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皇朝繙史

古代天皇の治世をデータ化、実際の生没年を割り出しました。
アマチュア歴史研究家 田代禎史著

虚蝉編◆第三章.~敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇~

2025-02-06 19:10:46 | 歴史

◆3-1.~敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の実年~
 『日本書紀』で継体天皇の崩年の根拠とする『百済本記』には『25年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城(コットクノサシ)を造った。この月、高麗はその王、安を弑した。また聞くとこによると、日本の天皇及び皇太子、皇子がみな死んでしまった。』と記されていますが、文中に登場する「25年」は崇峻天皇25歳の年を示すものだとしました。先ずはこの根拠について解説します。


 『日本書紀』によると、欽明天皇が崩御された翌年、壬辰年(572)4月3日に敏達天皇が即位され、同年を治世元年とし、治世14年・乙巳年(585)8月15日に崩御されました。同年9月5日に用明天皇が即位され、翌年を治世元年とされましたが、治世2年・丁未年(587)4月9日に崩御となり、直後に起きた丁未の乱を経て、同年8月2日に崇峻天皇が即位されました。崇峻天皇は翌年の戊申年(588)を治世元年とされたのですが、治世5年・壬子年(592)11月3日に蘇我馬子によって弑し奉られました。その後、翌月12月8日に推古天皇が即位され、翌年を治世元年とし、治世36年・戊子年(628)2月7日に享年75歳で崩御されたと記されています。

 一方、『古事記』では、敏達天皇は辛卯年(571)を治世元年とし、治世14年・甲辰年(584)4月6日に崩御されたと記し、用明天皇は乙巳年(585)を治世元年とし、治世3年・丁未年(587)4月15日に崩御されたとします。また、崇峻天皇は己酉年(589)を治世元年とし、治世4年・壬子年(592)11月13日に崩御されたと記されています。さらに、推古天皇は壬子年(592)を治世元年とし、治世37年・戊子年(628)3月15日に享年76歳で崩御されたとなっています。

 さらに、『神皇正統録』では、欽明天皇が崩御された辛卯年(571)に敏達天皇が即位されたと記されており、翌年の壬辰年(572)を治世元年とし、治世14年・乙巳年(585)8月15日に享年62歳で崩御されたとあります。また、同年9月5日に即位された用明天皇は、治世2年・丁未年(587)4月9日に享年41歳で崩御となり、同年7月に聖徳太子が物部守屋を誅したと記されています。続いて、同年8月2日に即位された崇峻天皇は、翌年の戊申年(588)を治世元年とし、治世5年・壬子年(592)11月3日に蘇我馬子によって弑逆されたと記されています。さらに、同年12月8日に即位された推古天皇は、翌年の癸丑年(593)を治世元年とし、治世36年・戊子年(628)3月7日に享年76歳で崩御されたと記されているのです。


 お気づきのように、『古事記』には各天皇の即位の年が記載されていません。一方で、『日本書紀』と『神皇正統録』は、欽明天皇崩御の年と敏達天皇即位の年に関する記述に違いが見られるものの、それ以外の点ではほぼ一致しており、いずれの記録においても先代天皇の崩御した年に次代天皇が即位しています。しかし、『古事記』では用明天皇崩御の年を丁未年(587)、崇峻天皇の治世元年を己酉年(589年)と記していることから、用明天皇崩御の翌年、戊申年(588)に崇峻天皇が即位したと考えられます。


 さて、敏達天皇の治世については、『日本書紀』『古事記』『神皇正統録』のいずれの書も14年と記しており、敏達天皇が治世14年で崩御したことは確実です。しかし、『日本書紀』では、辛卯年(571)を欽明天皇の崩年とし、翌年の壬辰年(572)に敏達天皇が即位されたと記します。一方、『神皇正統録』では、欽明天皇の崩年を辛卯年(571)とする点は『日本書紀』と一致しますが、欽明天皇が崩御された年に敏達天皇が即位し、翌年の壬辰年(572)を治世元年としているのです。これは、敏達天皇が即位した後の年代を『日本書紀』に合わせる意図があったと考えられます。また、『古事記』には、欽明天皇の崩年や敏達天皇即位の年に関する記述はありませんが、辛卯年(571)を敏達天皇の治世元年としており、欽明天皇が辛卯年(571)に崩御したことが確実である以上、『古事記』における敏達天皇即位の年も治世元年と同年であったと考えられます。

 つまり、『古事記』は『神皇正統録』と同様に、欽明天皇の崩御と敏達天皇の即位を同年とする立場をとっており、これに対し『日本書紀』のみが異なる見解を示しているのです。では、どちらの説が正しいのでしょうか。私は前者が妥当であると考えます。その理由は、欽明天皇の父・継体天皇が、長兄・安閑天皇に譲位したという先例に倣い、欽明天皇自身も敏達天皇に譲位したと考えられるためです。従って、敏達天皇即位の年は欽明天皇が崩御された年と同じく、辛卯年(571)だったのです。



