◆4-1.~推古天皇~
復習を兼ねて整理すると、推古天皇について『日本書紀』には戊子年(628)に治世36年・享年75歳で崩御されたとあり、『古事記』では戊子年(628)に治世37年・享年76歳で崩御、『神皇正統録』でも戊子年(628)に治世36年・享年76歳で崩御されたと記されています。このように、推古天皇の享年を75歳とするのは『日本書紀』のみであり、『古事記』や『神皇正統録』では76歳とされています。従って、戊子年(628)に76歳で崩御したとすると、生年は欽明天皇22年・癸酉年(553)となります。
一方、『日本書紀』の推古紀には、炊屋姫尊(推古天皇)は18歳で敏達天皇の皇后となり、34歳の時に敏達天皇が崩御し、39歳で即位したと記されています。推古天皇の生年が欽明天皇22年・癸酉年(553)であるとすると、39歳にあたる年は辛亥年(591)となります。『日本書紀』では推古天皇が即位した翌年を治世元年とするため、辛亥年(591)に即位したとすれば、翌年の壬子年(592)が治世元年となります。この年から崩御した戊子年(628)までの年数は37年となるため、『古事記』に記されている推古天皇の治世37年と『日本書紀』に記された即位年齢の記録は一致しています。
『日本書紀』の推古紀では、炊屋姫尊が18歳で敏達天皇の皇后となったと記されていますが、敏達紀には敏達天皇5年3月10日に炊屋姫尊を皇后にしたと記録されています。炊屋姫尊が18歳となるのは欽明天皇39年・庚寅年(570)ですが、敏達天皇5年は乙未年(575)にあたります。このため、炊屋姫尊は18歳で立后したのではなく、18歳で敏達天皇の妃となり、敏達天皇5年・乙未年(575)に23歳で皇后となったのです。
炊屋姫尊が適齢期に達した時に、その血統に見合う有力な豪族や皇族の男性がいなかったのでしょうか。18歳での婚姻は当時としてはやや遅いように思われます。また、先述したように炊屋姫尊が34歳の時に崩御したのは敏達天皇ではなく、実兄の用明天皇であり、敏達天皇が崩御した甲辰年(584)時点での炊屋姫尊の年齢は32歳となります。
従って、推古天皇は欽明天皇22年・癸酉年(553)に誕生し、欽明天皇39年・庚寅年(570)に18歳で敏達天皇の妃となり、敏達天皇5年・乙未年(575)に23歳で立后、崇峻天皇5年・辛亥年(591)に即位し、即位翌年の壬子年(592)を治世元年とし、治世37年・戊子年(628)に享年76歳で崩御されたのです。
(※大阪府南河内郡太子町山田 推古天皇陵)
◆4-2.~四天王寺~
推古天皇元年(593)4月10日、推古天皇は厩戸皇子を皇太子に立て、国政の全権を委ねて摂政に任じました。今日、厩戸皇子は聖徳太子と呼ばれ、広く崇敬されています。その厩戸皇子が最初に建ては寺が四天王寺です。四天王寺について『日本書紀』では、丁未の乱の際に厩戸皇子が白膠木(ぬるで)の木を切り取って四天王の像を作り、髪の頂に置き「今もし我を使い敵に勝たせば、必ず護世四王を奉るために、塔を立て寺を起こすであろう」と誓いを發てたことに由来し、推古天皇元年に難波の荒陵の地で建立が開始されたと記されています。ところが、『神皇正統録』の用明紀には、丁未の乱(587)の直後の冬に摂津国玉造の岸上において四天王寺を建立し給うと記されているのです。
大坂城の東南、JR森ノ宮駅の近くにある鵲森ノ宮神社では、「かつてこの地は物部氏の所領であったが、丁未の乱の後、敗れた物部氏の一族が全国へ逃散したため、残った所領は厩戸皇子や蘇我氏に分配されました。厩戸皇子はその跡地に四天王寺を建立したが、わずか数年で大風(台風)による高波を受けて崩壊したため、現在の地に再建された。」と伝えられています。
