Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

映画“ホタル”の舞台を訪ねた旅

2017-03-10 17:48:42 | 健さん【高倉健】

 

https://www.youtube.com/watch?v=zgzXgTMCU8c 

  

ブログで何度も記事にさせていただいている

映画”夜叉”に惚れ込んで若狭の日向を訪ねて以来

 

気に入った映画の舞台を訪れ

映像に出ていた場所に佇むだけで

映画のシーンの中に入り込める魔力に取りつかれてしまったようです。

 

そんなわけで

今回も、鹿児島への出張が決まったのをキッカケに”ホタル”のロケ地を訪ねる旅の計画を立てていました。

 

その場所とは

                            ① 山岡秀治と友子の暮らす漁村
                            ② 特攻の思い出の地 知覧
                            ③ 金山少尉からの遺言を聞いた開聞岳の見える海岸
                            ④ 知覧を飛び立った特攻機が沖縄への方位としてみた開聞岳
                            ⑤ ホタルの話の舞台 冨屋食堂 
                            ⑥ 秀治がアラを釣ったと自慢する佐多岬
                            ⑦ 整備兵あがりの船長が働く桜島フェリー
 

 現地に到着するまでに

より感動を深めれられるようにと出発前にDVDをレンタルし

ラップトップパソコンを持参して

 

更には移動手段として

鹿児島までの距離を実感として味わえ

移動中にプライベートを保ちながらDVDをゆっくりと観賞でき

時間を有効に利用でき、経済的でもあるフェリーを選択

 

幸運にもエコノミーベッド(相部屋のベッド)ながら

4名のスペースに一人だけだったので

周りを気にすることなく”ホタル”を鑑賞することができちゃいました

 

 

前置きはこれくらいにして

写真で訪ねた場所をご紹介したいと思います。

 

【佐多岬】

秀治がアラを釣ったと友子に自慢していた場所。

友子にせがまれて船で向かったところ、密航者を連れた石橋蓮司演ずる山崎が隠れていた場所

 

 

【長崎鼻】

金山少尉が、若い秀治と藤枝を連れて遺言を伝えた場所

後日、冨屋食堂の富子から金山の遺品を釜山に届けるよう頼まれ、

友子を連れて金山の遺言を打ち明けた場所でもありました。

 

 

【開聞岳】

映画の中でも何度も出てくる知覧を飛び立った特攻機が

沖縄に針路をとるための指標ともなった開聞岳

薩摩富士と称される山容の美しさよりも

特攻隊員達がどのような気持ちでこの山を眺めていたのかと考えると

痛みを伴うほどの悲しみが湧いてしまいました。

 

 

 

【海潟漁港】

秀治と友子が暮らしていた漁村
すっかり観光スポットとして売り出しているのをみて

正直に打ち明けるとちょっと落胆しちゃいました

 

というのも、自称ロケ地ウォーカーとしては

映画のシーンを思い出しながら

もしかしたら”あそこ”が・・・って想像するのが楽しみなんです



 

【山岡家】

秀治と友子が暮らしていた家

説明書きを読むとロケ地を下見に来ていた映像監督の木村大作氏が

この家のご主人と意気投合して自宅と漁船を使わせてもらうことになったんだとか!

 

【夫婦のテーブル】

友子がコーヒーを入れてた場所

組合長(小林稔侍)が訪ねるシーンでも使われてたところ

”ホタル公園”なるものが作られていて、そこに設置させられるのかなと勝手に想像してました。

 

【漁港の市場】

藤枝の孫 真美がおじいちゃんの遺書らしきノートを持ってきて

その後漁村にしばらく滞在していた時に度々訪れていた場所



 

【秀治がハーモニカを吹いていた桟橋】

映画のシーンで出てたものとは違うようでしたが

 

 

【秀治が乗っていた”二代目とも丸”:奥から3隻目】

映画の中では、海岸で燃やされるのですが

いまだに現存しているのをみてビックリしました!

観光案内にも書かれているスポットの筈なのに、船名を残しているのは左舷側の船首部のみ

漁港のすみからすみまで歩いて探し、諦めかけて帰ろうと思ったものの

登録番号からようやく見つけることができました。

友子が淹れたコーヒーを飲んでたり、網を引き揚げていたり

養殖していたカンパチの餌やりなど、何度も登場していた船でした。




 

【友子が退院後に大根をひいてた畑】

もっと広々としていた畑だったので間違えてるかもしれませんが

山岡家の隣にありました。

 

【藤枝が孫を連れて訪れていた平和会館】

 

http://www.chiran-tokkou.jp/gallery/index.html

 

http://www.chiran-tokkou.jp/


 

 