 次に用明天皇について考察します。『日本書紀』、『古事記』、『神皇正統録』のいずれの書も、用明天皇の崩年を丁未年(587)としています。しかし、『日本書紀』と『神皇正統録』が用明天皇の治世を2年とするのに対し、『古事記』では3年としています。敏達天皇の即位が辛卯年(571)であった場合、敏達天皇が崩御された治世14年は甲辰年(584)になります。同年に用明天皇が即位し、翌年を治世元年とするため、治世2年の場合、崩年は丙午年(586)、治世3年だと丁未年(587)になります。この用明天皇の崩年に関する謎を解く鍵となるのが、法隆寺金堂薬師如来像の光背銘です。


 法隆寺金堂薬師如来像の光背銘には、「池邊大宮で天下を治めし天皇(用明天皇)が大御身を勞賜いたずきたまいしとき、ほしは丙午年にやどる。大王天皇(後の推古天皇)と太子(厩戸皇子)を召し、而して誓願を賜う。我が大御の病を太平ならんと坐して欲す。故に将に寺を造りて、薬師像を作らんと詔を奉じつかまつる。然れども、時に當て崩し賜い、造りへず。小治田大宮で天下を治めし大王天皇及び、東宮聖王(厩戸皇子)が大命を受け賜り、而して歳は丁卯年に次りて奉じ仕った。」と記されており、簡単に訳すと、大病を患った用明天皇が丙午年(586)に炊屋姫尊(後の推古天皇)と厩戸皇子を召し、病気平癒を願って寺の建立と仏像の製作を詔したものの、直後に用明天皇が崩御され、寺の建立と仏像の製作は果たせなかった。推古天皇と厩戸皇子は大命(詔)を受け賜り、丁卯年(607)に寺の建立(法隆寺)と仏像(薬師如来像)の製作が完成したのです。


 一般に用明天皇の崩年は丁未年(587)とされており、詔が出された丙午年(586)は前年になります。ここで、銘文にある「時に當て」に注目してください。この表現を「当時」と訳す解釈もありますが、「詔を奉じ仕る。然れども、当時崩し賜い」とすると、前後の文章のつながりが悪く、「時に當て」の意味が不明瞭になります。「時に當て」は直訳すると「この時に差し当たって」になりますが、「差し当たって」は「直面して」という意味を持つため、「時に當て」は「この時に直面して」となり、すなわち「この直後」と解釈できます。従って、詔が発せられた翌年に崩御したとすると、「この直後」とは言えず、光背銘文の記述と矛盾することになります。よって、用明天皇は治世2年、すなわち丙午年(586)に詔を発した直後に崩御したと考えられます。



 ところが、『古事記』では崇峻天皇の治世元年を己酉年(589)と記しているのです。仮に前年の戊申年(588)に崇峻天皇が即位したとすれば、用明天皇が丙午年(586)に崩御された後、空位1年を置いて戊申年(588)に崇峻天皇が即位したとなります。しかし、丁未年(587)には物部守屋と蘇我馬子の戦乱が発生したことが確実であり、その直後に崇峻天皇が即位したと考えられるため、崇峻天皇の即位年は丁未年(587)であることに疑いはありません。この矛盾の答えは、崇峻天皇の治世にあります。『日本書紀』では崇峻天皇の治世を5年とする一方、『古事記』では4年とするのです。

 『日本書紀』によると、崇峻天皇は丁未年(587)に即位し、翌年の戊申年(588)を治世元年とし、治世5年、壬子年(592)に弑逆されたと記されています。一方、『古事記』では、崇峻天皇の治世元年を己酉年(589)とし、治世4年、壬子年(592)に弑逆されたと記されています。いずれの史料においても崇峻天皇の崩年を壬子年(592)としていますが、崇峻天皇が丁未年(587)に即位したことは確実であるため、『日本書紀』の記述に従えば、翌年の戊申年(588)が治世元年となります。一方、『古事記』の「治世4年」という記述を基に計算すると、弑逆の年は年は辛亥年(591)となります。

  では、崇峻天皇の崩御は辛亥年(591)と壬子年(592)のどちらが正しいのでしょうか。この謎を解く鍵となるのが、推古天皇の享年と治世です。
 『日本書紀』によれば、推古天皇は治世36年・享年75歳で崩御されたと記されています。一方、『古事記』では治世37年・享年76歳、『神皇正統録』では治世36年・享年76歳と記されています。いずれの史料も推古天皇の崩御を戊子年(628)とする点では一致していますが、『古事記』と『神皇正統録』では享年を76歳としているため、それに基づくと生年は癸酉年(533)となります。


『古事記』によると、推古天皇は治世37年・享年76歳で戊子年(628)に崩御されたと記されています。一方、『日本書紀』の推古紀には、推古天皇が39歳で即位したとあります。『古事記』の享年に基づけば、推古天皇が39歳となるのは辛亥年(591)です。さらに、『古事記』では推古天皇の治世を37年とするため、壬子年(592)が治世元年となります。従って、推古天皇が即位したのは前年の辛亥年(591)と考えられ、『日本書紀』の「推古天皇即位時39歳」との記述とも一致します。ところが、『日本書紀』では崇峻天皇が弑逆された年と推古天皇が即位した年を同年とするため、これに基づけば崇峻天皇の崩御が辛亥年(591)となり、『記紀』に記される崇峻天皇の崩年と矛盾するのです。