これを裏付けるように、大阪市立中央図書館が所蔵する『難波古絵図』には、石山の東岸に「天王寺跡」と記されています。現存する地図は江戸時代に写されたものとされますが、オリジナルは承徳2年(1098)に作成されたと伝えられています。さらに、早稲田大学所蔵の『難波之古図』(康正2年(1456)写、宝暦6年(1756)写)にも、石山の北東岸に「天王寺旧地」と記された一角が見られます。これらの地図の真贋については議論があるものの、石山は現在の大阪城天守閣に位置することから、地図の位置関係から天王寺跡は現在の大阪城梅園の北側付近に存在したと考えられます。現在、天王寺区に建立されている四天王寺は、戦火や災禍により幾度となく灰燼に帰しましたが、そのたびに再建が行われてきました。現在の五重塔は八代目にあたるとされています。
(※左:大坂城 右:難波古絵図)
◆4-3.~冠位十二階と十七条の憲法~
『日本書紀』によると、「推古天皇15年7月3日、鞍作福利を通訳とし、大礼・小野妹子を大唐(隋)に派遣した」と記されており、一方の『隋書』「東夷傳俀國傳」には、「大業三年に其王、多利思比孤が使者を派遣し朝貢した」とあります。推古天皇15年と大業三年はともに丁卯年(607)にあたり、両国の史書において遣隋使派遣の記録が一致しています。『隋書』には、この時の派遣で倭国の冠位制度について触れており、倭国には、「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信」の十二の冠位制度があると記されています。ところが、『日本書紀』では五常の順番が異なり、「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」となっているのです。
冠位十二階は日本独自の制度であり、庚申年(600)の第一回遣隋使派遣を通じて隋の官僚制度がもたらされ、それを模倣して設けられたと考えられています。『日本書紀』によれば、冠位十二階の制度は推古天皇11年12月5日に施行され、翌推古天皇12年1月1日に制定されたと記されています。『日本書紀』では推古天皇元年を癸丑年(593)と記しています。このため、制度が施行された推古天皇11年は癸亥年(603)に該当します。しかし、実際の推古天皇元年は壬子年(592)であったため、推古天皇11年は壬戌年(602)になります。この年は、初回の遣隋使が帰国した翌年です。そのため、厩戸皇子(聖徳太子)は、遣隋使からの情報を基に約1年をかけ、日本に適した冠位制度を確立したと考えられます。
問題は十七条の憲法です。『日本書紀』によると、推古天皇12年4月3日に「皇太子自ら十七条の憲法を制定した」と記されています。一方、『上宮聖徳法王帝説』では推古天皇13年とされ、『一心戒文』では推古天皇10年と記されています。『日本書紀』の記述に基づけば、推古天皇12年は甲子年(604)に該当しますが、実際の推古天皇元年は壬子年(592)であるため、推古天皇12年は癸亥年(603)、推古天皇13年が甲子年(604)となります。つまり、『日本書紀』における推古天皇12年と『上宮聖徳法王帝説』における推古天皇13年はともに甲子年(604)に該当し、この年に十七条の憲法が制定されたと考えらえます。
一方、『一心戒文』が推古天皇10年とするのは、冠位十二階の制定と混同したためではないでしょうか。『日本書紀』によれば、推古天皇10年は壬戌年(602)に該当します。しかし、実際の壬戌年(602)は推古天皇11年にあたり、冠位十二階が制定された年になります。『日本書紀』では、冠位十二階と十七条の憲法の制定が同一の年とされているため、これが、『一心戒文』において誤解が生じ、推古天皇10年と記されたのでしょう。
