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皇朝繙史

古代天皇の治世をデータ化、実際の生没年を割り出しました。
アマチュア歴史研究家 田代禎史著

常世編◆第三章.~伊勢の祭祀~

2023-01-08 22:48:11 | 歴史

3-1.~狭穂彦の謀叛~
 垂仁天皇は架空の天皇でした。治世の大半が崇神天皇と重なることから、垂仁天皇の治世に関する記録は崇神天皇の治世から抜粋されたものと思われます。『日本書紀』に記す、崇神天皇元年は甲申年(324)ですが、実際は翌、乙酉年(325)です。この年に垂仁天皇の治世元年を重ね、崇神天皇の治世として見ることにします。

 

 『日本書紀』の崇神紀には、崇神天皇元年2月16日、御間城姫を立てて皇后と為す。この先、皇后は生活目入彦五十狭茅天皇を生むと記します。御間城入彦命の名前には「入」が付くことから、一般に、御間城入彦命は御間城姫の入り婿と考えられています。実際は神武天皇の養子であり、名前に「入」が付くのはこのためです。また、皇后とされる御間城姫は五十里媛(伊須気余理比売)の別名と考えられ、架空の皇后だと思われます。真の皇后は垂仁天皇の皇后とされる狭穂姫(佐波遅比売命)ではないでしょうか。

 『日本書紀』の垂仁紀には、垂仁天皇2年2月9日、狭穂姫を立て皇后と為す、后、誉津別命を生むと記しますが、立后の日付は明示するものの誉津別命の誕生年については明かされていません。一方、『古事記』によれば、狭穂姫の兄である狭穂毘古が反乱を起こし、籠城していた稲城が焼き討ちに遭いました。この時、城中にいた身重の狭穂姫が、燃え盛る城内で誉津別命を生み落としたとされています。『日本書紀』では、狭穂彦の反乱が起きたのは、垂仁天皇5年11月とされますが、焼き討ちの前に狭穂姫が誉津別命を抱いて稲城に入城したとあり、反乱前に誉津別命が誕生していたことになります。

 

 誉津別命の名の由来は、稲城の城が火攻めにされた際、城内にいた狭穂姫が燃えさかる火の中で皇子を産み落としたため、火にまつわる「ホムツ」と名付けられたとされます。しかしながら、現代の日本人にとって「ホムツ」と火との関連が理解しづらいのではないでしょうか?

 『学研漢和大辞典 藤堂明保編』によると、「津」の解字に『聿は手で火箸を持つさま+火(もえかす)の会意文字で、小さな燃えかすを聿で持っている様子+ 彡(雫が垂れるしるし)の会意文字で、わずかな雫』とあります。火災のイメージとはほど遠い様に思えます。ところが、「津」には「ず」という別の読み方があるのです。従って、「誉津」は「ホムス」と読むことができ、「火烝す」と表記できます。「烝す」は高湿の状態を連想させるかも知れませんが、本来の意味は『火や湯気が立ち上る』、『火気が高い所へ上がる』です。「誉津」が火が吹き上がる状態を示すため、誉津別命の本来の読み方は「ホムスワケ」ではないでしょうか。この名前は、炎上する城の中で生まれた状況と一致します。実際に誉津別命は炎上する城中に居たとは思いますが、『日本書紀』では、反乱前に誉津別命が誕生していたとされます。だとすると、誉津別命には元々別の名前があり、狭穂彦の反乱によって誉津別命と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

『学研漢和大辞典 藤堂明保編』より
・「烝」:呉音「ショウ」、漢音「ジョウ」、古訓「アツシ・スミヤカニ・フスホル・マツリ・ムス(観名)」
・「津」:呉音、漢音「シン」、古訓「ツ(和・図名・観名)・(ウルフ)・ウルホス・ワタル(観名)」、名のり「ず・つ」


(※奈良市 『狭岡神社』 狭穂姫伝承の鏡池)




 狭穂彦の謀叛の企てについて、『日本書紀』の垂仁紀には、垂仁天皇4年9月23日、皇后の兄である狭穂彦が、妹の狭穂姫に匕首(あいくち:小刀、ドス)を授け、天皇が眠っている間にこの匕首で天皇の頸を刺し、殺すよう指示したとされています。ところが、同書の垂仁紀には、垂仁天皇5年10月1日に、皇后の狭穂姫が狭穂彦の謀叛を天皇に告げたとの記述があり、謀反が発覚したのは1年以上も経ってからのこととされています。狭穂姫はこの時、「昼も夜も苦悩のため胸がつかえて、訴え申し上げることができなかった」と語っています。こうした状況が1年以上にわたり続く中で、果たして無事に妊娠、出産することができるのでしょうか?

