2024/2/24(土)晴/曇
最高気温14°早朝の気温6°降水確率10~20%と雨の心配はなさそう天候に、午前10時からポタリングに出る。目的地は、和水町の六地蔵6基を探訪することとする。
熊鹿ロードを北に走ると、満開の鮮やかな黄色の菜の花(写真1参照)に気持ちも浮き立つ。宮原から国道3を走り春間から県道16に抜けて、菊池川を渡る。
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菊池川右岸堤防道路を下ると、堤防に白いダイコンの花(写真2参照)が目に鮮やかに写る。
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県道315から右折して国道443を目指す。途中、豊前街道「八里木跡とヒジ曲がり」(写真3参照)を通過する。
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国道443から右折して和水町津田字室園にある観音堂(写真4・5参照)に立ち寄る。
説明板には、「大円寺跡、この観音堂より南東約五〇メートルの、地元で寺山と呼ばれる孟宗山に、中世から近世にかけて寺院があり、「肥後国誌」にも「禅の古跡也里俗は大円寺と称す。廃跡に本尊地蔵一堂に安ず」と書かれている。本尊の地蔵は、地元の人によって、ここより南西約ニ〇〇メートルの宮脇天満宮に移されており、廃跡には宝塔の一部が残されている。
「中原雑記」という江戸の文献によれば、天正一五年(1587)に起こった肥後国衆一揆後の残党追討に、神尾城主大津山家綾の家臣であった佐藤但馬は、進退窮まってこの大円寺に逃げ込み、熊野宮の社人陶山宮内の計らいにより、鎧兜は大釜の下灰の中に埋め、百姓姿となって事なきを得たという。
その後、上津原村は、加藤清正の足軽大将貴田玄蕃の知行地となる。文禄・慶長の役(1592・1595)では、但馬の嫡子子次郎兵衛、妹婿の牧野図書、男甚九郎も玄蕃に属し、転戦七年、甚九郎は大虎を、小次郎兵衛は小虎を撃ち、清正はそれらの鉄砲を大虎・小虎と名付け秘蔵したという。
また、本村六地蔵も、もとは大円寺にあったという。
慈徳寺跡、この観音堂より西北約五〇メートルの所が慈徳寺跡と思われ、「肥後国誌」には「禅の古跡也、本尊観音一堂に安ず」とあるが詳細は不明である。廃寺の後、当地にお堂を建て、本尊の観音像を安置したものと思われ、現在寺跡には何も残っていない。」とある。
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西南方向に道を進むと「本村の六地蔵」(写真6・7・8参照)が鎮座する。龕部は風化が進みはっきりしないが、原型は残っているように思う。標柱説明文には、「「肥後国誌」には、「初ハ大円院二アリシ石地蔵ナリ銘二願主参河守藤原秀為原比丘正津文明一三幸巳(1481)三月一四日」とある。」とある。
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国道443に出て西に辿り、左折して「小屋敷の六地蔵」(写真9・10参照)を拝する。傘が大きい。龕部は風化が進んでいるが、原型は確認できる。
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国道443を少し戻り、左側に「高畑の六地蔵」(写真11・12参照)を拝する。石地蔵が前列に六体と後列にも同じような石地蔵があり、全部で10体程鎮座する。右端には五輪塔が4基鎮座する。
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高畑の六地蔵を後にして十町川右岸側を遡り、和水町指定文化財(建造物)の「苧生田(ううだ)の六地蔵」(写真13・14参照)を拝する。この六地蔵は民地に鎮座する。龕部に仏像はない。
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十町川を左岸側に渡り県道6を北進して、和水町総合支所方向に左折して続いて右折して「岡の六地蔵」(写真15・16参照)を拝する。ここの六地蔵の龕部ものっぺらぼうだが、中台にレリーフと幢身に陰刻の文字がある。
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そのまま十町川右岸側を北進して、「上東の六地蔵」(写真17・18・19参照)を拝する。
龕部の仏像は風化が進んでいる。標柱説明文には、「三加和地区では、一番新しい六地蔵で、「奉建立、文政三歳(1820)正月吉日陶山鞆工講中」の刻銘がある。」とある。ここを折り返し点として帰途に就く。
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帰途の途中、熊本保健科学大学の満開の河津桜(写真20参照)を観る。
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17時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)44km→上東六地蔵40km→熊本(自宅)
総所要時間7.5時間(実6.5時間) 総計84km 走行累計58,090km