冠位十二階においては、「義(正義)」や「智(知恵)」よりも、「礼(礼節)」や「信(信義)」が上位に位置づけられています。これは、厩戸皇子が「義」や「智」よりも、「礼」や「信」をより重んじていたことを示しているのではないでしょうか。厩戸皇子が18歳の時、蘇我馬子は崇峻天皇を弑逆しました。『日本書紀』によれば、崇峻天皇は貢ぎ物の猪の首を見て、「いつか、この猪の首のように、朕の嫌う者を断ちたい」と仰せになりました。これを耳にした蘇我馬子は、自分のことを指していると受け取り、天皇を殺害したのです。臣下の立場でありながら、天皇を弑するという前代未聞の行為は、厩戸皇子にとって、言葉では言い尽くせぬほどの衝撃と悲しみを与えたことでしょう。こうした出来事を背景に、厩戸皇子は政治や秩序の根幹に「礼」と「信」を据える必要性を強く感じたのではないかと考えられます。十七条憲法の第四条には「群卿百寮、礼を以て本とせよ」と記されており、礼節を重んじる姿勢が明確に示されています。その思いこそが、冠位十二階の制度や十七条憲法の理念に反映されているのではないでしょうか。その十七条の憲法の口語訳と現代語訳を列挙しました。従来の訳とは異なり、熟語と考えれれるものは、その意味で訳しています。
≪十七条の憲法≫
▼第一条
和を以て貴しと為し、忤る無きを宗と爲せ。人は皆、黨有り。亦、達者は少なからずや。是れ以て 或いは君父に順わず。乍、隣里により違う。然れども、上と下和睦びて、論うにおいて事は諧う。則ち事理は自ずから通り、何事か成らざらん。
【訳】和を以て尊び、常に人道に反しないよう心がけるべきである。人は皆、同心の仲間がおり、優れた者は少ないかもしれない。故に、時には君主や父に従わない者もいる。然しながら、隣り合う里によって意見が異なることがあっても、上下の者がともに睦び合い、話し合えば事はうまく運ぶ。事理は自然と通じ、どのようなことも成し遂げることができるのである。
(※忤る:人道に叛く/和:ともに)
▼第二条
篤く三寶を敬え。三寶とは佛、法、僧なり。則ち四生の終わりに帰するところ すべての國の極みのもと。何れの世、何れの人 是の法を貴ぶに非ずんば、人の尤惡は鮮なし。敎え能うは之に従う。其れ三寶に歸らずは、何を以て、枉がるを直さん。
【訳】篤く三宝を敬いなさい。三宝とは、仏、法、僧を指します。則ち四生(すべての生物)の最後のよりどころ すべての国の究極のもとである。どの時代、どの人であっても、これを尊ばないのであれば、人々の憎しみが消えることはない。よく教えれば、それに従うものである。三寶に帰依しないのであれば、どうして枉がったものを直せようか。
(※尤悪:憎しみ)
▼第三条
詔は必ず謹みて承るべし。君は則ち之を天とし、臣は則ち之を地とす。天は覆い、地は載る。四時は順行し萬氣は通い得る。地、天を覆さんと欲すれば、則ち壤れるに致るのみ。是れ以て 君の言を臣承り、上行はば、下靡かん 故に詔は必ず謹みて承るべし。謹まずは、自ら敗れん。
【訳】詔は必ず謹んで承りなさい。君は天の如く、臣は地の如し。天は地を覆い、地は天を載る。四季が順調に巡れば、万物の気は通い合う。地が天を覆おうとするならば、ただ壊れるのみ。故に君の言葉を臣が承ることで、上が行動すれば、下もそれに従うだろう。故に詔は必ず謹んで承りなさい。謹まなければ自を滅すだろう。
(※四時:四季)
▼第四条
群卿百寮 禮を以て本と爲せ。其の民をこの本で治めん。要るは禮に在り。上禮わずは、而るに 下齊うに非ず。下禮無きは、以て必ず罪あり。 是れ以て 群臣禮有るは、位次亂ず。百姓禮有るは、自と治めん。
【訳】群卿百寮は、礼を根本とし、それをもって統治の基盤としなさい。民を治める要は礼にある。もし上が礼を軽んじれば、必然的に下も整うことはない。下に礼が無ければ、必ず罪が生じることになる。ゆえに、群臣に礼があれば位の秩序が乱れることなく、百姓に礼があれば自然と治まるのである。
(※禮:うやまう)
▼第五条