 しかしながら、『古事記』では崇峻天皇の治世を4年と記しており、崇峻天皇の崩御が辛亥年(591)であるとすれば、その治世元年は戊申年(588)となります。一方、『日本書紀』や『神皇正統録』では、崇峻天皇が即位した翌年を治世元年としているため、この記述に従うと、崇峻天皇が即位されたのは前年の丁未年(587)であり、丁未の乱の直後に崇峻天皇が即位したとする史実と一致するのです。この場合、『日本書紀』で崇峻天皇の治世を5年とするのは、即位した年を治世元年として数えたためと考えられます。一方、『古事記』で治世を4年としているのは、用明天皇が崩御した丙午年(586)4月から、崇峻天皇が即位した翌年の丁未年(587)8月までの空位期間を、用明天皇の治世に含めたためと考えられます。その証拠に、『日本書紀』や『神皇正統録』では用明天皇の治世を2年とするのに対し、『古事記』では3年としています。この違いが崇峻天皇の治世が4年とされた要因であると考えられます。従って、崇峻天皇は用明天皇が崩御された翌年、丁未年(587)に即位し、辛亥年(591)に崩御されたのです。



 用明天皇崩御の翌年・丁未年(587)に崇峻天皇が即位された。このことを裏付けると思われる記述があります。『日本書紀』によると、用明天皇2年・丁未年(587)の6月に百済国からの使者が来朝し、その際、蘇我馬子は「尼僧たちを百済に渡らせ、受戒の法を学ばせてほしい」と要請しました。これに対し、百済の使者は「一度帰国して百済王に伝えた後、改めて対応するのがよいでしょう」と答えたとされています。一方で、翌年の崇峻天皇元年にも百済の使節が来朝し、蘇我馬子が再び受戒の法を請い、善信尼らを百済に派遣したと伝えられているのです。

 『日本書紀』の記述に従えば、百済の使節が2年連続で来朝したことになります。しかし、渡航や準備には相応の時間と費用がかかるため、短期間での派遣は容易ではありません。さらに、数名の尼僧のために莫大な費用をかけ、翌年も使節を派遣するとは考えにくく、そのまま連れ帰る方が合理的でしょう。

 『日本書紀』では、用明天皇が崩御された年を用明天皇2年・丁未年(587)4月9日としていますが、実際には前年の丙午年(586)に崩御し、翌年8月に崇峻天皇が即位するまで空位でした。従って、『日本書紀』の記述は、丁未年(587)の来朝記録を用明天皇と崇峻天皇の治世に分けて記述したものと考えられます。その証拠に、『日本書紀』の用明紀では、百済の使節が来朝した時期を丁未年(587)6月と月まで明記しているのに対し、崇峻紀では「来朝した」とあるのみで月の記載がありません。また、『日本書紀』の記述に従えば、崇峻天皇が即位したのは8月であるため、百済の使節が来朝したのはそれ以降となります。旧暦の8月は現在の10月初旬に相当し、海が荒れる冬季に入ります。この時期の渡航は困難であり、百済の使節が実際に来朝したとは考えにくいでしょう。

 一方、崇峻天皇の崩年となった崇峻天皇5年が辛亥年(591)であることを裏付けるものがあります。『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)の建立は丁未の乱における蘇我馬子の発願により、崇峻天皇元年に飛鳥衣縫造の先祖、樹葉の家を壊して飛鳥の真神原と名付けたことに始まり、崇峻天皇5年の壬子年(592)に仏殿と歩廊の起工式が行われたと記されています。ところが、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘には、次のように刻まれているのです。

 「法興の元より三十一年、ほしは辛巳の十二月にやどる。鬼前きさき太后、崩ず。明年の正月二十二日、上宮法皇、病に枕み、こころよからず。干食王后かしわでのおおきみ、以てやまいいたずしたがい 並びて床にく 時に王后、王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒うれいを懐きて、共に相発願す。仰ぎて三宝に依りて、當に尺寸王身の釈像を造る。此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らん。二月二十一日癸酉、王后が世におもむく。翌日、法皇はるかに登る。癸未年三月中、願いの如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を造り竟る。…省略」

 文頭にある「法興の元より三十一年」とは、法興寺の起工から31年目を意味します。従って、「法興の元より三十一年、歳は辛巳の十二月に次る。鬼前太后、崩ず。」は、「法興寺の起工から31年目にあたる辛巳年(621)12月に、鬼前太后(穴穂部間人皇女)が崩御した」と解釈されます。
 辛巳年(621)の31年前は辛亥年(591)にあたり、『日本書紀』では崇峻天皇4年とされていますが、実際には『日本書紀』の崇峻天皇5年、『古事記』の崇峻天皇4年に相当します。その『日本書紀』では崇峻天皇5年10月に「大法興寺(飛鳥寺)の仏堂と歩廊を起工した」と記録されており、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘の記録と一致します。従って、崇峻天皇は辛亥年(591)に崩御されたのです。なお、「鬼前太后」の「鬼前」は「きさき」と読み、「妃」の漢字を万葉仮名風に表記したものです。銘文は全体が14行14列に規則正しく配置されており、「妃」を使用すると一字減って構成が崩れるため、意図的に「鬼前」と表記したのでしょう。