【ホタルの石碑】

映画には登場していませんが、映画を記念して降旗監督の揮毫の入った石碑。

この映画のことをいろいろと調べてみると

劇中に違和感を感じた左翼的なセリフやショットが問題となっていたようでした。

〔以下Wikipediaより引用〕

映画の中に鳥濱トメをモデルにした奈良岡朋子演じるところの富子に、特攻隊員を「殺したんだよっ」と絶叫させる場面がある。

また、朝鮮出身の特攻隊員・金山少尉に「遺書に本当のことが書けるか」と言わせるシーンがある。

前者は年若い特攻隊員を不憫に思って実の子供のようにかわいがり、

戦後はその慰霊のために生涯を捧げた鳥濱トメの口からは出ることのない政治的メッセージに満ちた言葉であり、

鳥濱トメの加害性すら強調したものである。

後者は知覧の特攻平和会館に保存・展示されている特攻隊員の遺書すべてが虚飾と体面の集積と言わんばかりのものである。

(中略)

また、シナリオ段階の「遺書に本当のことが書けるか」というセリフは「検閲のある遺書に本当のことが書けるか」に改められていた。

改悪であり、特攻隊員たちは遺書をしたためるに当たって検閲を想定し、

建前を書いただけで決して本心は語らなかったということをほのめかすものであり、

幹部はその意味に後で気づくことになるのだが、もう後の祭りであったという[4]

その上で、八木は、奈良岡朋子の後ろ姿が大映しになったシーンは、幹部が言うように吹き替えの用意ではなく、

降旗監督が映画の本質的テーマを傷つけない範囲で譲歩したように見せるためのポーズであると批判している。

「彼ら(特攻隊員)の最後の日々を見とった食堂の女主人富子(奈良岡朋子)、彼女は年老いて食堂を引退することになり、町の人たちが感謝のつどいを開く。

彼女は挨拶の途中、『あんな若い人たちを殺してしまった』と絶叫して、立ちすくみ、泣き崩れる。

この『殺してしまった』という言葉は重要である。ここではそれを成すすべもなく、

見送った自分への悔恨として語られているけれど、あの若者たちは『死んだ』のではなく、

『殺された』というまぎれもない事実といや応なしに向かい合わされる。

『殺した』最大の責任者こそ、小泉首相が参拝した靖国神社に合祀されたA級戦犯たちであり、

あえていえば『日本の悲劇』が記録フィルムによって見せたように、天皇もまた特攻隊員をほめそやし、

はげました責任を免れない。特攻隊の若者たちは『死んだ』のではなく『殺された』という地点から、初めてことの真実が見えてくる。

降旗監督は講演会で『ホタル』の製作過程を率直に語った。

最初は生き残った特攻隊員と死んだ特攻隊員、その婚約者という男二人、女一人の人間関係からスタートした。

何とかして天皇の戦争責任をも描きたかったけれど、スタッフ全員の賛同を得られなかった。

その結果、死んだ特攻隊員を朝鮮半島出身者とすることで『大日本帝国』全体の責任を問うことにしたという。

『ホタル』は若い特攻隊員の死を悲しみ、悼む次元にとどまらず、大日本帝国が犯した加害の責任をもしっかりと視野に入れることになる」

八木は、この説明から「殺したんだよっ」と富子に絶叫させるシーンが持つ政治性は明らかで、

昭和天皇の責任をも含意したメッセージが込められた言葉であり、

これは監督にとって絶対に譲ることのできない言葉であり、

映画の構想の時点でもともと政治的イデオロギーがあり、むしろそれが出発点であって、

特攻隊員や鳥濱トメはいわばそれを飾り立てる道具立てでしかなかったと批判している。

八木は、降旗監督が揮毫した石碑が知覧の特攻平和会館前に立っているが、

それはその会館に収められた遺書が検閲の結果のものに過ぎず、真実のことを書いていないものだと言い、

会館や隣接する特攻平和観音のおおもとを作った鳥濱トメの実像を捻じ曲げた映画を撮った張本人のものであり、

「自分がこの映画をに描いた特攻隊員と鳥濱トメの像こそ真実だ」とその解釈を独占しようとして特攻平和会館の前に陣取っているとしか思えず、

「彼ら(特攻隊員)を冒涜する映画『ホタル』とそれを撮った降旗康男という人物に憤りを禁じえない」と述べている。

 

”夜叉”とかからそんなイメージはなかったけど

降旗康男氏は、日本共産党の支持者なんだとか!

