◆2-1.~継体天皇の出生の謎~
ご説明したように、継体天皇は戊申年(528)に享年69歳で崩御されました。従って、生誕は安康天皇治世5年の庚子年(460)になります。余談ですが、『日本書紀』では、雄略天皇は治世23年で崩御されたと記しますが、実際に崩御されたのは、雄略天皇治世21年壬戌年(482)でした。この年は継体天皇23歳の年でもあります。雄略天皇の治世が23年とされるのは、この継体天皇23歳を基にしているものと思います。
話を戻します。『日本書紀』では、継体天皇の出自について、応神天皇5世の孫で彦主人王の子とされ、彦主人王は継体天皇が幼少の頃に亡くなったとされます。一方、『上宮記』の逸文には「凡牟都和希王 ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)」の系譜があります。
ご説明したように、若野毛二俣王の真の名は誉屋別皇子であり、誉津別命(仲哀天皇)と弟姫皇女の間に生まれた皇子です。また、その息子である意富富等王は、大草香皇子と同一人物であると考えられます。では、乎非王と汙斯王(彦主人王)とは一体何者なのでしょうか。ここで、汙斯王の名前に注目してください。「斯」という漢字が使用されていますが、この文字には「バラバラに切り離す」という意味があるとされています。また、「汙」という字は「汗」に似ていますが、実際には「汚」の異体字であり、その意味は「けがす:穢す」を表します。このような意味を持つ名前から、汙斯王の正体は安康天皇を斬殺した眉輪王(目弱王)であると推測されます。
『古事記』では眉輪王が7歳(満6歳)で安康天皇を殺害したと記されています。しかし、実際には父親の大草香皇子が安康天皇に殺害されてから7年後の辛丑年(461)に、眉輪王が父の仇である安康天皇を斬殺したと考えられます。この時、眉輪王はすでに成人していたのでしょう。『日本書紀』によると、眉輪王が父と共に殺害されなかった理由は、母親の中蒂姫命(中磯皇女)の助命嘆願によるものとされています。この背景から、眉輪王は助命時点で成人年齢に達したばかりの13歳頃と考えられます。古代天皇の実年18をご覧下さい。眉輪王が雄略天皇によって殺害された辛丑年(461)は継体天皇が2歳となる年です。世代的な年齢や助命の経緯を考慮すると、この年の眉輪王は19歳頃になるのではないでしょうか。従って、生年は癸未年(443)になります。
江戸時代の写本『神皇正統録』には清寧天皇が允恭天皇32年、癸未年(443)に誕生したと記されています。清寧天皇は飯豊天皇(忍海飯豊青皇女)をモデルとした架空の天皇と考えられますが、癸未年(443)は実際に允恭天皇32歳の年にあたり、『神皇正統録』の記述と一致します。これを踏まえると、癸未年(443)に誕生した実在の皇族がいた可能性があります。それが眉輪王ではないでしょうか。
『学研漢和大辞典 藤堂明保編』より
・「汚」:呉音「ウ」、漢音「オウ」、古訓「クホ・クホカニ(新)・アラフ(図名)・ケカル・ナタラカス(図名・観名)・ケカス(観名)」、字体「【汙】は「汚」の異体字」
・「斯」:呉音・漢音「シ」、古訓「カカル・カク・カクノコトク・ココニ・コトコト・コレ・シハラク・シロシ・ツクス・マタ(観名)」、解字「其(=箕。穀物のゴミなどをより分ける四角い編み籠)+斤(おの)の会意文字で、刃物で箕(み)をバラバラに裂くことを示す。」
◆2-2.~眉輪王の謎~
意富富等王には都紀女加(つきめか)、阿居乃王(あけのみこ)、乎非王(おいのみこ)の三人の皇子がいたとされ、乎非王の息子が汙斯王とされています。意富富等王が大草香皇子と同一人物であると説明しましたが、『記紀』には大草香皇子の皇子として眉輪王のみが記載されており、他の兄弟については言及されていません。そのため、大草香皇子の子は眉輪王一人だけであると考えるのが自然です。汙斯王が眉輪王と同一人物であるとすると、これらの三皇子は一体何者なのでしょうか?
