虚しさに浸る事こそが答えという訳ではない。全ての事象はどこかでつながる。自分の存在が何ものをも傷つけずに生きていると思える事こそが傲慢だと、思い知らされる。それでも人は生きて行く。そこで自らを軽蔑して終わる訳には行かない。
どこかで自分の存在が罪や悪に加担しているかもしれない。その自覚を抱えても、どう生きるかを模索する事が、生きている事なのかもしれない。
「醜いもの」に辟易すると、人はきれいなものを追い求める。例えばツイッターならば、正しく美しい言葉を連ねる人に傾倒してしまいたくなる。でもそこに縋るのは、自分の中の醜さから逃げる事にもつながるのかもしれない。
私はきれいなものを見ていたいから宝石を勉強したけど、きれいな宝石を通して見えるものの半分は、その宝石を取り巻く醜い事象だったりしましたから。
「誰が悪いのか」という犯人捜しは、「自分以外の誰かが悪者であれば」という責任転嫁の面を含んでいるのかもしれないと私は思う。もちろん全てがそうではないとしても。
その犯人が明確であれば、どれだけ糾弾しても許されると思う事が、危険だと思っている。
自分一人が何を言ったところで何の力もない、と嘆いたのが三年前だとすれば、自分一人が口をつぐんだ事で何の効果もない、と虚しくなるのが現在の状況なのだろう。
(あまり使っていないけど)時々ツイッターの公式を開いておすすめユーザーに嫌いなアカウントが並んでいると、その日の占いで大凶を引いた気分になります。
意気揚々と啖呵切ってご満悦なツイートに誤字が含まれていた場合、それを指摘するのは親切か否か。
@nobuko_kosuge 先生こんにちは。先生の著作のご感想をまだ書けずにおりました…すみません。もしも先生があの一節に私を想定して下さったなら、私も間違いはあるし気丈ではないし、恐縮すぎてあたふたしてしまいます(^^;)。あ、「レイルウェイ」私も観てきました。
(いや私もよく誤字しますが。昔はそれを多数RTされて取り返しつかなくなった事もありました…)(最近はRTされる事も少なくなったので安心)
アフォガードと聞く度に、アフォからのガードという図が浮かんでしまうのをどうにかしたい。というかアフォからのガードの図って何。
私も見習わねばなりません。アホーダブルにもならないようにこう、「ふぉ」に集中を。
そういえば、郡山市の双葉町役場の支所へのバスの行先表示が「双葉町」でした。双葉町役場郡山支所は郡山市役所の近くにあります。でも行き先は「双葉町」。役場支所の文字は無い「双葉町」。あのバスを見る度、そこに込められているかもしれない何かを、思い出すんです。
このタイミングでスケートを習ってるお子さんのお母さんに仕事で会ったので、ルール改定があると大変ですかねって話になったけど、柔軟な考え方というか物腰も柔らかい人だっただけに、こないだの「私は選手の母親だからルールの事はちゃんと分かってるのよキー!」の人と大違いで苦笑してしまった…。
ただ、本当の高みの見物とは、飢えた獣の中に餌を投げ込んでおいて、そこに群がる獣の必死さをさも残酷だと憂えて見せる事の出来る人のしている事かもしれないと、思っていますが。
恐縮ですが、いつも孤立は恐ろしいです。私は強くなどありません。むしろ今の方がその恐ろしさは強いです。
おそらく、当時私を持て囃した人の半数以上が、私を見放している事でしょう。
前の流れとは関係ないですが、誤解無いように言っておきたい。ネットでのデマの訂正が無駄だと私は言った覚えはありません。その場合の過剰な揶揄や嘲笑は、物事の本質をずらして行くだけで、伝えたかった事実まで伝わらなくなる可能性が高い、と言いたいだけです。
淡々とこなせばいいものを、祭りにする意味はあるのかと、いつも問うているだけです。それは当初の自分の発言を省みても。