 以上の結果、敏達天皇は欽明天皇崩御の辛卯年(571)に即位し、治世14年・甲辰年(584)に崩御。同年、用明天皇が即位され、翌年を治世元年として治世2年・丙午年(586)4月に崩御。その後、丁未年(587)の丁未の乱を経て8月に崇峻天皇が即位、同年を治世元年として治世5年・辛亥年(591)11月に崩御。翌12月に推古天皇が即位され、翌年を治世元年として治世37年・戊子年(628)に崩御されたのです。
 実際に継体天皇が崩御されたのは治世22年の戊申年(528)でした。『日本書紀』が継体天皇の崩年の根拠とする「25年(辛亥年)、日本の天皇及び皇太子、皇子がみな死んでしまった。」という記述は、60年後の辛亥年(591)の出来事を反映したものであり、「25年」という記述は、継体天皇の在位年数ではなく、崇峻天皇の享年を指していると考えられます。従って、崇峻天皇は丁亥年(567)に誕生し、丁未年(587)に21歳で即位、治世5年・辛亥年(591)に25歳で崩御されたのです。

 補足しますが、『日本書紀』によれば、用明天皇が4月に崩御した後、6月に物部守屋と蘇我馬子の乱が勃発し、7月に終息したと記されています。しかし、大阪や奈良を舞台に、国を二分するような大規模な戦いの準備が、用明天皇崩御後わずか1カ月の間に整うものでしょうか。兵や武具の調達、兵站の確保、陣地や砦の設置、資材の準備などを考えると、長期的な準備が不可欠であり、短期間で実現することは困難です。もし用明天皇の生存中に準備を進めていれば、当然ながら反逆者として処罰されたでしょう。また、『日本書紀』には、物部守屋が穴穂部皇子を天皇に擁立しようとしたものの失敗したと記されており、この擁立が失敗した段階で、守屋は戦を決意したと考えられます。このことを踏まえて『日本書紀』の日程に従えば、戦の準備期間はさらに短縮され、十分な準備が整う前に戦闘が始まったことになります。従って、実際には戦乱が勃発するまでに1年以上を要したと考えるのが妥当でしょう。






◆3-2.~敏達天皇~
 『日本書紀』によれば、訳語田皇子(敏達天皇)は欽明天皇崩御の翌年である壬辰年(572)4月3日に即位し、治世14年8月15日に崩御したと記されています。従って、崩御の年は乙巳年(585)となります。一方、『古事記』では、敏達天皇の崩年を甲辰年(584)4月6日と記しています。
 実際には、辛卯年(571)4月3日に欽明天皇が敏達天皇に譲位し、その後まもなく崩御したと考えられます。これを裏付けるように、『神皇正統録』では敏達天皇即位の年を欽明天皇の崩年と同じ辛卯年(571)4月としますが、具体的な日付は記されていません。また、『神皇正統録』では、敏達天皇即位以後の年代を『日本書紀』に合わせるように、治世元年を翌年の壬辰年(572)としています。
 もし敏達天皇の治世元年が辛卯年(571)であった場合、崩年も1年繰り上がり、甲辰年(584)となります。これは『古事記』に記されている敏達天皇の崩年と一致します。さらに、『古事記』が敏達天皇が崩御した日を4月6日とするのは、欽明天皇が崩御された日と混同しているのかも知れません。


 敏達天皇(訳語田皇子)の享年については諸書で異なる記録が残されています。『扶桑略記』と『水鏡』では24歳、『愚管抄』では37歳、『皇代記』と『簾中抄』では48歳、『神皇正統記』と『仁寿鏡』では61歳とされています。このように享年が不確定である中、敏達天皇の生没年を知る手掛かりとなる記述が『日本書紀』にあります。

 『日本書紀』の欽明紀によれば、欽明天皇13年4月に箭田珠勝大兄皇子が薨去し、欽明天皇15年1月7日に訳語田皇子(後の敏達天皇)が立太子したと記されています。一方で敏達紀には、欽明天皇29年に訳語田皇子が立太子されたとの記述があります。この「欽明天皇29年」を「欽明天皇29歳の年」と解釈すると、丁巳年(537)が該当します。敏達天皇が誕生したのはこの年ではないでしょうか。この年が敏達天皇の生年だとすると、崩年の甲辰年(584)は48歳にあたります。これは『皇代記』や『簾中抄』の享年48歳の記録と一致します。また、丁巳年(537)は安閑天皇37歳の年でもあります。従って、『愚管抄』が伝える敏達天皇の享年37歳は、実際には敏達天皇ではなく安閑天皇が37歳となる年を指していたのであり、安閑天皇37歳の年である丁巳年(537)に敏達天皇が生まれたとの記録が、誤って伝わったものと思います。

 以上の結果、敏達天皇は欽明天皇29歳の年にあたる欽明天皇6年丁巳年(537)に誕生、欽明天皇15年丙寅年(546)に10歳で立太子、辛卯年(571)4月3日、欽明天皇の譲位により即位、敏達天皇14年甲辰年(584)に享年48歳で崩御されたのです。


(※ 大阪府南河内郡太子町 敏達天皇河内磯長中尾陵)




