わたしのアートとの出会い物語をお話します。
父は転勤族でした。私の亡羊とする記憶をたどると、4,5歳の幼いわたしの家族は寒い北海道から横浜に越してきました。
移り住んだ家は木造の2階建ての長屋(テラスハウスと表現するとイメージが違うので)で、下は三畳のお部屋と台所とお風呂で2階は六畳のお部屋だけでした。それでも母はお風呂がついていることを喜んでいました。
家の前は大きな産業道路で、今ほど通行量は多くはないものの何台もの車を積んだトレーラーがひっきりなしに通っており、私は目を丸くして眺めていたものです。そしてその通りの向こうは米軍関係の土地でした。天高く見上げるほどの鉄条網を隔ててゆったりしたグリーンが広がっており、その緩やかな丘陵地にぽつんぽつんとカントリーハウスが点在していました。米軍家族の家でした。冬になるとその家の前の大きなクリスマスツリーがきらきらとしているのを路面電車の車窓からみていたことを思い出します。
小さい頃のわたしにも貧しい私たちとお金持ちの外国人という印象はありました。が、私は幸せでした。まだ学校へ上がる年でなく、いつも母と家で過ごしていました。何故か幼稚園には行っていませんでした。青空保育で横綱のごとく大泣きしたからかお金がかかるからかわかりませんが。母は家事に忙しく、わたしは立ち働いている後ろ姿をいつも見ていました。
時々塗り絵や折り紙の相手をしてくれましたが、ひとりで遊んでいた時間が長かったように思います。私はクレヨンを与えられ絵を描いていました。
そのクレヨンは錆びて古びた缶に入っていました。余ったクレヨンを缶に集めたものでした。余ったものだから、黒、茶がほとんどで、そのうえクレヨンどうしがこすれ合い黒に近い色になっており、私は色を塗ろうとするたびに画用紙の下にひいてある古新聞紙にクレヨンをこすりつけ何色かを確かめなければいけませんでした。
しかし、そのこすることは遊びのひとつで嫌ではありませんでした。黒、茶はたくさんだから当たり前の気持ちでしたが、黄色やピンクなど明るい色がでてくると「わあ♡」と楽しくなる、100本近くありそうなクレヨンたちの中で桜色が出てきたときは宝くじにでもあたったような喜びがありました。
私は自分が大好きでそんな自分の気持ちと遊んでいたのです。
その後私たち家族は東京の団地に移り住みました。そこへ引っ越した日は大雨でした。小さい私はその地がしっくりこない気を放っているのを感じました。母と父の夫婦喧嘩の日々と私にとってトラウマになることが起こりはじめました。
今、私はあの貧しくも家族いっしょでほんわかした風の吹くあたたかな地「横浜」でセラピールームを立ち上げることができました。
あの頃の、執着を知らず自分と仲が良かった「わたし」へと。帰ってきました!
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