学習院大学名誉教授の黛弘道氏は、乎非王の名前の由来を「忍坂大中姫命の甥であること」だとします。忍坂大中姫命は草香幡梭姫皇女と同一人物であると説明しました。草香幡梭姫皇女は履中天皇との間に中斯姫命(中磯皇女、長田大娘皇女)を儲けています。さらに、この中斯姫命と大草香皇子の息子が眉輪王であるため、忍坂大中姫命(草香幡梭姫皇女)にとって、眉輪王は甥であると同時に孫でもあります。このような複雑な親族関係が背景となり、眉輪王を乎非王と汙斯王に分けて捉え、親子関係にあるとされたのでしょう。
残る都紀女加と阿居乃王についてですが、まず眉輪王(目弱王)や都紀女加という名前がそもそも成立するのか疑問です。『日本書紀』では「眉輪王」、『古事記』では「目弱王」と記されていますが、名前に「弱い」という意味を持たせるとは考えにくいのです。また、都紀女加の名前にも違和感があります。発音や表記を考慮すると、「女」は「目」に、「加」は「下」に表記出来ます。さらに、「下」と「輪」の古訓には共に「イタス」という読みが含まれています。このことから、「女加」はもともと「目加」と表記されていたのではないでしょうか。そして、「目加」が「目下」に転じ、最終的に「目弱」や「眉輪」という表記に変化したものと考えられます。では、「都紀」や「目加」が具体的に何を示しているのかについてですが、その解明の手がかりが、眉輪王が葬られた場所にあるのです。
『学研漢和大辞典 藤堂明保編』より
・「輪」:呉音・漢音「リン」、古訓「ワ(和・観名)・イタス・クルマノワ・メクル(観名)」、名のり「わ」
・「弱」:呉音「ニャク」、漢音「ジャク」、古訓「ハカリ・マサル・ヨハシ(観名)」
・「下」:呉音「ゲ」、漢音「カ」、古訓「(イタス)・イタル・イヤシフ・オル・オロス・カタハラ・クツカヘス・シタ・シタカフ・シモ・シモフト・ソコ・タマフ・タル・ノチ・ノチニ・フモト・ホトコス・マカル・ミシカシ・もと・(ヲツ)・ヲトス(観名)」、名のり「し・じ・した・しも・もと」
◆2-3.~今城塚古墳の謎~
『日本書紀』によると、雄略天皇が円大臣の屋敷に逃げ込んだ黒彦皇子と眉輪王を焼き討ちにした際、坂合部連贄宿禰は亡くなった皇子を抱えたまま共に焼き殺されました。その後、舎人たちは焼け跡から遺骸を収めましたが、骨を区別することができなかったため、一つの棺にまとめて新漢(いまきのあや)の槻本の南の丘に合葬されたと記されています。現在、この場所は、奈良県吉野郡大淀町にある坂合黒彦皇子の墓に治定されていますが、そもそもこの墓は江戸時代に治定されたもので丘ではなく、北方に連なる山の一角にあります。この場所ではないでしょう。では、真の新漢は何処にあるのでしょうか。
『奈良の地名由来辞典』(池田末則著、東京堂出版)によれば、『今来、今城、新漢(いまき・イマキノアヤの略)などと書いた。』と記されており、「新漢」は「いまき」と読み、「今城」と同一だとしています。特に「今城」という表記で著名なのは、大阪府高槻市にある今城塚古墳でしょう。この古墳は外濠を含めた全長が350メートルに達する前方後円墳で、その規模から大王クラスの古墳とされています。二重の濠がもたらす壮麗な佇まいは、この古墳が6世紀前半に築造されたことを物語っています。そのため、この古墳が真の継体天皇陵であるとする説が有力です。また、「今城塚古墳」の「今城」も「いまき」と読めることから、「新漢」との関連性が指摘されます。
今城塚古墳は、北西に位置する奈佐原丘陵から南東の富田台地縁辺部へと傾斜する緩やかな斜面に築造されたもので、元々この地にあった丘を削り築造されたと考えられます。また、北西の奈佐原丘陵と今城塚古墳の間には「岡本町」という地名があり、今城塚古墳はこの岡本町の南側に位置しています。その岡本町と今城塚古墳を含む西部一帯は現在「氷室」と呼ばれていますが、かつては「闘鶏(つげ)」と呼ばれていました。「槻本」の「槻」は、この「闘鶏」が転訛したものと考えられるほか、高槻の「槻」を指している可能性もあります。しかし、『日本書紀』には「槻本の南の丘」と記載されており、「槻」は「たかき」、「丘」は「たかい」と読むことができます。このことから、岡本の前身が槻本であった可能性がある一方で、「丘本」という地名を意図的に「槻本」に改めたとも考えられます。これは、「今城」を「新漢」と表記し直したのと同様に、眉輪王と継体天皇の親子関係を隠蔽する意図があったと推測されます。