◆3-3.~用明天皇~
 『日本書紀』によれば、推古天皇は18歳で異母兄の敏達天皇の皇后となり、34歳の年に敏達天皇が崩御、崇峻天皇が弑逆された翌月、崇峻天皇5年12月8日に39歳で即位、享年75歳で崩御されたと記されています。『日本書紀』の記述に従えば、壬子年(592)が推古天皇即位の年となりますが、『日本書紀』は欽明天皇崩御の翌年を敏達天皇即位の年とするため、それ以降の年代が実際より1年後倒しにされて記述されています。従って、実際に推古天皇が即位したのは辛亥年(591)となります。この年の推古天皇が39歳にあたることから、5年前の34歳の年に崩御したのは敏達天皇ではなく、用明天皇であると考えられます。これにより、用明天皇は丙午年(586)に崩御されたと判ります。

 しかしながら、『記紀』には用明天皇の生年や享年に関する記述がありません。『記紀』以外の文献だと、『水鏡』では享年36歳とし、『神皇正統記』・『神皇正統録』・『和漢合符』・『如是院年代記』では41歳、『東寺王代記』・『仁寿鏡』では48歳、『皇代記(鴨脚本)』では67歳、『皇年代略記』・『興福寺略年代記』では69歳と伝えられています。用明天皇は兄の敏達天皇が享年48歳で崩御された年に即位しており、その翌々年に崩御されたことを考慮すると、用明天皇の享年が49歳を超えることはないでしょう。また、用明天皇は推古天皇の実兄であるため、用明天皇の享年は35歳以上であったと考えられます。従って、用明天皇の享年は35歳以上49歳以下となります。さらに、用明天皇の長子である田目皇子は、用明天皇崩御の後に皇后の穴穂部間人皇女(厩戸皇子〈聖徳太子〉の母)と婚姻したため、用明天皇の享年が『水鏡』に記される36歳であったとすると、田目皇子と厩戸皇子の年齢差は4歳ほどとなります。田目皇子と穴穂部間人皇女の婚姻を考慮すると、用明天皇の享年が36歳では無理があると思います。

 『記紀』によれば、用明天皇の母・蘇我堅塩媛は七男六女を生んだとされています。このうち推古天皇は享年76歳で戊子年(628)に崩御されたため、生年は癸酉年(553)になります。推古天皇は蘇我堅塩媛の第四子とされており、父・欽明天皇の崩年が辛卯年(571)であることを踏まえると、推古天皇の誕生後の19年間に蘇我堅塩媛は9名の子を出産したことになります。もし用明天皇の享年が48歳であれば、推古天皇との年齢差は15歳となります。この場合、蘇我堅塩媛は用明天皇を出産した後の15年間に3名、推古天皇出産後の19年間に9名を出産したことになり、推古天皇の誕生を境に出産ペースが急激に増加することになります。これはやや不自然であることから用明天皇と推古天皇の年齢差はもう少し近かったと考えられます。

 仮に用明天皇の享年が41歳であったとすると、生年は丙寅年(546)となります。この場合、蘇我堅塩媛は用明天皇を出産した後、欽明天皇が崩御されるまで、ほぼ1年おきに出産していたことになり、不自然さはありません。しかし、用明天皇が即位した理由が敏達天皇と年齢が近かったためであると考えるならば、用明天皇の享年は48歳の方が妥当であると考えられます。

 『神皇正統録』では、用明天皇の享年を41歳とし、生年を欽明天皇8年・丁卯年(547)としています。この年は欽明天皇が39歳の年にあたり、干支と治世の関係は『日本書紀』の記述と一致します。しかし、この年を用明天皇の生年とすると、実際の崩年と考えられる丙午年(586)時点では40歳となり、享年41歳とする『神皇正統録』の記録と矛盾します。この矛盾の原因は、欽明天皇が即位した年の誤認にあると考えられます。実際の欽明天皇即位の年は壬子年(532)であり、欽明天皇8年は己未年(539)です。この年は安閑天皇39歳の年でもあります。この年が用明天皇の生年だとすると、実際の崩年と考えられる丙午年(586)時点では48歳となります。これは『東寺王代記』や『仁寿鏡』に記す用明天皇の享年48歳と一致します。一方、用明天皇の崩年を丁未年(587)とする場合、享年は49歳となり記述と矛盾するのです。従って、用明天皇は丙午年(586)に享年48歳で崩御されたと考えられます。ただし、この場合、先述したように蘇我堅塩媛の出産記録に不自然な点が生じることになります。


 欽明天皇は、先の皇后である石姫皇女との間に二男一女、倉稚綾姫皇女との間に一男、日影皇女との間に一男、蘇我堅塩媛以外の妃との間に七男六女、蘇我小姉君との間に四男一女、さらに糠子との間に一男一女をもうけたとされています。しかし、他の妃と比べて蘇我堅塩媛が生んだ子供の数が際立って多いことが指摘されます。実際には、これほど多くはなかったのではないでしょうか。『日本書紀』では、蘇我小姉君が生んだ子供の順番が書によって異なっており、記録に混乱が見られます。また、欽明天皇の子女には、他の系譜が混在している可能性や、名前の重複が見られます。

