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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑦もう少しレイテ島のこと】

2025-04-02 11:36:03 | 旅行

昼食を共にした仲良し夫婦

(実は、前日空港へ出迎えてくれた仲良しの弟夫婦で借りてた家のオーナーMr. Tantuicoの甥っ子)

その後、姉からの指令でNMP他を案内するつもりと言ってくれたのですが

既に午前中に行ってきたと伝え

 

前号で紹介した1989年12月まで暮らしていた家の跡地を訪ねてから

ホテルに戻り 一休みしてから夕食のために外出

 

その昔暮らしていた頃にはまったく気づかなかった歴史のありそうな建物を見つけ

調べてみるとMacArthurと当時のフィリピン大統領の銅像があり

元々は1910年に(スパニッシュxアメリカン・ウォー)に従軍したアメリカ人のエンジニアが

現地人の妻を娶り建てた邸宅で

その後MacArthurが上陸した後に、この邸宅を司令部兼住居として使っていたんだそうです。

Manilaのスペイン時代の要塞 INTRAMUROSの近くにある

由緒あるManila Hotelもマッカサーが司令部兼住居とした場所で

横浜のHotel New Grandも同じく住居だった場所なんですよ。

 

レイテ島は、なんせイメルダ・マルコスの出身地だったので影響が強く

ビーチ沿いの別荘は、失脚後、略奪にあって

ゴルフ場のコース以外は”もぬけの殻”となってしまいましたが

(Tacloban市内には、”St. Nino Shrine"という、イメルダが作った

マニラのマラカニアン宮殿に負けないような贅を尽くした建物がありますが、

そちらは運よく無事だったため現在はHeritage Museumになっています)

 

その後もイメルダの実家の一族(Romualdez)がレイテ島の実力者となり

空港の名前もDaniel Z. Romualdez, 歴代の市長もこのRomualdez家の子孫

 

↑のマッカーサーが一時期過ごした建物(Price Mansion)も

Romualdez家が所有しているそうです。

 

 

↓こちらがその別荘があった場所で

緑の場所がその敷地で、大きなダイニングホールや自分達のお城のような居室に

来客用にいくつものコテージがありました。

NMPに勤務中

ある日突然、勤務先の執務室に地元のゴルフのツアープロが訪ねてきて

手にはパーシモンのウッドを含むゴルフクラブセットに

ゴルフシューズ、手袋、ティーにボール他

ほとんど全てのゴルフ用品を持参して

「貴方用に買ってきた」と言われビックリ仰天

 

実は、このマルコスの別荘のハーフコースを

地元のロータリークラブのメンバー(要するに大病院の病院長や弁護士、会社経営者などの名士達)

によって維持管理していたのですが

 

特に何の娯楽施設もない土地だったこともあり

週末やオフの時間はゴルフして楽しく過ごして欲しいとのこと

そのツアープロがマンツーマンでレッスンするからと説得されて

チャンカーと一緒にゴルフを始めてみたのですが・・・

 

たまーに、スイートスポットにマグレあたりしてくれた時は

信じられないほど見事な放物線を描いてボールが飛んでゆき

それはそれは恍惚な気分になれるほど気持ち良く

爽快感を味わうことができるのですが

 

それ以外は、なんせ力任せにクラブを振るため

ダフリか空振りかシャンクばっかし

 

内心では『もうゴルフなんてしなくていいや』と思っていたのですが

そのゴルフコースでは、近所のニッパ椰子の掘っ立て小屋のような家の

子供たちがキャディーや、ボールボーイ、アンブレラガールとなり

ラウンドした時のチップが学資や生活費になると聞いて

 

ゴルフそっちのけで

子供たちに会いたくて続けてましたねぇ。

 

土曜日の午前中にラウンドして

昼から子供たちを我が家に連れて帰って

ご飯を食べさせて、来客用の部屋に泊まらせ

ビリヤードでもなんでも好きなように遊ばせたり

翌日は、マッカーサービーチあったプールに連れて行ったりしてました。

楽しかったですね~

 

〔この話題には山ほど思い出があるのでまた別の機会に

 

 

 

前回の記事でご説明したように

フィリピンでもご多分に漏れずメガモールができて

Downtownは狭い道と駐車場がないのが仇となり

ドーナツ化現象となって元々の繁華街はほぼ消滅

 

