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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その⑥Nuku’alofaでの生活編】

2024-10-08 16:01:45 | 日記

1982年 12月

ようやく鮪延縄漁業訓練船”Lofa”のNuku’alofaの岸壁での保守整備

(エンジン3台をオーバーホール)と

American Samoaでのドック入りを済ませ

 

久しぶりにNuku’alofaでの生活となり

桜井研次さんから引き継いだ家でホッと一息

 

昔の青年海外協力隊は技術を備えたプロ集団で

発展途上国の国造りの手助けできる人材を派遣するとしていたため

受入国側の条件として隊員が暮らす家を提供することなっていて

Tonga政府が協力隊員の住居として準備したのが”Government House”

そのGovernment House(FalePuleanga:官舎)のNo.39でしたが

”39=Tolu Hiva” にはどうやらおかしな逸話があるようで

『どこに住んでるの?』と尋ねられ、『39』と答えると

何故だかいつもみんな大笑い

 

オッとその前にTongatapu島と首都Nuku’alofa

その住居と水産局の位置関係をお知らせすると・・・

 

↓これがTongatapu島

Tonga=南 Tapu=俗にいう”タブー”神聖なるって意味


航空写真ではこんな感じ
(因みにMu’aとは英語で言うBeforeで昔という意味、Fa’amotuは飛行場のある場所)

Nuku’alofaを拡大すると↓
 
こちらの中心部で赤いマーカーの場所に私が暮らしていたGovernment Houseがありました。
上の海岸線の左上に写真スポットとその横に丸く写真のマークがある場所が王宮
Government Houseから勤務先である当時の水産局
(Ministry of Aguriculture and Forestry, Fisheries Division)
赤いマーカー位置までは距離にして4.5km バイク(車)で8分



 

その他、市内にはモダンな鉄筋コンクリートにアルミサッシの新築の官舎がありましたが

主に白人(欧米人)向けの家族持ち用で 

1983年以降に初めて理数科教師の女性隊員も派遣されるようになり

彼女達に提供されていました。(ウチのチャンカーもその一人)

 

それまでは、Tongaの協力隊員は初代が昭和47年で農業機械隊員、

その後はずっと水産局派遣のみで

9年目の私が12人目

この家は歴代の水産隊員が引き継いで使っていました。

 

玄関側に屋根付きのベランダがあり

12畳ほどのリビングと6畳ほどのベッドルーム

広いトイレとバスタブのあるシャワールーム

(電気温水ヒーター付きでしたが、これがまた漏電しててスイッチを入れてから水道栓を素手で触ると痺れるため木片で水量を調節と命懸け)

リビングの後ろには勝手口からも入れる

冷蔵庫とプロパンガスのオーブン付きのクッキングコンロのあるキッチンがあり

コンクリート製の雨水タンクのある中庭の後ろには

元女中部屋があり(歴代の日本人が置いていった書籍類や、

1979年にドラマ撮影があり【太陽は沈まず:竹脇無我主演、坂上忍も子役で出演のドラマ】

で使われたゴムボートを協力隊員のレジャー用に買い取ってくれたのでそれらの倉庫にしてました)

↓ 私の家にはBBQ用の網があり、休日に潜って獲ったサザエやその他貝類を焼いてBBQパーティーしてました。

こちら↓は リビングでわざとらしくポーズをとって写真撮影したもの

(日本の家族や当時のGFに様子を知らせようとカッコつけたりして)

 

↓ 手紙を書いている様子

なんせ文字を書くのが大嫌いだったので

私的な手紙以外では 

結局、合計5年弱の活動中、

レポートを書いたのは着任後と任期満了前の2度のみでしたが

(タイプライターは、日本で船会社で働いてた頃から使ってたOlivette。

主に日本のGFへのAir Mailの封筒と造船所へのドックオーダー用に使ってました。)

私の家の敷地にはココナッツの木が数本あり

たわわにココナッツ🥥が実ると毎月頼んでいた芝刈りの子供達にとって持ち帰らせていました。

↓ こちらは、鮪延縄船の乗組員がビールと食べ物を持ち込んできて

懇親会をした時の様子

 

なんせトンガ人、一人で20缶は飲むので大変でした(笑)

 

こちらは、休日王宮前の埠頭で飛び込みする子供達の様子

海に囲まれてるから泳ぎも上手かと思ったら大間違い

ほとんどのトンガ人は、泳ぎは犬かきしかできず

それでも水遊びは大好きで

こうして岸壁から飛び込んでは大騒ぎしてましたねぇ

 

