
今回選択を誤ったマニラのホテル
外観はそこそこモダンそうなのに中はボロボロ
エアコンは電源も温度調整もできない状態で
冷房MAXのまま
実は、今回のホテル、どこもエアコンの調整が微妙で
Dipologを離れた日から鼻水と咳が出はじめて悩ましく思っていたら
ベッドでシーツとベッドスプレッドに包まっても寒すぎて
熱は出ないものの、鼻水と咳が止まらず大焦り
急いで近くのドラッグストアに駆け込んで
マスクと咳止めを買って飲みましたが・・・
この日の待ち合わせは、ランチを一緒にしようと
お昼前にと思っていたら
「午前10時15分から30分の間にホテルに迎えに行く」と言ってたのが
10時前に「もうホテル前に着いちゃった」と言われて大焦り



朝食は朝イチでガッツリ食べてたので
お腹いっぱいだったので
そしたらお茶でもしようと部屋を出ました。
この日会う約束をしていたのは
NMP時代の副校長
(↓右の列の手前から3人目、因みに私は左側の手前から二人目)
(1987年10月、JICA調査団のメンバーとして出張した時の写真です)
とても慕ってくれていたインストラクターから結婚式のGod Fatherを頼まれた時の
彼女もGod Motherのひとり(↓左端) わたしは右端(笑)
実は、彼女
半端ない才女で、国立フィリピン大学卒の超エリート
東大やアメリカの大学へも短期の国費留学していた人物で
なんせ頭の回転から知識量が凄すぎて近寄りがたい存在だったのですが
実は超ひょうきん(笑)
(↓は、両親の結婚式の写真、ハイソさがうかがえます)
弟は、カソリックの司祭で 現在はマニラにあるカソリックスクールの校長もしていて
彼女は若い時に離婚し、ひとり息子と暮らしていたのですが
子供が巣立ってから、出身地のボホール島にBFも居たのですが
相手が亡くなってからは、弟のカソリックスクールの寄宿舎住まい
(息子から同居して孫の世話をして穏やかに過ごしてとお願いされているのだそうですが
神父で独身の弟が可哀相だからと寄宿舎にいるとのこと)
↓はNMP時代のインストラクターとその家族達で
実は、彼女NMP時代、初代が海軍上がりの人物だったので
軍隊方式で有無を言わせぬ上意下達の運営方針に馴染めず
教育の専門家として政府に訴えて首をすげかえたのですが
今度は海運界も教育界も関係のない政治家が任命され
やはり聞く耳を持たずとうとう嫌気がさして退職してしまったのですが
インストラクター達からはとても慕われていたため
退職後もインストラクター達が同窓会を開き
必ず彼女を招待しているのです。
↓は、3年前にボホールでの同窓会にお呼ばれした時の記念写真
由緒ある一家の家での会食時のショット

↓これは彼女の妹たちとの写真(FBから拝借)
フィリピンではよくあるスパニッシュと中華系の血が入っているみたい
実は、何年前だったかなぁ?
FBで連絡を取るようになってからは
彼女がわたしの一番のフォロワーで
いつも感心するコメントをしてくれるので
久しぶりに会う感覚ではないのですが
やはりテキストでは伝えられない話もいっぱいあるので
この日の再会をとても楽しみにしていました。
こちらは、彼女が普段使っているベンツとお抱えのドライバー
彼女も71歳となり、白内障なのか目が衰えているのですが
頭脳は相変わらず超明晰