 

 狭穂彦がなぜ謀叛を企てたのか、これに関する手がかりは、崇神天皇4年10月23日の詔に見られます。この日、崇神天皇は詔を発し、次のように述べました。「これ我が高祖や、諸天皇など、皇位に臨まれた者は、単に自身のためではない。人と神を整えて天下を治めたからである。故によく功績を広め、時には至徳を布く。今、朕は大運を謹んで承け賜り、人民を愛育む。如何にして皇祖の跡に遵い、永く無窮の皇祚を保ち治めようか。群卿百僚よ、汝の忠義と貞節を尽くせ、共に天下を安んずることは、なんと良いことではないか。」

 この「万世一系の詔」と呼ばれるものは、要するに皇位は我が子孫が世襲するという趣旨です。群卿百僚は忠義を尽くすようにとの呼びかけが含まれていますが、これはまるで天皇が即位した際に述べる口上です。少し疑問に感じるのは、このような重要な詔が「10月23日」と、普通の日に発せられている点です。緊急の場合ならともかく、詔の趣旨を考えると、吉日を選んで月の初めに発せられるべき内容だと思います。例えば、天武天皇13年10月1日には八草の姓が制定され、宝亀元年10月1日は、天智天皇の孫である光仁天皇が即位した日です。例外もありますが、月の一日は特別な日として扱われたのは間違いないでしょう。


 これらの日付に注目すると、事の真相が見えてきます。詔が発せられた「4年10月23日」と狭穂彦が謀反を企てた「4年9月23日」は、月だけが異なり、年と日は同じです。また、年は1年違いますが、「5年10月1日」に謀反が発覚しています。先ほど述べたように、皇后が1年以上にわたり苦悩する中で無事に妊娠・出産ができるとは考え難いこと、日にちが同じ23日であり統一性が見られることから、日付が操作されているように思えます。『日本書紀』では神渟名川耳尊と神八井耳命(味間見命・崇神天皇)の誕生年が実際より1年前倒しにされていました。そのため、実際の年は狭穂彦が謀叛を企んだ「垂仁天皇4年9月23日」が、「垂仁天皇5年9月23日」となり、詔があった「崇神天皇4年10月23日」は、「崇神天皇5年10月23日」となります。事件の一連の流れから考えると、これらは連続して起こったと考える方が自然でしょう。従って、実際には次のような流れだったのではないでしょうか。

 9月23日、誕生した誉津別命が、次代天皇となる男子だったため、翌10月1日に「万世一系の詔」が発せられた。この詔を受けて狭穂彦が謀叛を企むも、露見したため、10月23日に妹の狭穂姫を連れて稲城に立て籠もって抵抗した。この時、再三の説得にも応じず、月が替わり11月になっても進展がなかったため、最終的に火攻めが行われた。

 この説明では、誉津別命の誕生だけを1年前倒しにせず、元の日付を採用しています。他の出来事が1年前倒しになっているにもかかわらず、誉津別命の誕生だけを1年前倒しにしないのは、ご都合主義だと捉えられるかもしれません。実は、誉津別命の誕生については、神武天皇のように1年前倒しせずに本来の誕生年が記述されているのです。では、なぜ誉津別命には1年前倒しを適用しなかったのでしょうか。それには、ある人物との関わりがあります。この答えは、その人物が登場するまで今しばらくお待ちください。




3-2.~狭穂彦~
 奈良市佐保山町にはかつて佐保山と呼ばれる山があり、一帯は佐保と呼ばれていました。狭穂彦は、この佐保を本拠地とする豪族であったと考えられます。当地にある『狭岡神社』には狭穂姫の伝承が残り、近隣の『常陸神社』の摂社『狭穂姫神社』では狭穂姫が祀られています。地理的に見ると、佐保の西隣には佐紀があり、さらに西隣には登美があります。登美は長髄彦(天日方奇日方命・狭霧彦)の領地とされることから、狭穂彦は長髄彦の一族か縁者だったのではないでしょうか。

 狭穂彦は、妹の狭穂姫に天皇暗殺を指示しながら「自身が皇位を継げば、枕を高くして百年でも安心して寝ることができるだろう」と話しています。逆に言えば、味間見命(崇神天皇)が皇位に即く間は、枕を高くして眠れないほど、狭穂彦は恐れていたことになります。では、なぜ崇神天皇に対してこのような強い恐怖心を抱かなければならなかったのでしょうか?


