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黙示録20:11~15
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「千年の間、底知れぬ所に投げ込まれたサタン」
黙示録 20:1~10
1~3節を要約すると、「御使いによってサタンは底知れぬ所に閉じ込められ、千年王国となる」。サタンがわからない、存在すら信じない人が多い。いつも神を見つめていなければサタンの存在はわからない。悪の根源が分からず、漠然と歩んでいる人が多い。しかしサタンはいつも足元をすくおうと機会を狙っており、そう思うと中途半端なことはできない。神は何故、サタンの存在を許しておられるのか?それは精一杯、忠実に神様に仕えるためである。サタンからの妨害がなく、自分の思うように歩んでいたら問題が生じる。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」(IIペテロ 2:4)サタンの本性は自分の姿、自分の罪を隠そうとすること。サタンは元々は天使であった。サタンは間違ったものを良いものかのように見せて滅びに引きずり込む。黙12:7には天に戦いがあったと記されており、サタンは天から投げ落とされた(黙12:9)。本来、全ては善として作られたが、途中から脱線して悪が生じた。サタンは良いことと悪いこととの見分けがつかないように惑わす。サタンがどのようにして支配しているかは、神を見つめないと分からない。サタンは堕落した天使である。天使が、自分が神になろうとしてサタンになった(イザヤ 14:12~15)。傲慢になりサタンになった。罪ある人間はサタンと同じ属性をもつ。堕落した天使ルシファは、元は天使長であり、ユダも最後の晩餐の席で、12弟子の中では最も偉い人の席についている。サタンはてごわい。
精一杯、信仰生活を送ることが大切。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Iペテロ 4:10)。与えられた賜物を用いて互いに仕え合うこと。何もせずに良い所取りをする考え方はサタンの考え方である。価値を作り出すために賜物が与えられたので、賜物の管理者として、それを用いて互いに益となることが大切。
黙示録は終わりの時に起こることを語っています。マヤ文明の暦によると、2012年12月21日で暦が終わります。この世が終わる事なのか新しい暦が始まる事なのか、とにかく世界は今、ひとつの区切りを迎えようとしているように思われます。
本文11節の「白い馬」がキーワードになります。白=勝利を意味します。(黙示録3:5、7:14)つまりイエス・キリストの十字架の血潮で罪洗いきよめられ、よみに打ち勝ち、勝利を得た者です。今私達は主の御前に白い衣を着ているのでしょうか。
あるひとつの基準に照らし合わせてこそ白い衣か黒い衣かが分かります。終わりの時、精算の時、今までどのように歩んできたかが問われますが、鏡となるべき価値判断の基準が曖昧でないでしょうか。基準がなければ何でも良いという状態になりますが、立てた基準を目指す姿勢を持っている者は社会にあっても実を結びます。
人間の成長段階にもそれぞれの年代に指標となるステップがあります。20代はひとりで自由にチャレンジ出来る時です。結婚するまで自分の地境をどれだけ広げておくか、自分の可能性を広げておくかが大切な時です。しかし、今の青年達は内向きで、チャレンジしようとする意欲を失っています。何があるべき姿なのか、何の為に努力しているのか、自分を見つめて歩んで欲しいと思います。
10代の子ども達は受けるべきものをしっかり受ける、将来のための準備期間です。霊的下のタンクを満たしておくと、困難があっても大丈夫だと自信がわいてきます。子どもの時受けられなくても、大人になってからでも神様に求めれば神様から与えられ、受けるよりも与えるほうが幸いですと言う心境になっていきます。(使徒20:35)
最後に伝道とは「他に益を与える事」です。私達は日々神様の立てられた基準=真理のみことばに従い歩み、「地上に火がもえていたら」と主が言われたように、信仰の歩みをしていきたいものです。