 例えば、蘇我小姉君が生んだとされる茨城皇子は、厩戸皇子の孫である葛城王と同名であり、蘇我堅塩媛が生んだ山背皇子は、厩戸皇子の息子である山背大兄皇子と同じ名前です。さらに、倉稚綾姫皇女が生んだ石上皇子と、蘇我堅塩媛が生んだ石上部皇子の名前も酷似しています。また、春日日抓臣の娘・糠子が生んだとされる春日山田皇女は、仁賢天皇の妃である和珥臣日爪の娘・糠君娘が生んだ春日山田皇女の系譜が、欽明天皇の系譜に混入したものと考えられます。同様に、糠子の息子である橘麻呂皇子(麻呂古王)と、蘇我堅塩媛の息子である椀子皇子(麻呂古王)も、同じ名前を持っています。

 このように、欽明天皇の子女には、他の系譜との混同や名前の重複、出生順の混乱が見られます。さらに、子供の数が多いことから、本来は同一人物であった者が別人として記録された可能性も考えられます。特に、蘇我堅塩媛が生んだとされる子供の数は、他の妃と比べて3〜4倍と極めて多いため、実際には記録上の数より少なく、五名程度であったと思います。


 ところで、法隆寺金堂薬師如来像の光背銘には、用明天皇が寺の建立と仏像の製作を要請した詔が、推古天皇と厩戸皇子に引き継がれ、丁卯年(607)に完成したことが記されています。用明天皇の生年を欽明天皇8年己未年(539)とすると、享年は48歳になりますが、寺の建立と仏像の製作が完成した丁卯年(607)は、用明天皇69歳の年にあたります。『皇年代略記』や『興福寺略年代記』では、用明天皇の享年を69歳と伝えていますが、これは丁卯年(607)に寺の建立と仏像の製作が完成したという事実が誤って用明天皇の享年として伝えられたのでしょう。

 以上の結果、用明天皇は欽明天皇8年(539)に誕生し、甲辰年(584)に46歳で即位、翌年を治世元年とし、治世2年、丙午年(586)に享年48歳で崩御されたのです。



 



(※大阪府南河内郡太子町 用明天皇河内磯長原陵)




◆3-4.~崇峻天皇~
 『記紀』には崇峻天皇の生没年や享年に関する記述はありません。しかし、『神皇正統記』には崇峻天皇の享年を72歳と記されています。この記述を基に逆算すると、崇峻天皇が崩御した辛亥年(591)の72年前は庚子年(520)にあたり、継体天皇61歳の年でもあります。一方、庚子年(520)から67年後は、用明天皇が崩御した丙午年(586)にあたり、『皇代記(鴨脚本)』に記されている用明天皇の享年67歳と一致します。従って、『神皇正統記』や『仁寿鏡』に記されている敏達天皇の享年61歳は、もともと「敏達天皇は継体天皇が61歳の年に生まれた」と伝わっていたものが、後に敏達天皇自身の享年として誤認されたと考えられます。但し、継体天皇61歳の年、すなわち継体天皇14年・庚子年(520)に関する記事は『記紀』には欠落しているため、なぜこの年が特に重要視されたのかは不明です。

 
 さて、崇峻天皇が即位する直前に起きた丁未の乱では、穴穂部皇子とともに宅部皇子も殺害されています。『日本書紀』によると、宅部皇子は宣化天皇の皇子であり、上女王の父とされていますが、その詳細は不明です。また、穴穂部皇子と親しかったために蘇我馬子によって殺害されたと記されています。もし宅部皇子が宣化天皇の皇子であるとすれば、薨去時の年齢は60歳前後となるはずです。これだと、穴穂部皇子の友人とするには年齢が離れすぎているため、宅部皇子は宣化天皇の皇子ではなく、むしろ欽明天皇の皇子であった可能性が高いのではないでしょうか。実際に、『扶桑略記』や『本朝皇胤紹運録』では宅部皇子を欽明天皇の皇子として記しています。恐らく、宅部皇子と穴穂部皇子は異母兄弟だったと考えられます。

 一方、穴穂部皇子については、用明天皇元年に炊屋姫尊(後の推古天皇)を犯そうとして敏達天皇の殯宮に乱入しましたが、三輪君逆によって阻止され、目的を果たせませんでした。その後、穴穂部皇子は三輪君逆を殺害したと『日本書紀』に記されています。『日本書紀』では用明天皇元年を丙午年(586)としていますが、実際には乙巳年(585)にあたります。この年、炊屋姫尊は33歳になります。だとすると、穴穂部皇子の年齢は炊屋姫尊より年長、あるいはそれほど年齢差がなかったと考えられます。



(※大阪府八尾市東太子 物部守屋墳墓)



 現在、崇峻天皇の陵墓は奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に治定されています。しかし近年、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳から、6世紀後半から末葉に築造された未盗掘の横穴式石室が発見されこの古墳の主が崇峻天皇ではないかと推測されたのです。古墳の石室内の石棺からは、大王クラスの金銅製の馬具や装身具類、刀剣類とともに、2体の成人男性の遺体が出土されました。出土状況によると、石棺内の北側には推定年齢17~25歳の男性が仰向けに横たえられ、南側には推定年齢20~40歳の男性が身体をやや横向きにした状態で納められていました。これらの被葬者については、穴穂部皇子と宅部皇子とする説もあります。しかし、『日本書紀』の記述に従えば、宅部皇子の年齢は薨去時に60歳前後となるため、藤ノ木古墳の被葬者の推定年齢とは一致しません。