私は、Tongaに派遣されるようになって

毎年、船の整備を徹底して行い、故障や操業中にトラブルを発生させない

とのポリシーで信念を持って活動していたため

 

船を推進させるエンジン(主機)は勿論

発電機や鮪を水揚げまで保存するための冷凍機も

自分たちだけで分解して清掃して組み立ててと

 

鮪延縄船、鰹の一本釣り漁船、鰯用の巻き網船に

小型漁船まで数隻を整備するのが日課となりましたが

実は、着任した直後(約4月後)

日本からODA(政府開発援助)で8年ほど前に供与された鰹の一本釣り漁船の機器が

それまで全く整備されていないのを知って

 

当時の水産局長(イギリス人)に

オーバーホールすると宣言したものの

水産局のEngineering部門の人間は誰も手伝おうとせず

 

たった一人で岸壁に係留されていたその船に乗り込み

黙々とエンジンを分解しはじめたのですが

 

乗組員の一人がスカイライト(機関室の上にある窓)から

何してるんだろうかと覗き込むだけ

 

我慢強く何日も作業を続けていた期間

水産局に部品や工具を取りに戻ると

機械のことなど何も知らない経理のクラークから

「もう何日も船が動かせなくなってるけど、お前は船を壊しに来たのか」と

多くの水産局のスタッフの面前で罵倒された時には

そんな陰口を叩かれてたのかと流石にショックでしたね~

それでもオーバーホールしてエンジンの調子が良くなった船をみて

乗組員からその様子が伝わり

ようやく整備=保守することの大切さを理解して

私の存在が認められるようになりましたが

 

今から思い出してもあの時は辛かったなぁ

 

それまでにも数名の船舶機関の隊員がいたのですが

ほとんどが船外機か小型のディーゼルエンジンを扱う程度で

大型のエンジンは隣国でのドックで造船所任せにしていたのがその原因

 

その鰹一本釣り漁船は

実は、当時あまり実務経験のなかったJICA専門家が

近隣諸国の真似をしたのか

ODAでSamoaと全く同じ鰹一本釣り漁船を供与されたものの

 

トンガの海域には年間を通して鰹が回遊しないうえ

餌のイワシを入手する術がなく

鰹の一本釣りとしてはほとんど使われず

よってドックに入る予算もなく、ほとんど岸壁で係留されてたから

 

運よく、鮪延縄実習船は

それまでは日曜日が憲法で安息日とされ出漁しても

毎週戻ってくるような操業から

日曜日は沖で流して安息日とすることにして

一度出漁したら、食料が無くなるか、搭載している水が無くなるか

または豊漁で魚倉がいっぱいになるまで戻らず

平均1~1.5月の操業となって大成功

(約3月に一度、American SamoaかFijiのLevuka島の缶詰工場で

水揚げと餌の冷凍サンマを積み込み)

 

更に機械の整備を自分たちですることになって

ドック費用も船体の錆落としと塗装

プロペラ軸の抜き出し点検と

ドックでしかできない船底弁の整備程度で

ドック費用が激減

 

約30名ほどの乗組員も

水揚げした収入から燃料費、食糧費、経費を除き

4割(6割は政府が貯蓄)を歩合制で支払われることになり

 

前述のAmerican Samoaでドック入りした頃には

船長・漁労長の収入は国の大臣クラスより高給取りとなっていたこともあって

 

それまで外航商船で機関士をしていた人物が

二等機関士で乗り込んできて、一緒に保守整備をしたところ

とても優秀な人物で経験も責任感も文句なしだったので

水産局長に進言して彼を機関長に昇格させ安泰

(↓右端がその機関長)

とはいえ、なんせ”お山の大将”気質なので

エンジンの整備では相も変わらず親方気取り(笑)

そんな訳で、若干24歳頃にもかかわらず鮪延縄実習船でも一番偉そうにしてました。

 

彼等は高給取りとなっていましたが

私は青年海外協力隊隊員としての手当のみ(月額30,000円程度)

そんな訳で、船が戻ってくると

彼等の家族がご馳走を作り

ビールもOZかNZの缶ビールを何ケースも運んできて

飲めや歌えの大宴会(笑)

 

これは、ある日の出漁を見送りに行った時の記念写真
(服装からしてトンガの冬、8月頃)

(↓ 右から二等機関士、機関員、船長、機関長、私、一等機関士)

そんな風に彼等から年下なのに兄貴分にように信頼して慕ってもらっていたので

 

