジェイソン」

>メインキャスト
ロバート・イングランド
ケン・カージンガー
モニカ・キーナ
ジェイソン・リッター
ケリー・ローランド

>メインスタッフ
監督: ロニー・ユー(「チャイルド・プレイ/チャッキーの花嫁」「ケミカル51」)
製作: ショーン・S・カニンガム
フレディ原案: ウェス・クレイヴン
ジェイソン原案: ヴィクター・ミラー
脚本: マーク・スウィフト、ダミアン・シャノン
>製作年:2003年 アメリカ/製作:ニューライン・シネマ カラー/1時間38分


以下レビューです。ネタバレありますのでご注意を。

ギャグかと。
まぁホラーではないような。えろ~すも混ざってたりして、まぁホラーの定番ですね。というか、この時間帯でもえっちなシーンを削らずに流してしまえるようになったんですねぇ。
フレディが夢の中でキスしてくる所などは、本作の電話の受話器が舌になって…という部分を彷彿とさせていいですね。あの生理的嫌悪感がたまらなく気持ち悪いです。ブルブル。


そういえば、恐怖の感じ方が、日本と西洋とで観念が違う…というのを「リング」の時にどこかで読みました。すみません、どちらで読んだか記憶にありません;
記憶が定かならば、あちらでは土葬がポピュラーであるため、「虫」が死と死体を彷彿とさせるのだとか。だから「リング」のビデオ映像の中に虫の映像が挿入された、らしいのですよ。
いやでも、虫って普通に相容れない感じがします。昼間見たら窓の外に放り投げちゃいますし。羽虫とかは…最近は潰しちゃいますね。とかく虫は普通に生活していればマイナスイメージを持つものではないでしょうか? ハチミツ業者とか、無菌うじ虫栽培とか手がけてらっしゃるなら別でしょうけれども。

んで。虫の描写、やはりありました。ジェイソンの死体に最初白いものがうごめいて…。思わず体がむず痒くなっちゃいました。
細かい所まで演出に気を使っているな~、と思いましたですよ。基本なのかもしれませんけれどね^^;

ギャグのようで真剣な両怪人たちのバトルの後(戦闘中のギャグ部分とシリアス部分の配合が素晴らしかったですね)、最後は、ラストらしい気持ちのいいラストで終わり。
主人公ズがしっかり生き残っているのはお約束。でも、仲間が死ぬとは思っていなかったなぁ。
サブキャラたちそれぞれがいい味をだしていて、上手いなと思いました。



監督さん…、チャイルドプレイも怖かったなぁ…。
あ、関係ないけどホラー繋がりで初代「ゾンビ」が見たくなってきた。
灰か何かで感染していくやつ。壮絶なラストに圧巻されたなぁ(笑)
いやでも、ホラーは基本的に嫌いです。怖くて。
映画とか見る時は、たまに視線そらしたり別の事したりして、危機を脱出してます…。
本当は怖いの絶対ダメです。パニックを起こすので、安っぽいお化け屋敷にすら入る事ができなかったり…。
でもこの作品は結構平気だったかな。(2回くらい逃げたけど。しょっちゅう入るCMにかなり救われました…; ビデオで通して見るとか、無理だろうなぁ…。)


追記:作品背景については、TBしてくださっている「独身社会人映画ファンメーリングリストHP掲示板」様の方へどうぞ。 とても詳しいですよ。

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レディホーク
【出演者】 マシュー・ブロデリック ルドガー・ハウアー ミシェル・ファイファー ほか
~1985年アメリカ作品~
監督:リチャード・ドナー

以前読んだ同人誌で紹介されていて、凄く気になっていたのですが、何の気無しにテレビ付けたらやってました。途中からしか見れなかったけれど、山場は見れたので良しとしましょう。
画や演出は1985年作という事もあって時代を感じました。やっぱり演出にもその時代時代の流行ってあるんですねぇ(笑)。
内容は、美人さんに懸想した司教があろう事か美人さんとその恋人さんに呪いを掛け、会えなくしてしまうというもの。
これがまた切ない。
遠距離恋愛の形の最終形態なのではなかろうか。人として会えるのは一瞬だけ。話す事もままならないという…。
ううう;;
機会があったらきちんと見たい映画でした。