地元民も昔の市街地はただの小さな雑貨を扱う店舗だらけで

夕方の6時には閉店してほとんど人がいなくなくと聞いていたため

Google Mapsでなんとか見つけた中華レストランで夕食を摂ることに決め

 

とりあえず、蒸し餃子とビールを注文

その後、豚のスペアリブの黒酢揚げと

ピータンと豚の痩肉中華粥を注文

そこそこ美味しかったけど、結局全て豚料理だったなぁと苦笑いしながら店を出て

 

歩いてホテルに戻りました

 

さて、ここでまた昔の写真を見つけたので

横道に逸れますが

 

これが前日に訪れた1988年当時のPaloの大聖堂

実は、ここでは地元ではとても有名な

キリスト教の復活祭の一大イベントがあり

 

自ら志願してキリスト役となった人物が十字架を背負って(ゴルゴダの)Paloの丘まで登り

そこで実際に手と足に釘を打たれて磔にされるのですが

釘を刺された手足は、儀式を終えると跡形もなく傷が消えると

観客みなが信じていましたが・・・

 

『そんなバカな』と思いつつ、敬虔なるクリスチャンを冒涜するのも憚られ

「へぇ~、そんな事があるんだ」と驚嘆したふりをしてましたねぇ

 

その日の夜中

地震が起こってビルが大きく横揺れして大焦り

 

なんせチャチな耐震構造なんて考えていないビルなので

巨大な地震に襲われたら倒壊間違いなし

いつものように、「これで我が人生もおしまいか」と覚悟を決めましたが

第二震は起きず助かりました。

(ただ、地震でどこかにヒビが入ったのか、窓側の壁から雨がダダ漏り

次は絶対に別のホテルにしようと心に決めました

 

そしてタクロバン三日目の最終日

朝のフライトに乗るため

 

前日、ホテルのフロントで「朝7:30には出発するから送迎を手配して」と注文し

「わかりました。手配しておきます。」との返事を聞いていたので

安心して朝食を終えてからロビーに向かってみたところ

車が待っている様子もなく

「昨日頼んでおいた空港への送迎はどうなってる?」と尋ねると

 

”聞いてない”のを表情で示し

慌てて前日のスタッフに電話を架けているものの

どうにも繋がらず、何度もかけ直すだけでアクションを取ろうとしないため

 

「一体どうなってるんだ 飛行機に乗り遅れちゃうじゃないか」と言っても

ただただ焦って携帯をかけ直すだけ

 

痺れを切らして

「それならもうトライシクルで行くからいい」と言い捨てて

ドアボーイにトライシクルを拾わせて

 

「空港まで大至急」と発車させたのですが

その日は月曜日の朝でラッシュアワーの上に土砂降りの雨

抜け道を選んでくれていたのですが

信号のない交通整理の人間任せなのでなかなか先に進めず

ボロなトライシクルだったため、アクセルを緩めるとエンジンが停まってしまい

常時セルとアクセルでかろうじて動いていたため

もしかしたら乗り遅れるかもとヒヤヒヤでしたが

 

なんとかチェックイン締め切りギリギリで空港に到着

 

小銭がなかったので高額紙幣を渡すと「オツリがない」と

結局事前に決めた金額の倍ほどになってしまいましたが

なんとか乗れそうだからそれでもいいや と

急いでチェックインして搭乗ゲートに向かいました。

36年前に暮らしていた頃は、VIP扱いで

当時はゲリラから空港を守るために武装した軍が常駐していて

その部隊の隊長が気をつかい

当時はラウンジなど無かったため軍の別室で待たせてくれてたのを思い出しました。

朝の早いフライトとあってか

予定時刻よりも早く搭乗が始まり

要領の悪さに少々イライラしながら順番を待ち

雨降る中、傘をさしての搭乗

それでも予定時刻よりも早く出発準備が整い

初めてのAir Asiaだったので

興味深くあれこれと設備やサービスをチエック

LCC特有の有償の飲食類も調べてみましたが

 

軽いスナック以外はそこそこのお値段でした。 (PHP1=約3円)

乗客も全て搭乗し、予定時刻より早く離陸してくれたのですが・・・

 

 

【その⑧に続く】


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