餮るを絶ち欲を棄て、明かに訴訟を辨えよ。其れ百姓の訟は一日に千の事あり。一日は尚爾り、況や歳を累ねてや。頃、訟を治める者、利を得るを常と爲し、賄を見ては讞を聽く。便、財の有る訟は、石を水に投げるが如し、乏しき者の訴は、水を石に投げるのに似る。是を以て貧民は、則ち由る所を知らず。臣の道、また於いてなんぞ闕くや
【訳】餮りを断ち欲を棄てて訴訟の道理をはっきりと弁えよ。それ百姓の訴えは一日に千の事柄があり、一日でそうであるから、ましてや歳が累むとなおさらである。この頃、訟を裁く者が利を得ることを常とし、賄を見て判決を下すと聴く。財の有る者の訟は、石を水に投げるようなものだが、乏しき者の訴は水を石に投げるのに似ている。これでは、貧しい者は、拠り所を知らない。臣としての道は、なぜここで欠けてしまうのか。
▼第六条
惡を懲らし、善きことを勸むるは、古の良き典なり。是れ以て人の善を匿すこと无く、惡を見ては匡すこと必ず。其れ諂い詐むく者は、則ち國家を覆えす利器と爲し、人民を絶つ鋒劒と爲す。亦、侫い媚びる者は、上に對し則るは好みて下の過ちを說き、下と逢い則るは上の失ちを誹謗す。其れ此人は皆、君に於きましては忠无く、民に於かれては仁无き如し。是れ大亂の本也り。
【訳】悪を懲らし、善を勧めることは、古来より良き典範とされてきた。このようにして、人の善行を隠すことなく、悪を見れば必ず正すべきである。諂い欺く者は、国家を覆す道具となり、人民を断つ鋭い剣となる。また、媚びへつらう者は、上に対しては下の過ちを喜んで語り、下に会えば上の過ちを誹謗する。このような者は、君主に対しては忠義を欠き、民に対しては仁義を欠く存在である。これこそ、大乱の根本である。
▼第七条
人は各に任有り、掌ること宜しく濫れず。其れ賢哲は官に任し、頌むる音則ち起る。姧な者は官に有りて禍い亂れること則ち繁し。世に生れ知るに少し、剋念し聖と作す。事に大少無し。人を得て治むこと必ず。時に急緩無し。賢きに遇ひ自から寛げん。此に因て国家は永久にして、社稷は危うく勿し。故に古の聖王は官の爲に人を求めて以い、人の爲に官を求めず。
【訳】人にはそれぞれ役割があり、その職務を軽率に扱ってはならない。賢明な者を官職に任命すれば、称賛の声が自然に湧き起こる。一方、不正な者が官職に就けば、災いと混乱が頻発する。生まれながらに知恵を持つ者は少なく、心を一つにして聖となる。事柄に大小の差はなく、適任者を得てこそ物事は円滑に進む。事柄には急ぎ過ぎても遅すぎてもならない。賢明な人材に巡り合えば自然と安らぐ。これによって国家は永続し、社稷(国家の象徴)は危機に陥ることがない。故に、古代の聖王は官職のために人材を探し求め、人材のために官職を設けることはしなかった。
▼第八条
群卿百寮は、早く朝りては晏きに退ぞき、公は盬い靡しを事めん。終日に盡し難し 是れ以て 遲く朝りては急くに逮ばず。 早く退ぞくは、必ず事を盡さず。
【訳】群卿百寮は、朝早く参じては遅く退き、公務に精励す。しかし、一日の業務を完全に終えるのは難しい。ゆえに、遅く参じては急いでも事を遂げられず、早く退くならば必ず業務を全うすることはできない。
▼第九条
信は是れ義の本なり。事毎に信有り。其れ善惡成敗は要ず信に在り。群臣、信を共にするは、何事か成らざらん。群臣、信无しは、萬事悉く敗れん。
【訳】信は義の根本である。あらゆる事柄には信頼が伴う。善悪や成功・失敗の鍵は、必ず信にかかっている。群臣が信を共有すれば、成し遂げられないことは何もない。逆に、群臣に信が無ければ、全ての事柄が失敗に終わるだろう。
▼第十条
忿りを絶ち瞋りを棄て、人の違いを怒らず。人は皆心有り。各の心は執り有り。彼是しきは則ち我非ず。我是しきは則ち彼非ず。我必ず聖に非ず、彼必ず愚に非ず。共に是れ凡夫耳。是非の理 詎んぞ能く定む可し。相共に賢愚の鐶端无きの如し。 是れ以て 彼の人が瞋と雖ども、 還りて我が失ちを恐れ、我獨が得たりと雖ども、衆に從い同じく舉う。