 神武天皇が兄猾を討伐する際には弟猾、兄磯城を討伐する際には弟磯城という人物が現れ、討伐の手引きをしたとされます。弟磯城の正体は天日方奇日方命(長髄彦)で、兄磯城、兄猾の正体は饒速日命でした。しかしながら、神武天皇は兄磯城討伐後に長髄彦と2度目の対戦を行っていることから、弟磯城の裏切りは後で創られた話だと分かります。では、実際の内通者は誰だったのでしょうか?

 神武天皇と長髄彦との二回目の対戦の際、金色の鵄が神武天皇の弓に止まり、敵軍は目がくらんで戦意を喪失したとされます。この瑞兆により鵄の邑と名付けられたものが、後に訛って鳥見になったとされます。金色の鵄が神武天皇の弓に止ったとあるのは、登美の一部の勢力が神武天皇側についたことを意味するとすれば、自軍に裏切り者が現れたことにより、長髄彦は戦意を喪失し敗北したのでしょう。その裏切り者が狭穂彦だったのではないでしょうか。

 狭穂彦が味間見命の父の仇であれば、味間見命に強い恐怖心を抱くのも説明できます。また、狭穂彦と狭穂姫は兄妹とされますが、愛する夫よりも兄を選ぶのは考えにくいことから、狭穂彦と狭穂姫は兄妹ではなく、親子ではないでしょうか。狭穂姫は『古事記』では佐波遅比売命とされます。狭穂姫とは佐保(出身)の姫という意味で本当の名前は、佐波遅比売命でしょう。


 誉津別命が誕生した時、味間見命は23歳です。皇后の狭穂姫が17,8歳だとすると、狭穂姫の兄、狭穂彦は味間見命に近い年齢だと考えられます。ところが、この叛乱には狭穂彦の親である彦坐王が一切登場していません。狭穂彦は開化天皇の第三子である彦坐王の息子とされていますが、開化天皇は架空の存在です。開化天皇の皇后は、先代孝元天皇の后である伊香色謎命です。この関係は饒速日命と伊須気余理比売、神武天皇との関係と全く同じです。開化天皇は神武天皇をモデルとした天皇でしょう。その息子の彦坐王(日子坐王)は、伊須気余理比売を男性化して創作されたものです。「日」と「五」は「イ」と読め、「十」は「カ」と読めます。上古では「古」で表記していましたが、「古」は「コ」と読め、「子」に通じます。「坐」の古訓は「ヨリ」です。従って、彦坐王は五十里媛(伊須気余理比売)をモデルにした架空の皇子だったのです。狭穂姫は父親と夫の板挟みに苦悩した末に、父親と死を共にする道を選んだのです。


(※奈良市 『常陸神社』境内 佐保姫大神:千木は男性を示す外削ぎ、祭神は狭穂彦か?)





3-3.~倭姫~
 前章で述べましたが、『日本書紀』によれば、崇神天皇6年に、天照大神を豊鍬入姫命に、倭大国魂神を渟名城入姫命に託して祀らせましたが、渟名城入姫命は体が痩せ細り、奉祀できなくなったとされています。ところが、同書の垂仁紀にも同様の記事があり、垂仁天皇25年3月10日、豊鍬入姫命に代わって天照大神の祭祀を託された倭姫命が、天照大神を鎮座させる場所を求めて宇陀の篠幡、近江、美濃を巡りました。最後に伊勢の地にたどり着くと、当地に祠を建て、五十鈴川のほとりに斎宮を建設しました。これを磯宮と称したと記されています。