 本稿では、敏達天皇の殯宮に押し入った事件をもとに、穴穂部皇子の年齢は炊屋姫尊(推古天皇)と大きく変わらなかったと考え、35歳前後であったと推測しました。また、先述の通り、崇峻天皇の享年は25歳でした。これらは藤ノ木古墳の被葬者の推定年齢と見事に一致します。従って、藤ノ木古墳の北側の男性は崇峻天皇、南側の男性は兄の穴穂部皇子であると結論します。


(※奈良県生駒郡斑鳩町 藤ノ木古墳)



(※奈良県北葛城郡広陵町 牧野古墳石室(押坂彦人大兄皇子墓に比定))




◆3-5.~飛鳥大仏~
 『日本書紀』によると、推古天皇13年4月1日、鞍作鳥に対して銅製および繡製(刺繍)の丈六の仏像各一体の造仏が命じられました。この時、高麗国の大興王が日本で仏像が造られることを知り、黄金三百両を奉ったと記されています。翌推古天皇14年4月8日、仏像は完成しましたが、元興寺に搬入する際、仏像が金堂の戸口よりも高く、そのままでは入らなかったため、戸口を壊すべきか相談されました。しかし、鞍作鳥の工夫により、戸口を壊さずに仏像を搬入することができたと記されています。しかしながら、当時の技術水準を考慮すると、わずか1年で仏像を完成させることは考え難く、実際には完成までにもう少し年数がかかったと考えられています。このことを裏付けるように、『元興寺縁起』【天安2年(858)頃成立】に引用されている『丈六光銘』(丈六仏像の光背銘)には、次のように記されています。

    「十三年 ほしは乙丑にやどる 四月八日戊辰 銅二万三千斤 金七百五十九両を以って 敬みて釈迦丈六像と銅繡二軀の挾侍を併せて造る 高麗の大興王 まさに三宝を重く尊ぶ大倭をむつみ とおきにおもいて 喜びをともにす 黄金三百二十両の大きなさちを助成し、心をおなじくせんとえにしを結ばん」

 さらに、戊辰年(608)に隋の裴世清らが仏像を奉じに来たことが記され、翌己巳年(609)4月8日に「畢竟するに元興寺に坐った」と記されているのです。この「畢竟するに元興寺に坐った」とは「仏像が完成し、元興寺に鎮座した」と解釈できることから、一般には仏像が完成したのは己巳年(609)であると考えられています。
 この銅製の丈六の仏像が現在元興寺(飛鳥寺)に伝わる「飛鳥大仏」と呼ばれるものです。一見すると、仏像の各所には亀裂が見られ、亀裂の上に紙を貼り、その上から墨を塗るなど、修復の痕跡が確認されます。これらの損傷は、鎌倉時代の建久7年(1196)の落雷による火災で寺が焼失した際に受けたものと考えられています。

 近年、飛鳥大仏に関する調査が幾度か行われ、この仏像が当所より同じ場所に安置されていたことと、現存する仏像のオリジナル部分は、目の周囲、左手の第二指および第四指のみであり、それ以外の大部分は後世の補修によるものと確認されました。しかし、補修された部分の金属成分を分析した結果、被災したオリジナルの部分を再び鋳造し直したものであると考えられ、さらに、この補修した部分を鋳造専門家が調査した結果、銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があることが確認されたのですが、この技法は奈良時代以前のものとされたのです。


 1985年頃のことです。私は父とともに、飛鳥巡りのバスツアーに参加しました。その際、飛鳥寺の住職から、建久7年(1196)に発生した火災に関する伝承を聞く機会に恵まれました。住職の説明によると、火災発生時、寺の僧侶たちは「この仏像だけは絶対に守らなければならない」と総出で仏像を運び出そうとしたのですが、仏像の高さが戸口よりも高かったため、一部の僧侶らが屋根に登り、戸口の梁を鉈で壊して、間一髪のところで仏像を外へ運び出すことができたそうです。この僧侶たちのお陰で、仏像は火災の被害を免れることができ、今日現在私たちが見ることができるのですとのことでした。一方、近年の調査によると、建久7年(1196)の火災の際に受けたと思われる損傷した部分が後に再鋳造されたことが確認されています。これは、「仏像が被災を免れた」とする寺の伝承と矛盾します。では、飛鳥大仏はいつ被災したのでしょうか。この謎を解く鍵は、仏像の高さである「丈六」にあります。


 ご説明したように、欽明天皇7年・戊午年(538)に百済の聖明王から贈られた仏像は丈六の仏像でした。この仏像は蘇我稲目によって向原寺に祀られていたのですが、敏達天皇14年甲辰年(584)に物部守屋の焼き討ちに遭いました。『日本書紀』ではこの時の状況について「物部弓削守屋の大連が自らお寺に詣り、踞りて胡座で坐る。その塔を斫り倒し、火を縱け之を燔く。併せて仏像と仏殿を焼き既す。而も焼き餘った仏像を取り、難波の堀江に棄て令む。」と記します。飛鳥大仏の正体は、この時の焼き討ちで焼失した丈六の仏像ではないでしょうか。つまり、鞍作鳥は丈六の仏像を製作したのではなく、修復したとするものです。