例えば、『日本書紀』では、継体天皇を応神天皇の五世の孫と記していますが、実際は仲哀天皇(誉津別命)の四世の孫でした。同書の継体紀には、継体天皇の擁立以前に、丹波国桑田郡から仲哀天皇の五世の孫である倭彦王を迎え、天皇に擁立しようとした記述があります。しかし、倭彦王は迎えに来た兵士たちを自分を捕らえに来た者だと誤解し、山中に身を隠してしまい行方不明となったとされています。この「倭彦王」という名前は「倭彦命」と同名であることから、この逸話は創作である可能性が高いと考えられます。さらに、『日本書紀』では、継体天皇を応神天皇の五世の孫とし、継体天皇と仲哀天皇の関係を意図的に断つ様な記述がみられますが、一方で、この倭彦王の系譜は継体天皇が仲哀天皇の五世の孫であることを示唆しているものと考えられます。
(※大阪府高槻市 今城塚古墳)
◆2-4.~阿居乃王~
さて、槻本の「槻」は「闘鶏」若しくは「高槻」、或いは「丘」が由来であるとしました。また、意富富等王には都紀女加(つきめか)という名前の皇子が記されていますが、この「都紀」は「槻」と同じものを指していると考えられます。では、「女加」とは何を意味するのでしょうか。
今城塚古墳の外濠の西端には、女瀬川(にょぜがわ)が隣接しています。Wikipediaによれば、この川はかつて「如是川」と表記したが、この「如是」という表記は明治時代に生まれたものであり、仏教用語の「如是」に由来するとの説明があります。しかし、私はこの説に異論があります。明治時代には、神仏習合の影響で混乱していた神道を本来の姿に戻すため、神仏分離や廃仏毀釈が行われました。このような背景を考えると、わざわざ仏教由来の漢字を河川名に取り入れるとは考えにくいのです。むしろ、河川の名称は元々の表記に戻された可能性が高いと考えます。従って、明治以前の表記が「如是」であったとする方が妥当ではないでしょうか。
以前に執筆した『大阪にあった元伊勢』において、吹田市の吉志部神社付近を流れる「正雀川」について、元は「井雀川」と表記し、「いすずがわ」と読んでいたとしました。Wikipediaによれば、「正雀川」という表記は明治時代に改められたもので、それ以前は「正尺川」だったと記されています。しかし、私は「正尺川」という表記は室町時代、或いは江戸時代のものであり、さらに遡れば元々は「正雀川」であったと考えています。
正雀川は、大阪府道135号線に沿って流れる川であり、途中、名神高速道路を越えた付近で流路を変え、吉志部神社に向かうように進みます。そして、吉志部神社付近で直角に向きを変え、再び大阪府道135号線に沿って流れる特徴的な流路を持っています。この流路の変化は、過去に人工的に川筋を変更した結果であると考えられます。
一般的には、吉志部神社周辺の田畑への農業用水を確保するために川筋を変えたとの説があります。しかし、大阪府道135号線から吉志部神社までの最も離れた距離はわずか100メートル程度であり、農業用水の確保には小川程度の改修で十分であったはずです。そのため、この大規模な川筋変更は農業目的ではなく、神事のためであった可能性が高いと考えられます。神事に使用するという重要性から、小規模な改修ではなく、川筋を大きく変更する必要が生じたのでしょう。
話を戻します。「女加」の「加」と「如是」の「是」は供に「カク」と読めます。これを踏まえると、古代では「女是」は「女加」と表記されていたのではないでしょうか。今城塚古墳から南へ約5キロほどの地には、目垣(めがき)という町があります。かつての目垣村が町村変更により目垣町になったものです。継体天皇の時代から約1500年が経過した現在とは異なり、古代の女是川の下流は、この辺りを流れていたと考えられます。また、古代では広大な領域を有した村が、人工増加や所領の分割などで区画整理が行われ、現在のような小規模の版図になったとすれば、「女加」は「めがき」であり、「都紀女加」とは「闘鶏(槻)の目垣」を指し、地名であった可能性が高いのです。
この説を裏付ける証拠として、「都紀女加」には「王」の称号が付けられていません。従って、「都紀女加」は、列記されている阿居乃王の所領、あるいはその居住地を指す名称だと考えられます。一方、『日本書紀』に記される継体天皇陵の名称は「藍野陵」ですが、この名称は「阿居乃王」の名前と一致します。元々ここに葬埋葬されていたのが阿居乃王であったため、「藍野陵」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
