春を待ちながら


寒さが深まってゆくなか、やっとわかったことがあります。

「豆本に仕立て、未知の読者の前にそっと差し出すことによって、その本を手にする誰かのもとで、さらなる出会いがあることを夢みるのです。豆本が運ぶテクストが、私の手を離れ誰かのもとで芽吹く美しい夢。
 このようにして作られる私の豆本は、喩えてみれば、たねのようなものだと思います。自己表現という完結したかたちではなく、すぐれた作品が見知らぬ人の手に届き、育まれるという豊かな可能性を秘めたたねとして豆本が存在すると信じること。」(『彷書月刊』2008年6月号)

これはかつて私が書いた文章の一部です。
いまも信じているたいせつなこと。
けれども、もっと直接的なかかわりを「誰か」と持ちたいと願うようになったのが去年でした。

父が病気になり、記憶を、体の機能を徐々に失ってゆく姿を目の前にしたとき、「もの」を介した夢が、私の中で色あせてきたような気がします。

今年も、ものづくりはできないかもしれません。
そのかわり、まちの人たちと顔をあわせて行う活動を丁寧に続けてゆきたいと思います。
いまは、出来ることから少しずつ。

あけましておめでとうございます。
どなたにとっても、明るく楽しい一年でありますように…。
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それから


春から、あるいはその前から少しずつ、自分を取り巻く状況と自分の状態とが変化してきました。
もちろん、変わること自体は、ごくありふれたこと(変わらないことこそ、希有なこと)と思いますが、それをどう受けとめるかは、人それぞれ。私にとって、今回のことは、大きなできごとでした。

父が病気になりました。たぶんもう自宅には戻れないと思います。
あるところで途絶えてしまう記憶。
父はいろんなことを、指のすき間から砂がこぼれるように、少しずつ忘れているようです。
そのことをめぐって考えているうちに、私は、自分がやっていることについて、立ち止まって、外側から考える必要を感じました。
そして、そこから派生していろいろなことを、ずいぶん長いこと、うつらうつらと思いめぐらしています。

たとえば、「本」について。

この続きをいつか書けますように。
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