【訳】怒りを断ち、憤りを捨て、人の誤りに対して怒ることなくあれ」と。人は皆、それぞれの心を持ち、それぞれの執着もある。彼が正しいと思うとき、私は誤りとされる。私が正しいと思うとき、彼は誤りとされる。私は必ずしも聖人ではなく、彼も必ずしも愚者ではない。我々は共にただの凡人である。是非の理をどうして定めることができようか。互いの賢愚の区別は、終わりのない環のようなものである。故に、仮に相手が怒っていたとしても、自分の非を省みることを恐れるべきであり、たとえ自分一人が正しくとも、大衆に従い共に協力するべきである。
▼第十一条
功過を明察し、賞罰を當うこと必ず。日者、賞るは功在らず。罰るは罪に在らず。事を執る群卿、宜しく賞罰を明にすべし。
【訳】功罪を明察し、賞罰を必ず与えよ。日頃、褒めていると、その効果が薄れ、咎めていると罪の意識が薄れる。事務を執る群卿は、賞罰を明らかにするべし。
▼第十二条
國司、國造は百姓を斂る勿れ。國に二君は非らず。民に兩つの主無し。率土の兆民は王を以て主と爲す。任所の官司は是れ皆王の臣なり。何ぞ敢て公と與に百姓から賦斂らん。
【訳】国司や国造は百姓から税や負担を取り立ててはならない。国に二人の君主は存在せず、民には二人の主君がいることはない。天下のすべての万民は王を主君としている。任地の官吏はすべて王の臣下である。どうして役人や関係者が百姓から税や負担を取り立てることをあえて行うのか。
(※率土:天下のすべて)
▼第十三条
諸れ官を任す者は、同じく職掌を知れ。或いは病み、或いは使わし、事に於て闕く有り。然れども之を知り得る日、和むこと曾を識るが如し。其れ與り聞くに非ずを以て、公務を防く勿れ。
【訳】すべて官職を任された者は、それぞれの職務の分担をよく理解せよ。ある者は病に倒れ、ある者は出張に出され、職務において欠けることがある。だが、それらの事情を把握できたときには、まるでかつての和やかさを思い出すかのように、秩序が保たれるのである。自分が関わっていない、あるいは聞いていないことだとしても、それを理由に公務を妨げてはならない。
▼第十四条
群臣百寮は嫉妬有ること無れ。我既に人を嫉み、人は亦我を嫉む。嫉妬の患いは、其の極みを知らず。所以、智が己に勝るは則ち悦ばず。才が己に優るは則ち嫉妬す。是れ以て、五百の乃今、賢に遇う。千載にして以て一聖を待つ難し。其れ賢聖を得ずは、何を以て國を治めん。
【訳】群臣・百官は、嫉妬してはならない。私が他人を嫉むように、人もまた私を嫉む。嫉妬という災いには限りがない。だからこそ、自分より智恵が勝る者には喜べず、自分より才能が優れている者には嫉妬する。このため、五百年を経てようやく一人の賢者に出会い、千年の時を経てようやく一人の聖人を得るというほどに、賢才と巡り会うことは難しい。もしそのような賢者・聖人を得ることができなければ、一体何をもって国家を治めることができようか。
▼第十五条
私に背きて公に向うは、是れ臣の道矣り。凡人は私有るは、必ず恨有り、憾有るは同に非ずこと必ず。同に非ずは則ち私を以て公を妨げん。憾起るは則ち制を違え、法を害う。故に初の章に云く 上下和諧せよ。其れ亦是の情を歟。
【訳】私情に背いて公のために尽くすことこそ、まさに臣下の道である。おおよそ人というものは、私心を抱けば、必ず恨みが生じる。恨みがあれば必ず調和を失う。調和が失われると、私利によって公の利益が妨げられる。恨みが起これば法を破り、規則を害することになる。故に最初の章で「上下は和諧せよ」と述べたのは、まさにこの事情にある。
▼第十六条
民を使い時を以いるは、古の良き典なり。故に冬月は間有り。以て民を使う可し。春に從り秋に至り、農桑の節は民を使うべからず。其れ農さず、何を食う、桑せず何を服ん。