 また、同書は一説として、天皇が倭姫命を依り代として天照大神に差し上げると、倭姫は天照大神を磯城の神木の本に祀ったが、その後、神のお告げにより、垂仁天皇26年10月に伊勢の度遇宮に遷したとするのです。さらに、大倭大神を渟名城稚姫命に託して奉祀するよう命じましたが、渟名城稚姫命の体はすでに痩せ細って奉祀できなかったため、代わりに長尾市宿禰に祀らせたと記されています。


 『日本書紀』では神渟名川耳尊(磯城津彦命・安寧天皇)と神八井耳命(味間見命・崇神天皇)の誕生年を実際より1年前倒しにされており、実際の崇神天皇6年は、崇神天皇7年になります。一方、垂仁天皇は架空の天皇であり、その治世は崇神天皇(味間見命)の治世の転用と考えられることから、垂仁天皇25年は味間見命25歳の年である崇神天皇7年、辛卯年(331)になります。つまり、『日本書紀』に記す、崇神紀、垂仁紀における伊勢の祭祀は、同年だったのです。しかし、『日本書紀』の一説では、伊勢祭祀が始まった年は垂仁天皇26年とし、これは味間見命26歳の年である崇神天皇8年、壬辰年(332)になります。このように伊勢の祭祀の正確な開始年は明確ではありません。ところが、実際に伊勢の祭祀が始まった年を示す資料が存在するのです。


(※京都府福知山市 元伊勢内宮皇大神社 由緒書き)

 

 

 京都府福知山市大江町にある『元伊勢内宮皇大神社』の由緒書きによれば、『人皇第十代崇神天皇三十九年(紀元前五十九年)に「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鍬入姫命 御枝代となり給い、それまで奉斎していた倭の笠縫邑を出御されたのが、いま(平成二年)を去る二千四十九年の遙かな昔であった。そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸になり、その由緒により当社が創建されたと伝えられている。皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余か所)を経て五十四年後の人皇代十一代垂仁天皇二十六年に、伊勢の五十鈴川上(いまの伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。しかし、天照大神の御神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、いまに至る庶民の篤い信仰が続いている。』

 この由緒書きによると、伊勢遷宮は垂仁天皇26年とされていますが、問題は冒頭の「崇神天皇39年」です。『記紀』には崇神天皇39年に関する記事は存在しません。では、この「崇神天皇39年」とは一体何を意味しているのでしょうか?次に示す一覧(古代天皇の実年02)をご覧下さい。






3-4.~伊須気余理比売の生誕の年~
 『日本書紀』によれば、神武東征は甲寅年(294)に始まったとされています。実際の神武東征の開始は壬戌年(302)の11月であり、神武天皇と長髄彦が初めて対戦したのが丙寅年(306)です。甲寅年(294)から数えると、丙寅年(306)は13年後になり、崇神天皇26歳の壬辰年(332)は、39年目にあたります。この「崇神天皇39年」とは、伊須気余理比売の年齢を示しているのではないでしょうか?『石切劔箭神社』の社伝によれば、饒速日命の東遷後、数年が経ち、饒速日命がもたらした稲作や織物、鉄製の道具や武具によって登美の里が豊かに実る様になった。その頃、伊須気余理比売を妻に迎えたとされます。ご説明したように饒速日命が東遷したのは、神武東征と同じ壬戌年(302)と考えられます。
 
 古代天皇の即位式では、「真床覆衾」と呼ばれる12~3歳の童女を神に見立て、新天皇と同衾する行事が行われていました。12~3歳の童女を使うのは、伊須気余理比売が、饒速日命(天照大神)と婚姻した時の年齢だからでしょう。「真床覆衾」に登場する神に見立てた童女とは、伊須気余理比売の代役だったのです。つまり、丙寅年(306)に伊須気余理比売は13歳で饒速日命の妻に迎えられたのです。この結果、古代女性の結婚適齢期は13歳だったことが分かります。神渟名川耳尊(磯城津彦命・安寧天皇)の即位時の年齢も13歳でした。古代では13歳で成人とされたのです。これを裏付けるものに磯城津彦命(安寧天皇)の立太子の記事があります。


