デジタル画、始めました。

落書きしてます

母のこと

2021-05-08 15:51:00 | 日記


これは母が描いた絵。そんなに苦しまなくても良いんだよ、と言ってあげたくなる。


母が亡くなって、もうじき2年と5ヶ月になる。
実は先日から、あれ?亡くなったのはいつだったかなと考えていた。

あれからずいぶんと時が経ってしまったような気がしてならないのだが、1年過ぎたのか、2年過ぎたのか、わからない。
次男は「正月に皆が集まらなかったのは、まだ二回だから、2年は経っていない」と言ってくれたが。
結局は、義妹が2年過ぎていることを教えてくれた。

母は正月を待たずに年の暮れに亡くなった。

正月には、父がいた時にはもちろんのこと亡くなってからも毎年、ほとんど家族全員が集まって大賑わいだった。
正確には正月に、ではなく、大晦日に集まっていた。
その日のスケジュールは大雑把に言うと、午後適当に集まり、ご馳走を食べ、蕎麦を食べ、お年玉が飛び交い、記念写真を撮り、0時を過ぎたら「明けましておめでとう」と言って解散していた。

母が亡くなったのは、発熱で入院して二週間ほど経ってからだ。
最初に入った病室は3人部屋で騒がしく、しかも夜が寒かった。
頭の向こうの大きな窓から冷たい空気が押し寄せて、母の肌けた肩を冷やしていた。
特別室が空くまでそこにいなければならない。

悪いことに入院した夜に母は喀血してしまい、息が出来るよう喉に管を入れられた。
あとで聞いた話によると、入院のストレスで喀血してしまうことは時々あることらしい。
管が入っていると痰の吸入がより辛いと言われた。
母はある看護師の声が遠くから聞こえただけで怯えていた。

担当の医師からは、管が入っているので当分在宅医療に戻すことは出来ないと言われた。
そのうち管がやっと外せたと思ったら、今度は水が飲めないから退院させられないと言われてしまった。

そんなこんなするうち、特別室が空いたという連絡があった。
とりあえず、寒くない部屋に移ることが出来たし、騒ぎ過ぎる隣の患者から避難することが出来た。
担当の看護師も代わった。それも嬉しかった。

酸素吸入していたものの、少しは回復している様子に姉も私も家族の皆も喜んだ。
でも夜の付き添いは許されなかった。特別室には付き添い用に簡易ベッドも用意されてあったのに、残念だった。

特別室に移った次の日、私が病室に行ったのはたぶん10時ごろだった。
母の両手はベッドの柵に拘束されていた。

え?なんで?と思った。

意識はなかった。今思うと、なかったと思うがどうだろうか、分かってはいたが、反応が出来なかっただけかもしれない。
昨日との容体の違いに私は驚いたし、拘束された母が不憫だった。
拘束を解いてから、センターの看護婦に理由を聞きにいく。
「酸素マスクを自分で外してしまって、一時は危なかった。何度もマスクを取るので拘束した」と言われた。
危なかったのなら、連絡ぐらいしてほしい、と今は思う。もう仕方のない事だけど。

拘束を解かれて、母はしきりに手足を動かしていた。それをさすってあげることしか出来なかった。
1時間ほどだろうか、手足をさすり続けた。

すると、それまで苦しそうに動かしていた手足がはたと動きを止めて、母は気持ちよさそうに眠ってしまった。
ああ良かったと思った。もう苦しくなさそうなのが嬉しかった。まだ生きられると思った。
そうしたら私も急に眠くなって、簡易ベッドで深く眠ってしまった。

私が起きたのは1時間程経った後だろうか。
相変わらず母は気持ち良さげに眠っていた。

オムツ替えの人が来て私は廊下に出た。
廊下で待っていると看護婦がナースセンターから慌てて出てきた。母の心臓が止まったという。
看護婦と2人で病室に入る。
オムツ替えの人はそんなことは慣れているという風情で部屋を出て行った。

仰向けに寝ている母の顔色がみるみる変わっていくのを私は見ていた。

看護婦が私に「家族の方ですか」ときき、医師を呼びに出て行った。
その隙に私は、母に朝付けてあげたばかりのネックウオーマーを外し、カバンに入れた。

「人があの世に持っていけるのは思い出だけ」という言葉がリアルに思い出された。
母も、思い出だけをあの世に持って行ったのだなあと思った。

そして母の苦しみがようやく終わったんだなとも思った。