【訳】民を働かせる際には、時期を考慮するのが昔の良き習わしである。それゆえに冬の月は暇があるので、その時期に民を働かせるのが良い。春から秋にかけては、農業や養蚕の季節なので、民を働かせるべきではない。農地を耕さないのであれば、何を食べるのか。桑を育てないのであれば、何を着るのか。
▼第十七条
夫れ事は獨りで斷むべからず。必ず衆と與に宜しく論ずべし。事少きは是れ輕し、必ずしも衆とすべからず。唯り大事を論ずに逮ぶは、若疑、失ち有らん。故に衆と與に相辨へば、辭は則ち理りを得ん。
【訳】物事は独断で決めてはならず、必ず他の人々と相談して議論すべきである。些細な事柄については、必ずしも多数の人と相談する必要はない。しかし、大事なことを一人で決めようとすれば、誤る恐れがある。だからこそ、多くの人々と共に事を明らかにすれば、言葉は自然と道理を得るだろう。
(※大阪市天王寺区 四天王寺)
◆4-5.~厩戸皇子(聖徳太子)~
『日本書紀』によれば、厩戸皇子は推古天皇29年2月5日に享年49歳で薨去したと記されています。同書では推古天皇元年を癸丑年(593)とするため、推古天皇29年は辛巳年(621)になります。
しかし、『上宮聖徳法王帝説』に引用される『天寿国繡帳』の銘文や法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘には、壬午年(622)2月22日に厩戸皇子が薨去したと記されており、『日本書紀』の記述と矛盾するのです。しかしながら、『天寿国繡帳』や法隆寺金堂釈迦三尊像は厩戸皇子の薨去後、間もない時期に製作されたものであり、特に光背銘のように刻まれた文字は改竄されにくいことから、これらの記録は『日本書紀』の記述よりも信頼性が高いと考えられています。そのため、厩戸皇子の薨去年は壬午年(622)とするのが通説となっています。
聖徳太子の死後およそ一世紀後の養老4年(720)に成立した『日本書紀』には、歴代天皇が創建した寺社の宝物や仏像が紹介されています。『日本書紀』の編纂者たちは、当然ながら法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘や『天寿国繡帳』の銘文の内容を把握していたはずです。それにもかかわらず、何故『日本書紀』では厩戸皇子の薨去を推古天皇29年・辛巳年(621)と記すのでしょうか。
厩戸皇子が薨去された壬午年(622)は、実際には「推古天皇31年」にあたりますが、『日本書紀』では壬午年(622)を「推古天皇30年」としています。この「推古天皇30年」を、実際の推古天皇30年にあたる辛巳年(621)と見なした場合、この年は『日本書紀』では推古天皇29年に該当するのです。
お気づきのとおり、この手法は仏教伝来の年に用いられたものと同じです。このような手法が取られている理由は不明ですが、『日本書紀』の編纂者たちが『日本書紀』の年代が操作されていることを意図的に暗示しているのは間違いないでしょう。本来、欽明天皇崩御以降の年代を1年後ろ倒しにする必要はなく、仏像などの銘文を見れば、年代が意図的に1年遅れて記録されていることは容易に気づくはずです。このような年代操作は、神武天皇崩御以降の年代を1年前倒しにしていることと関係があるのかもしれません。編纂者たちは年代操作が行われていることを示すことで、神武天皇崩御以降の年代について考察を促しているのではないでしょうか。
さて、厩戸皇子の薨年が壬午年(622)であり、享年が49歳であることから、厩戸皇子は甲午年(574)に誕生したことが分かります。この年は敏達天皇4年にあたります。同年1月9日には、息長真手王の娘・広姫が敏達天皇の皇后となりましたが、同年11月に広姫は崩御されました。広姫は押坂彦人大兄皇子、逆登皇女、菟道磯津貝皇女を生み、このうち菟道磯津貝皇女は、敏達天皇7年・丁酉(577)に伊勢斎宮に任じられましたが、池辺皇子(後の用明天皇)に犯された事が露見し、その任を解かれたと伝えられています。一方、翌年に敏達天皇の皇后となった炊屋姫尊(後の推古天皇)の長女には、菟道貝蛸皇女という名の皇女がいますが、この菟道貝蛸皇女の別名が菟道磯津貝皇女なのです。