 

どちらかと言うと右寄りな自分にとっては

高倉健、降旗康男、木村大作の映画が大好きだったんでちょっとショックでした。


 

【知覧基地を代表する特攻機:隼】

特攻機と言うと、ついゼロ戦を想像していたのですが

知覧は陸軍の航空隊であったこともあり

特攻に使われたのはこの隼が主流だったようです。

 

【三角兵舎】

直接映画に出てくる場所ではありませんが

特攻隊員たちが出撃するまで起居していた半地下式の兵舎で

ここで遺書を書いたりしたそうです。

【知覧特攻平和観音堂の石灯籠】

藤枝が孫の真美を連れて平和会館を拝観した時に遭遇した

冨屋食堂の主、富子が蝋燭を灯していたところ

この平和会館だけでなく、知覧の市内に燈籠が立ち並び

全ての特攻隊員の名前が刻まれているそうです。

 

【知覧の滑走路跡と思われる畑に咲く菜の花】

『ここから飛び立っていったんだ』と藤枝の孫真美に話すシーンの場所(実際は、背景に山がみえる位置)

 

【冨屋食堂(復元)】

映画に登場する建物は、たぶんセットだろうと思われ

知覧の市街地にあった通称”ホタル館”に行ってみました。

復元された建物で、外観はそれなりに往時を偲ばせる雰囲気がありますが

内部には平和会館のような展示物を置いてある有料の施設で

特攻隊員のことよりも、映画で奈良岡朋子演じる富子の実物

特攻の母”鳥浜トメ”さんと食堂旅館のことを紹介していました。





【冨屋旅館】






 

 

こうして”ホタル”の舞台を訪ねる旅を終えてからも

その日の夜も、その翌日も

DVDを何度も観なおしていたのですが

 

実際に特攻隊員の遺書や史料によって歴史を知ったこともあって

舞台を訪ねる前以上に感情移入してしまい

 

”幸福の黄色いハンカチ” や ”遥かなる山の呼び声” 同様

映画でBGMが流れるだけでそれぞれのシーンが脳裏に蘇り

涙がとめどなく頬を伝うままに感動に浸ってしまいました。

 

 

単なる娯楽映画とは全く異なる作品のため

歴史の解釈や製作者の意図や思惑が気になって、単純に名作品だとの評価はできませんでしたが

少なからず

二度と戦争を起こしてはならない!

このような悲劇を二度と繰り返してはならない!

と強く心に刻み込むことができた気がします。

 

 

参考までに、特攻の創始者であった大西瀧治郎の最期を

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E

 

自決[編集]

1945年8月16日渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。

午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。

官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。

熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。

大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。

全てはその遺書に書いてある。厚木小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。

児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。

介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去。享年55。

 

 

この神風特別攻撃隊の話は

映画にも残されているようなので、近日観てみようと思っているところです。 

ああ決戦航空隊

https://www.youtube.com/watch?v=4PZODEeCEYI

 












 

 

【朝鮮人特攻隊員の碑】

映画の金山少尉のモデルとなった朝鮮出身の特攻隊員

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E5%BA%9A%E9%89%89

実際には、11名の朝鮮半島出身者がいたんだそうです。

 

 

【桜島フェリー】

知覧の航空隊で整備兵だった竹本が船長をしてたフェリー

密航者の件で秀治が鹿児島市内に行くために乗っていたシーンもありましたが

フェリーの船体もいまはすっかり観光船の様相で、映画のシーンを思い出させるのは

桜島側ターミナルの乗客用桟橋だけでした。


 

 

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

この映画の舞台である”陸軍の知覧”を訪れるなら

 ”海軍の鹿屋”も行かなければと

鹿屋の史料館も拝観してみました。

 

ただ、この基地は現在も海上自衛隊によって使用され史料館として展示させられていることもあって

知覧の平和会館とは別物との印象を受けました。

 

 

【ゼロ戦】

昔から聞いていた話でしたが、この史料館で改めて

ゼロ戦が単なる高性能な機種であっただけでなく

馬力の小さなエンジンで操縦性を高めるために

機体の重量を極限まで削った産物であったことを知りました。

(安全性や操縦士を守ることよりも性能を重視した)





 

【あとがき】

太平洋戦争に至った経緯はそれなりに知っていたし

生まれ故郷の豊橋は軍都であったこともあって

軍の施設や航空隊の基地跡にトーチカもあり、空襲で焼け野原になってたことや

豊川の工廠で多くの女子挺身隊の犠牲者を出した私学で学んだことに加え

 

その昔、フィリピンのレイテ島で2年間を過ごしたことから

どれだけ悲惨な戦争であったかも重々知りつつも

 

日本男児としては

特攻の精神は、武士道の極みとも思われて

誇らしいことだとの思いもありましたが

 やはりあまりにも悲劇であったことを再認識させられた旅となりました。

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