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原題「Monster's Ball」(死刑執行前夜の執行人の宴、という意味らしいです。)
2001年アメリカ 113分
監督:マーク・フォスター
脚本:ミロ・アディカ
出演:ハル・ベリー(レティシア)、ビリー・ボブ・ソーントン(ハンク)

(いつもの事ですが)私はネタバレ気にせずにばんばん書いちゃいますのでそこんとこヨロシクです。



なんだか…、納得がいかないというか…、うん、「物語っぽくない」。
良い意味で期待を裏切られた作品。
ラストが、とても考えさせられる。
新しい恋人と、その故息子が夫を殺した人だった。彼は職業上そうしただけ。そう、彼が悪い訳ではないのだけれど、どうしようもない悲しみが溢れる。そして、夫や息子を亡くした悲しみを癒してくれたのも彼だった。アンビバレンツな葛藤から呆然としている中、普段は無表情な彼がほんのり上機嫌で外でチョコレートアイスを食べようと誘う。そして、差し出されるプラスチックのスプーン。舌の上でとろける、冷たく甘いチョコレートアイスクリーム…。

 この「プラスチックのスプーン」、彼=ハンクの職業を端的に表していて面白い。看守であるハンクが普段囚人達に使わせているものが「プラスチック」であるはずだからだ。確か、刑務所では危険性の関係から使わせるスプーンはプラスチックだったはず。制服を焼き仕事から決別しても未だ拭えない、日常にまで浸透している習慣。看守であったハンクは、ガソリンスタンドのオーナーになった事で、変わったのだろうか。そのつもりなのだろうか。

 私は、「人は変われる」ものだと信じている。少なくとも、「愛する」という事において、自己犠牲に気がつく間もなく相手に尽くしたいとそう思えるものだと信じている。人は完璧ではいられない。人は完璧ではないように作られていると思っている。人は矛盾した生き物であると思っている。

だからこそ、この作品は痛い。

一見変わったようにみえるハンク。しかしそれは、どうして変わったのだろうか?
それは、「変わった」のだろうか。
そう、彼はなぜ息子を憎んでいたのか。
彼は父親の呪縛から逃れられなかった。しかし、息子は自分よりも自由だった。父親が「クロ」と蔑み、自分もまた否応なく差別思想を受け入れさせられていたにも関わらず、息子は自由だった。
ハンクは、うらやましかったのではないだろうか。
自分が、親を愛するが故に耳を塞ぎ口を閉ざし目をつぶって耐えて来た事に、息子は反発した。だからこそ、憎まずにはいられなかったのではないだろうか。絶望の中で死に向かった息子を見て初めて、ハンクは自分に正直に生きようとし始めたのだろう。
これは、「やさしくする」事を禁じられたハンクが、「やさしくなろう」とする物語なのではないだろうか。しかし、長く抑えられていたものが、急にきちんとできるものでもなく、不器用に遠回りしていく。
レティシアに真実を告げられなかったのも、臆病な優しさからなのかもしれない。納得はいかないけど。

無表情なハンクについては酷く分かりやすく描かれているのにも関わらず、逆に表情豊かなレティシアについては説明がつかないのは何故なのだろう。
というのも、なぜ彼女は許せたのだろうか、と思うのだ。
私の感覚からすれば、「夫の死刑を執行した死刑執行人」が「優しいふりをして」自分の恋人になっていた、「自分を奪っていた」。と、…感じててしまうと思う。
濃い褐色の、まるでチョコレートのような肌を持っていた夫。デブで言う事をちっとも聞かなくてどうしようもないけれど、絵が上手くてチョコレートバーが大好きだった息子。
レティシアは、なぜ、白く塗り替えた家で差し出されたチョコレートアイスを食べることが、できたのだろう。
彼女なりに現実を見つめなおして、不器用な幸せだと分かっても、それでも生きていけると思ったのだろうか。謎である。