伊勢斎宮に任じられた敏達天皇7年・丁酉(577)時点での菟道磯津貝皇女の年齢は、成人とされる13歳であったと考えられます。しかし、その後、彼女が用明天皇の妃となったとする記録は存在しません。また、菟道貝蛸皇女の別名が菟道磯津貝皇女とされていることから、伊勢斎宮を解任された後は、炊屋姫尊(後の推古天皇)のもとで保護されていたのかも知れません。
その後、父・用明天皇の一連の事情により婚姻の機会を失った菟道磯津貝皇女を、厩戸皇子は自身の妃とすることでその境遇を償ったとすれば、菟道貝蛸皇女の名は、厩戸皇子の妃となる際に改名されたと考えられます。この場合、厩戸皇子と菟道磯津貝皇女の年齢差は9歳となります。厩戸皇子と菟道貝蛸皇女の間に子が授からなかったのは、この年齢差が影響したのではないでしょうか。
(※大阪府南河内郡太子町太子 聖徳太子磯長墓)
◆4-6.~穴穂部間人皇女~
聖徳太子(厩戸皇子)の陵墓を管理する叡福寺の伝承によると、太子は敏達天皇元年(572)に誕生し、13歳の年に父・用明天皇が即位し、16歳の年に丁未の乱が起き、22歳で摂政となりましたが、この時の推古天皇の年齢が33歳であったとするのです。実際の聖徳太子は壬午年(622)に享年49歳で薨去しているため、用明天皇が即位した甲辰年(584)では11歳、丁未の乱が起きた丁未年(587)では14歳、摂政となった推古天皇元年・壬子年(592)では19歳となります。また、『日本書紀』では推古天皇は39歳で即位されたとあることから、治世元年時点での年齢は40歳です。
叡福寺の伝承に登場する太子の年齢の矛盾は、太子の生年を敏達天皇元年・壬辰年(572)としていることに起因します。しかし、叡福寺の伝承に従い、『日本書紀』に記す敏達天皇元年・壬辰年(572)を聖徳太子の生誕の年とした場合、太子13歳の年は実際に用明天皇が即位した甲辰年(584)であり、太子16歳の年は丁未年(587)になります。太子の年齢は間違っているものの、年齢に該当する年の出来事は実際の年の出来事と一致するのです。ところが、太子22歳となる年は、実際の推古天皇元年・壬子年(592)ではなく、『日本書紀』に記す推古天皇元年・癸丑年(593)なのです。
叡福寺の伝承にある33歳と矛盾するのです。
これらの事から叡福寺の伝承には、本来、太子の年齢は記録されてなかったと考えられます。また、推古天皇元年での推古天皇の年齢も異なることから、元々の伝承は推古天皇ではなく、「太后」だったと考えられます。恐らく元々の伝承は「甲辰年に用明天皇が即位し、丁未年に大乱が起きた。そして、太子が摂政となった年、太后は33歳であった。」と考えられます。この太后を推古天皇と誤って解釈したのでしょう。では、この推古天皇元年に33歳となる太后とは誰なのか?恐らくは、太子の母・穴穂部間人皇女でしょう。
仮に穴穂部間人皇女が推古天皇元年・壬子年(592)に33歳であったとすれば、生年は欽明天皇29年・庚辰年(560)となります。聖徳太子の誕生が敏達天皇4年・甲午年(574)ですから、穴穂部間人皇女は15歳で聖徳太子を出産したことになります。古代の女性の婚姻適齢期は13歳であるため、穴穂部間人皇女は、自身が13歳となる敏達天皇2年・壬辰年(572)に用明天皇の妃となったものと思います。従って、穴穂部間人皇女は欽明天皇29年・庚辰年(560)に誕生し、敏達天皇2年・壬辰年(572)に13歳で用明天皇の妃となり、甲辰年(584)に25歳で立后、辛巳年(621)12月に享年62歳で崩御されたのです。