 『日本書紀』の綏靖紀によれば、綏靖天皇(手研耳命・武猛)の25年に磯城津彦命(安寧天皇)が皇太子になったとされています。古代天皇の実年02を見ての通り、神武天皇が崩御し、手研耳命が綏靖天皇に即位した戊寅年(318)は伊須気余理比売25歳の年にあたりますが、『日本書紀』での神渟名川耳尊(磯城津彦命・安寧天皇)の年齢は11歳です。

 同書の懿徳紀によれば、懿徳天皇は安寧天皇11年に立太子されたと記されています。しかし、懿徳天皇は架空の天皇です。この記述は、神渟名川耳尊(磯城津彦命・安寧天皇)が11歳で立太子されたという史実を元に流用されたものと思います。

 神武天皇が崩御した同年、手研耳命は綏靖天皇に即位しました。しかし、即位後すぐに神渟名川耳尊を立太子するのではなく、彼が11歳となる翌年を待って立太子としたと考えられます。この「11歳で立太子」とする記録は、当時の成人年齢が13歳であったことに由来するものではないでしょうか。皇太弟としての教育には約2年もの歳月が必要とされていたと考えられるため、11歳での立太子は合理的な判断であったといえます。

 また、手研耳命の反逆が神渟名川耳尊の成人を迎える前年、すなわち13歳を目前に控えた時期に起きたことも、この説と整合性があります。手研耳命は、皇太弟が成人を迎える前に政治的な地位を固めようとした意図があったのかも知れません。さらに、この13歳という成人年齢は、饒速日命の妻である伊須気余理比売が13歳で婚姻したと推測されることとも一致します。これらの事例から、古代日本では成人年齢が13歳であったと考えられます。従って、『日本書紀』に記す、神武東征の始まりの年とされる甲寅年(294)は、実際には伊須気余理比売の生誕の年を記していたのです。

 さて、渟名城入姫命の正体は伊須気余理比売だとしました。崇神天皇8年(味間見命26歳の年)は、伊勢遷宮と渟名城入姫命の交代が重なります。倭姫命は垂仁天皇の第四皇女とされますが、垂仁天皇は架空の天皇であり、実際には崇神天皇をモデルとした天皇です。古代女性の成人年齢は13歳であったため、味間見命が26歳の時点で倭姫命の年齢が13歳だと仮定すると、子供が子供を産むことになり、世代的に矛盾が生じます。だとすると、倭姫命の正体は伊須気余理比売だと考えるのが自然でしょう。渟名城入姫命(伊須気余理比売)は体が痩せ細って倭大国魂神への奉祀が出来なかったのではなく、単に倭大国魂神から天照大神へ奉祀を交代したのだと考えられます。




3-5.~崇神天皇7年~
 『伊勢神宮』での祭祀が始まったのは、味間見命(崇神天皇)が26歳であった崇神天皇8年、壬辰年(332)でした。この年は、伊勢神宮だけではなく、太田田根子により『大神神社』での大物主神の祭祀が始まった年でもあり、『新屋坐天照御魂神社』の祭祀が始まったのもこの年です。時系列に見ると、
・崇神天皇7年2月15日、占いで災禍の原因を究めた結果、大物主神を祀ったものの災禍は治まらなかった。
・崇神天皇7年3月10日(垂仁天皇25年)に伊須気余理比売に天照大神を託し磯城の神木の本に祀ったものの当地をよしとせず、遷宮先を求め各地を巡りはじめる。
・崇神天皇7年8月7日、夢に現れた貴人から「太田田根子に大物主神の祭主を、市磯長尾市に倭大国魂神の祭主を任せれば、天下太平になる」と告げられ、茅渟県の陶邑にいた太田田根子を探し出す。
・崇神天皇7年9月、新屋に天照大神が降臨したため、伊香色雄命に祀らせ『新屋坐天照御魂神社』を創建した。
・崇神天皇7年10月、天照大神を伊勢に遷宮し、伊勢での祭祀が始まる。
・崇神天皇7年11月13日、太田田根子を大物主神の祭主とし、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主とした。
こうして見ると、伊勢神宮、大神神社、大和神社(祭神:倭大国魂神)などの主な神社はすべて崇神天皇7年に創建されています。前年は各地で百姓の離散や一揆が発生しており、大規模な自然災害が起きたのではないでしょうか。そのため、翌年の2月15日に占いで災禍の原因を究め、各地で神を祀らせたのでしょう。