 この仮説を裏付ける要素として、次の点が挙げられます。補修技法が奈良時代以前のものであること、仏像の衣装が北魏や百済様式であること、仏像が元興寺の戸口よりも高かったにもかかわらず、戸口を破壊せずに搬入できたこと、何より製作年数がたったの1年だったことです。仏像の搬入に関しては、仏像がパーツごとに補修され、搬入時には分解可能な構造になっていたと考えられます。搬入後に最後の繋ぎ目を補修し完成させたのでしょう。また、補修の継ぎ目が奈良時代以前の技法とされるのも説明がつきます。正倉院の宝物の修復には当時の技法を再現して修復にあたりますが、鎌倉時代の人が、この様な考えを持って修復したとは思えません。製作年数がたったの1年で済んだ理由は、丈六の仏像を一から製作したのではなく、丈六の仏像を修繕したためでしょう。

 改めて飛鳥大仏の製作について整理しますと、以下になります。
 ・『日本書紀』推古天皇13年4月1日、銅製および繡製(刺繍)の丈六仏像各一体の造仏の請願。高麗国の大興王が黄金三百両を助成
 ・『日本書紀』推古天皇14年4月8日、仏像完成
 ・『丈六光銘』乙丑年(605)4月8日、敬みて釈迦丈六像と銅繡二軀の挾侍を併せて造る。高麗国の大興王が黄金三百二十両を助成
 ・『丈六光銘』戊辰年(608)隋の裴世清らが黄金を寄進
 ・『丈六光銘』己巳年(609)に仏像完成
 
 『日本書紀』の記述によれば、推古天皇13年は乙丑年(605)にあたり、『丈六光銘』に記されている「乙丑年(605)に仏像を敬造した」という記事と一致します。一方で、『日本書紀』では仏像が翌推古天皇14年に完成したとされるのに対し、『丈六光銘』では己巳年(609)に完成したと記されています。

 先述のとおり、『日本書紀』では敏達天皇即位の年を欽明天皇崩御の翌年とするため、それ以降の年代が実際より1年後倒しにされて記述されています。従って、実際の推古天皇13年は甲子年(604)、推古天皇14年は乙丑年(605)になります。これを踏まえると、『丈六光銘』における乙丑年(605)の「仏像を造る」という記述は、「仏像を造った」と解釈するのが妥当でしょう。
 しかしながら、『丈六光銘』には「十三年、歳は乙丑に次る」と記されており、この「十三年」が推古天皇13年を指すと考えられますが、『元興寺縁起』が成立したのは平安時代であり、内容において『日本書紀』の年代に従ったか、編年体の年を付加した可能性があります。実際には、推古天皇13年(604)に仏像造立の請願を受け、推古天皇14年(605)に仏像の修復が完成したと考えられます。
 また、『元興寺縁起』では己巳年(609)に仏像が完成したと記されていますが、ここでは干支のみが記されているため、そのまま己巳年(609)に仏像が完成したと解釈するのが適切でしょう。おそらく、この己巳年(609)に完成した丈六の仏像は、繡製の丈六仏像であったと考えられます。

 先述のとおり、一般には推古天皇13年に請願された丈六の仏像は、『丈六光銘』の記述にある己巳年(609)に完成したとされています。しかし、銅製の丈六仏像を鋳造するのに6年も要したとは考え難いでしょう。一方で、繡製の丈六仏像であれば、完成までに6年を要した理由を説明できます。繡製の丈六仏像は、例えるならペルシャ絨毯のようなものと考えればよいと思います。高級なペルシャ絨毯は、1センチ編み込むのに数ヶ月を要するとされています。丈六仏像の高さは約280センチであり、仮に下絵の構図の製作に1年、5センチの刺繍に1ヶ月を要したとすれば、完成までに約6年を要する計算になります。恐らく、『丈六光銘』の銘文は、建久7年(1196)の火災で焼失した繡製の丈六仏像の裏に記されていたものと考えられます。


 さて、『日本書紀』によると、元興寺の完成は推古天皇4年11月と記されています。『日本書紀』では推古天皇元年を癸丑年(593)とするため、推古天皇4年は丙辰年(596)にあたります。一方、『元興寺縁起』に引用される『露盤銘』にも「戊申年(588)に始まった元興寺の建設が、丙辰年(596)十一月に旣す(完成した)」と記されており、『日本書紀』の記述とも一致します。
 しかしながら、実際の推古天皇4年は乙卯年(595)であり、丙辰年(596)だと推古天皇5年になります。先述したように『元興寺縁起』は改竄されていると考えられることから、元興寺の創建は実際の推古天皇4年・乙卯年(595)になるでしょう。
 一方、仏像の製作が請願されたのは推古天皇13年甲子年(604)とされるため、創建から仏像が完成するまでの間、寺には本尊が存在しなかったことになります。しかし、飛鳥大仏の正体が、欽明天皇7年戊午年(538)に百済の聖明王から贈られた丈六の仏像だとすると、寺の完成から請願までの期間は、被災した仏像がそのままの状態で安置されていたと考えられます。さらに、寺の創建から請願までの10年もの間、寺に本像がなかったとする異常な状態も解消されることとなり、建久7年(1196)の火災を免れたという寺の伝承とも合致するのです。従って、飛鳥大仏こそが欽明天皇7年戊午年(538)に百済の聖明王から贈られた仏像だったのです。


(※奈良県明日香村 元興寺(飛鳥寺)釈迦如来像(飛鳥大仏))



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