モーセの手を支えたアロンとフル
出エジプト記17:8-13
ヨハネ3:3,5に「人は新しく生まれなければ、神の国に入ることができません。」とあります。先週のメッセージでも引用しましたが、救いとは新生することです。このみことばが具体的に自分自身に実現されているでしょうか。救われているというのなら、新生されているでしょうか。新生とは、神を第一として生きる人生です。
ある金持ちの人がイエス様のところに来て「最も大切な戒めは何でしょうか」と聞きました。イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。私たちは何を第一として歩んでいるでしょうか。自分の欲望ですか。それとも主の御心ですか。自分の欲望や満足を先に立てず、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛し、隣人を自分自身のように愛する生活に徹することが新生されたクリスチャンとしての証しです。
不完全である人間が、完全な真理のみことばによって生きていくためには、新生された生活を目指し、努力していくことが必要です。みことばに対し「アーメン」と告白しても、その次の日にすぐ変えられるのではありません。一日のうちで主との交わりをどのくらい持っているでしょうか。5分、10分さえも時間を聖別せずに、24時間、世のことに心を奪われている現実はないでしょうか。
第2の戒めを祈りに適用すると、ともに祈ることです。祈りは個人的な祈りと一つの体としての祈りがあります。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」人間は交わりのうちにあって、本当の幸せを得ることができます。自分のうちに他の人の居場所を提供していくことによって、他の人の恵みを自分の恵みとして喜ぶことができるのです。エペソ4:13,14「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これは信仰生活の大きな目標と言えます。キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためには、ともに奉仕の働きをし、キリストのからだを建て上げることです。
モーセはイスラエル民族の指導者として、アマレクとの戦いにおいて、神の杖を手に取り丘の頂にのぼって祈りました。モーセが両手を上げているときはイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になりました。偉大な指導者であるモーセであっても、一人で成すことはできませんでした。アロンとフルがモーセの手を支えたことにより、手を上げ続けることができ、イスラエルは勝利を治めました。
物事は一人の力で成されるのではありません。自分一人でできなくても心配する必要はありません。主の御心を忘れず、できることを精一杯努力して成し、主に委ねるならば、主が成し遂げてくださいます。特に教会全体としての目標である宣教のわざにあって、諦めず、ともに励んでいきましょう。
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