人種差別・親子関係・恋愛関係。短い時間でここまで広く視聴者に様々な疑問をぶつけてくる作品も珍しいと思った。

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「萌え」市場:2~3兆円規模を考える

「萌え」って、薬みたいなものだな~、と思う。完全なる対症療法。

>「電波男」(三才ブックス)の著者の本田透さんは「心が癒やされるところ」と話す。「人間はやはり愛を与える対象がいないという状況は寂しく、心がすさんでくる。」(中略)「先進各国で結婚制度が事実上崩壊している今、欠けている部分を埋めるのは萌え。」
>容疑者が監禁系の少女ゲームに夢中になり、自らをご主人様と呼ばせたことが明らかになったことで、まるで『萌え』が犯罪の温床であるかのような印象を世間に与えてしまったからだ。誰も傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくないのが彼ら。
(上記記事より)

そう、「欠けている部分を自己補完しようとして発動する救済装置」のような心の動きだと思う。私の知っているオタクたちは、極端に傷つけられる事を恐れる。それは人を傷つけても自分さえ良ければいい、という考え方だったり、傷つく人を見ると自分が傷つくから誰も傷つかないように振舞っていたり、と様々な形があるけれど。そんな事はない、私は明るいオタクを知っている。という人は、「楽しさ」に対しての枯渇をオタク市場で補おうとする動きがあるのではないだろうか?

ただし、オタク市場は薬と一緒で、「悪用厳禁」であるのだ。多くの人が使う薬で快楽性が高く、常習性もあるならば、一部で利用法を間違える・意図的に外す人間も出てくるだろう。それが「ご主人様事件」他、「悪の温床・オタク市場」という印象をもたれがちである、ささいな要因なのである。

一般の人(という括りは好ましくないけれど、あえて「いわゆるオタク」との区別に使ってみる。)からしてみれば、オタクの気持ちはわからない。他の部分で心の補完・維持ができているからだ。解らないものに対して、人間は大きな防衛本能が働く。妖怪や幽霊などに逐一名前を付けて認識していないと、安心できないようなものだ。妖怪や幽霊など、つまり「得体の知れない・理解できないもの」である。
その理解できないものに「オタク」と名前を付けて、中に入って来れないように蚊帳の外に追い出してしまうための人間心理の無意識的な動き、それが「オタク排除」という行動になるのではないだろうか。
村八分という処置・アウシュビッツ収容所など、人は自分の理解できないもの、邪魔になるものは徹底的に無視して距離をおき、排除しようとする。

つまりは、それだけなのだ。

どれだけオタク市場が増えて市民権を受け、オタク市場の恩恵を受けていない側の人間の方が少なかろうが(いわゆる嗜好品…女性ならディズニーやサンリオ、男性なら野球やサッカーなどスポーツ、酒、たばこ、音楽、映画 その他収集して価値を自分なりに付け、鑑賞できるものたち…に関わる人間を全て「オタク」と名づけることが可能ならば、オタクと呼べない人はいないだろう。)、自分の理解できない嗜好を持つものは「○○オタク」と分類され、自分とは別の排斥すべき人種となる。

私は、人種区別は必要だと思う。嗜好の偏りはどうしたって出るものだし、嗜好や感覚の同じ人の方がやはり話やすい。あ、差別はダメ・ぜったいですよ。区別して住み分ける事は可能(コミケ会場なんかまさにソレ)なのだから。
自分が特別、他はキモイなんて差別だよね。なんでキモイのかって、それはつまり、キモイと感じる相手の思考・思想が理解できないからで。

だからほら、みんな言っちゃえばいいんですよ、大声で。オープンにしてれば何も怖くない。(多分)
♪ねぇむーみん♪ ♪はっずかっしがら~な~いで~ ♪てれたりしな~い~で~
「俺は猫耳少女(二次元限定)が大好きだあああああああああああああああああ!!!!!」

…♪…だか~らね~え~~


♪こっちむ~いて! (ちゃん!)








P.S. 以前、「猫耳美少女ぬーど写真集」(実写)を頂きました。頂いた時、ショックで暫く呆然としてしまいました。実写…。いや、2次元と何が違うの?って問われるとこう…。何もかもが違います。としか言えませんが。いつかポーズ資料に使えるかな~……? うーん…。(悩む)

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