現在、今城塚古墳が所在する一帯は、古代より「藍野」と呼ばれていました。しかし、『日本書紀』では、今城塚古墳より約1世紀前に築造されたとされる太田茶臼山古墳(継体天皇陵治定)について何も言及されていません。この古墳は同じ藍野の地にあるにもかかわらず、「太田」という地名で呼ばれる場所にあります。墳丘長では今城塚古墳を凌駕するほどの規模を持つにもかかわらず、その周辺には藍野の名を冠していないのです。
この「太田」という地名の由来は、古墳の被葬者が継体天皇の祖父、大草香皇子(意富富等王)であり、その名前の「意富富等」が訛化して「太田」になったと考えられます。同様に、「藍野陵」は、元々の被葬者が「阿居乃王」であったことに由来するのではないでしょうか。これらの点を踏まえると、眉輪王の本名は「阿居乃王」であったと考えられます。
『学研漢和大辞典 藤堂明保編』より
・「加」:呉音「ケ」、漢音「カ」、古訓「カカル・カク・クハフ・ソヘモノ・マサル・マスマタ(観名)」、名のり「ます・また」
・「是」:呉音「ゼ」、漢音「シ」、、古訓「カカルコト・(カクノコトキ)・カクノコトク・ココニ・(コトハリ)・コトハル・コレ・スナハチ・タツ・ナホシ・ヨシ(観名)」、名のり「これ・すなお・ただし・つな・ゆき・よし」
◆2-5.~宣化天皇陵の謎~
『日本書紀』に記される眉輪王の陵墓の所在地を示す地名は、今城塚古墳の所在地と一致しています。これに基づき、今城塚古墳は眉輪王の陵墓を再築したものと考えられます。近年の発掘調査では、この古墳から三つの棺が発見されており、『日本書紀』の記述を踏まえると、そのうちの一つが眉輪王(阿居乃王)の棺であると推測されます。幼少期に父を亡くした継体天皇は、父が眠る棺のそばに埋葬されることを望んだのではないでしょうか。
では、もう一つの棺には誰が眠っているのでしょうか。おそらく、眉輪王の母である中蒂姫命(中磯皇女)ではないでしょうか。眉輪王の変の後、中蒂姫命は『記紀』には登場しなくなります。また、『上宮記』では彼女の名を「中斯知命」と表記します。「斯」という字には「ばらばらに切り離す」という意味があるため、中蒂姫命は眉輪王の仇討ちに関与したと考えられ、その結果、眉輪王と共に処刑され、遺体も同じ墓に埋葬されたのではないでしょうか。
さて、『日本書紀』によると、安閑天皇の陵墓は古市高野丘陵に所在するとされています。この古墳から出土した円筒埴輪の様式から、築造年代は6世紀初頭と推定されています。また、『古事記』には、天皇が古市の高屋村に葬られたと記されており、『日本書紀』では、古市高野丘陵に皇后の春日山田皇女と、その妹の神前皇女も合葬されたと伝えられています。しかしながら、室町時代に畠山氏がこの古墳を中心に高屋城を築城した影響で、墳丘は大きく破壊されてしまいました。築造年代や記述されている地名から考えても、この古墳が安閑天皇の古市高野丘陵であることに間違いはないでしょう。しかし、問題は次に挙げる宣化天皇の陵墓にあります。
(※大阪府羽曳野市古市 高屋築山古墳(安閑天皇陵治定))
『日本書紀』には、宣化天皇が皇后の橘皇女とその孺子とともに身狭桃花鳥坂上陵に合葬されたと記されています。しかし、一方の『古事記』には宣化天皇の陵墓に関する明記がありません。「身狭桃花鳥坂」という地名は、綏靖天皇の桃花鳥田丘上陵や倭彦命の身狭桃花鳥坂墓と共通していますが、この周辺には、6世紀前半に築造された天皇陵に匹敵する規模の古墳は存在しません。では、真の宣化天皇陵はどこにあるのでしょうか。
6世紀前半に築造された天皇陵に匹敵する規模の古墳として考えられるのが、現在、清寧天皇陵に治定されている白髪山古墳(河内坂門原陵)です。この古墳は6世紀前半の築造とされており、安閑天皇陵である古市高野丘陵の真西、約700メートルの距離に位置しています。また、安閑天皇の崩御から4年後に宣化天皇が崩御したことを考慮すると、安閑天皇陵の築造に従事した人夫たちを移動させず、引き続き白髪山古墳の築造に従事させたと考えられます。宣化天皇陵の所在が不明である理由は、清寧天皇が架空の天皇であり、その挿入によって後の天皇陵の所在に混乱が生じたためと思います。
(※大阪府羽曳野市 白髪山古墳(清寧天皇陵治定)真の宣化天皇陵)
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