(↑写真を撮られないようにしているため客観的に己の姿を見ていませんでしが、
このお腹 また断食センターに行かなければ
との思いを新たにしました。
)
話を戻して、彼女は以前から世界中の教育関係の会議にオンラインで出席して
いろんなプロジェクトへの提言をしているのですが
最近は、特にフィリピン国内約8,000あるバランガイ(村や町、区)への
初等教育の啓蒙活動に尽力していて、そのバイタリティに驚かされるばかりなんです。
(特に僻地のバランガイを訪ねて率先して、バランガイキャプテン“自治会長”を巻き込んで啓蒙活動されてます)
会話が弾み、あっという間にランチタイムとなり
晩御飯は日本食レストランでご馳走するからと
軽めに飲茶することに
とはいえ、お互い既に高齢者の身
疲れが出ては夜までもたないなと一旦お開きにして
またベンツでホテルまで送ってもらうことにしてManila Hotelを後にしました。
レイテ島でのNMP勤務時代、なんせ革命で突如マルコスからアキノ政権に変わったのもの
ただのオバンチャンが大統領になって政府が順調に動く筈もなく
特に船員の再教育とあって関係する省庁が山ほど
労働省、運輸省、海運局、教育省、海外雇用局、海運界に海軍と海上保安庁
商船教育機構に、訓練費を負担する船会社からマンニング会社と
利権の取り合いもあって
毎月関係省庁が集まり、日本大使館にJICAも加わってボードミーティングを開くも
遅遅として進まず(一番の障壁は大統領があまりに無力で無関心だったため)
プロジェクトコーディネーターだったため
それらの関係先との根回しと調整のために
ほぼ毎週のようにマニラに上京しなければならず
当初は、政情不安で治安も悪かったこともあって
JICA事務所も入っていたMakatiの日本大使館近くの
Mandarin Oriental Hotelを定宿としていたのですが
なんせ日中は交通集中してほとんど動かないほどの大渋滞
政府機関のほとんどがイントラムロスと言うスペイン時代の要塞都市かその周辺にあるため
移動だけに無駄な時間を使いたくなかったのと
数ヶ月して治安の悪さにも慣れて、夜の歓楽街へも平気で行けるようになったため
アクセスの良いManila Hotelも定宿のひとつとしていたので
懐かしかったですねぇ
(因みに、当時は日本大使館&JICA割引や御用達の日系旅行会社があって
5つ星ホテルでも50ドル前後で泊まれたんです。公金チューチューではありませんので)
ホテルに戻って一休みしてから
米軍が駐留していた頃は歓楽街(ゴーゴーバー)のメッカだった
マビニ・ストリートとデル・ピラールストリートを歩いて

この出鱈目な電線の束 たしか小倉でもこんな場所あったなぁ
そして歴史あるマラテ・チャーチを横目に
マラテ・カソリック・スクールに到着
司祭&学校長である弟さんから
由緒と歴史あるカソリック・スクールの説明をしてもらったのですが

やはり戦争にまつわる悲しい歴史があり
第二次世界大戦中は、この施設を病院として使用していたため屋上に赤十字を書いて
攻撃されないようしていたのですが
日本軍が隠れているかもと疑った米軍が空爆によって木っ端みじんに破壊して
数百名の犠牲者が出たのもの
やはり集団埋葬されてしまったため
つい2・30年前に欧州の遺族からの要請で掘り起こし
DNA鑑定をして探したんだそうです。
(なんとこの施設内だけにとどまらずマニラ湾の海岸近くからも遺骨が出てきたと)
その後、約束していた日本食レストランでまたまた歓談
今度はホテルに泊まらずスクールの寄宿舎に滞在してねと言っていただきましたが
なんせ、ビールをたらふく飲まないと気が済まない性質なので
丁重にお断りしました。

いずれにしても彼女
なんせボキャブラリーの数が半端なくて
高尚な言い回しがとてもインテリジェンスを感じさせてくれるのですが
わからない単語があると、あとでスマホで翻訳して理解することばっかし
『そうかぁ、そんな言い回しするんだなぁ』
と感心するばかり、でもとっても勉強になりますよ~
なにはともあれ、とっても有意義な一日でした。
それにしても、可愛かった彼女もすっかりおばあさんになっちゃったんだなぁ
と自分の事を棚上げして言いたい放題