 

 

見送りにきていた一等機関士と機関長の嫁さんとその子供

暫く夫と会えないから寂しそうでした。

 

こちらは、ドックから半年後

スクリューとプロペラ軸に巻き付いた延縄の枝縄を切断するために

スキューバした時の写真

放置してしまうとドンドン巻きついたワイヤー製の縄がプロペラ軸の軸受に入り込んで痛めてしまうので

ドック入りの間に潜水してロープガードを取り外し

ワイヤーカッターで何十本と絡みついたワイヤーを切らなければならず

水深は浅いものの

ボンベ3本以上連続して潜っていると

窒素酔いしてしまい

上下がわからなくなって

そのまま頭から海の底に沈んでった事も良くありました。(笑)

今から考えるとホントに一生懸命だったんだなぁ

 

ここからは日常の風景など

 

こちらはトンガ警察の交通部署

仲良しの水産局のエンジニアの奥さんが勤務していたため

よくアイスクリームの賄賂を渡しては

酒類の購買許可証を発行してもらってました。

(実際には仲良しだったので、暇潰しに雑談相手してもらってたんだけどね)

 

なんの脈絡もなく

突然ですが、ある日 Joes Hotelで開催されたオカマショー

 

気持ち悪いでしょ~(爆)

 

トンガでは馬も結構飼われていて

日曜日には教会のミサへ行くための交通手段のサリオテと呼ぶ馬車を曳いたり

客船が寄港した時には観光客に乗馬させてたりしていましたが

 

子供を乗せた馬をリーフ内の浅瀬で見かけた時の風景

 

↓ こちらは、着任して約1月後の日本人専門家の送別会での一コマ

同じ水産局に派遣されていたアメリカ平和部隊のブライアン

(私よりも先に着任していましたが年齢は一つ下だったので兄貴ぶってました)

 

こちらがFijiの造船所での入渠風景

鰹一本釣り漁船のTakuoと乗組員

鮪延縄実習船LOFAの乗組員と私

 

これはFijiのLevuka島にある缶詰工場での水揚げ風景

ビンチョウ鮪で缶詰を作っていたので

それ以外の鮪(バチ、イエローフィン他)は冷凍のまま日本に送られてました。

 

 

またまた何の脈絡もなく

トンガのハンディクラフトのひとつ

タパクロス(Tapa Cloth 樹皮布)

カジノキというコウゾと同じ木から皮を剥き

水に浸してから干して乾燥させ

硬い木の上で日長一日、水に浸けては叩いて平たくして布にします

これをキャッサバなのを糊にして張り合わせて大きな布にするのですが

あるときは賭け布団だったりジュータンだったり

お葬式では遺体を包む棺桶替わりになったり

また結婚式やお葬式、行事の時は身体に巻いて正装の衣装などなど

 

我が家には、帰国する時にプレゼントしてくれたタパクロスが

たぶん畳20畳分くらいあるかも(笑)

 

鮪延縄実習船のLOFAには、その後もちょくちょく乗り込んでましたが

正直な話、酒が飲めなくて煙草が吸えなくてディスコがないので

理由をつけては陸のサポートに徹するようにしてました。

 

その後は、Vava’uに遊びに行く時は飛行機を使っていたので

よく空からリーフや島々を眺めてましたが

こちらはTongatapuとVava’uの間にあるHa’api諸島

貿易風で基本的に風向が決まっているため

滑走路もその風に向かうように作らなければならないため

小さなHa’apaiでは東西に一番長いところにギリギリに滑走路が作られていて

飛行機が来る時間になると道路を閉鎖してました。

(赤道直下のNauru島はジェット機も離着陸できる滑走路でしたが

やはり島が小さすぎて普通の国道が真ん中を走ってました)

これはいつの写真だったのかな?

1986年当時の水産局の上層部のスタッフが居るので

たぶん私の送別会のある日の一日だったのかも

青年海外協力隊隊員として最後に帰国した時には

Tongatapu、Vava’u、Ha’apaiと

そこらじゅうで送別会をしてくれましたねぇ

 

これは左端のSiotame Taunaholoという

桜井研次さんを兄のように慕っていた電気エンジニアの家

桜井さんの申請で日本へ研修に送られ、恩人だったので

口を開くといつも”KENJI” ”KENJI”と比較されてばっかでしたが

それくらい恩義を感じていたんだろうなぁ

 

桜井さんが生きてる間に会わせてやりたかったな。。。

 

 

 


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