御霊による自由
Ⅱコリント3:17
当時のコリントは、経済的に繁栄していたものの、道徳観は廃れ、堕落した都市として有名でした。そのような堕落した人々にも神様はみことばを与えられます。みことばに感動しクリスチャンとなったコリントの人々でしたが、堕落した環境と、昔の生き方が足を引っ張り、無数にある律法を守り行うことができず、挫折を繰り返す中で徐々に神様から離れていきました。
そのようなコリント人へ、パウロは手紙を通して「クリスチャンとしての歩み」、「神様中心の生活」について告げています。
罪に定める務めに栄光があるなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。(Ⅱコリント3:9)
罪に定める務めとは、「律法」を表しています。律法は神様のみこころを教える教師としての役割がありますが、すべての人は律法によって罪あるものとされます。しかしイエス・キリストの十字架の贖いにより、私たちはイエス様を信じることで、義(=正しい)とされました。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるとこには自由があります。(Ⅱコリント3:17)
聖書が教える「自由」とは、「思い通りにすること」ではなく、「罪とその先にある死からの自由」を意味します。キリストを信じる信仰によって義とされた私たちは、キリストに目を向け、キリストのうちにいる時、はじめて自由になるのです。
神様が義としてくださるにもかかわらず、自分を罪に定めようとする、他人の、あるいは自らの評価や、批判の声が心を支配してはいないでしょうか。主の御霊による自由とはその思いから守られることです。
今月も、主の御声に耳を傾け、喜んで仕えて参りましょう。