揶揄と嘲笑は、私が受けて最も厭わしいものだった。「いつか死ぬんだ」系の@は、私にとっては酔っ払いに絡まれたのと同じ事で、そこまで気に病むものではなかった(確かに私はどうせいつか死にます)。でも、人の本気を揶揄し、嘲笑うような発言には、とても苦痛を感じた。
私はスポーツでも勝ち馬に乗ってなぜか自分が偉くなったような態度を取るファン、というのが嫌いなのだけど、野球クラスタは不思議とその匂いが少ない。そういう人ばかり見てるからだろうか。自虐とネタの使い方が上手い人が多い気がする。
ただ、その自虐や揶揄を混ぜ込んだネタも、不快に感じる線と言うものは結局個人差でしかなく、私がネタで済ませるものを許せない人もいるだろうし、そういうボーダーラインの似た人だけが、己の周囲に残って行くのかもしれない。
震災は、そのボーダーラインを混乱させた。許容できていたものが許容できなくなり、今までまるで許容できなかったものが許容できるようにもなった。
孤立って、攻撃されて発生するとは限らない。興味を失われる事こそが孤立。過剰な攻撃を受けるという事は、それだけ味方も増える可能性がある。どんな形であれ耳目を集める。でも、無視や無関心は、本当に人を孤立させる。
そういう意味で、私は初期に孤立を恐れてはいなかったのだろう。ネット上での言葉の攻撃くらいで死にはしない。でも、目を向けてくれていた人たちの興味を引く事が言えなければ、孤立する。一時はそれを恐れた。今も恐れていない訳ではないけれど、諦めた。
以前書かせて頂いたgooのコラムで言いたい事は言いつくした感じだし、そこから基本的な考えは変わってないけど、もうそんな機会もそうはないでしょうし、私に期待をする人はほとんど残っていないでしょうから、これからもどんどん孤立して行く方向で。
「アクト・オブ・キリング」という映画。虐殺を自ら認めている出演者が、その様子を楽しそうに語る。実際に「楽しかった」のかもしれない。そんな高揚感が、自分には無関係だと思って観ていると、足元を掬われるような気がする。
それを他人事としてのみ、ある特定の人物にのみ起こりうる事としてだけ見ていられるなら、その人はさぞ幸せな事だろう。
その虐殺には理由があった。法もそれを赦していた。未だに裁かれていない。「理由さえあれば」という台詞があった。それは彼らにとって「正しい」事だった。彼らは家族を大事にし、幼い動物も可愛がる「善人」でもある。異世界の怪物などではない。隣人にもいるであろう人間だ。
環境や時代が彼らを狂わせたのか。原因はどこにあるのか。「悪者」は誰か。そんな考察が意味をなさないと、観て行くうちに気付かされる。
やだなー米米CLUBの3枚目のシングルの事じゃないですかー RT @streakingpig だれが中華風豚肉の炒め物だ RT @あ ※加油とは決して油を加えて炒める事ではありません。
なんであの手の人たちトレンチコートが定番って事になってるんですかね。ダッフルコートだったら可愛い目男子成分で少しは許容されやすくなるんですかね。
@takeki03 それはハードですね…確かに歌舞伎を行程に入れてしまうと、かなりタイトになるんですよね…しかも通しなんてやったもんならorz(確実に一幕寝るフラグ)
@tshinichi0526 こんにちは、それはもう行けなかったんですよ…整理券配布がすごい速さで終了してしまったそうで。行った方のレポを見てました。あ、もちろん本は買いましたし、読みましたよ(^_^)/
@keicoo55 私が遭ったのはトレンチでもなんでもなく、牛乳瓶にあれを突っ込んでいたという真正でしたね…なんか通学路に多くて、終いに慣れて、横目でスルーでそのまま歩いて行っちゃいましたが( ̄▽ ̄;)
@kiraguit いや、可愛いんじゃないでしょうか!!そういうの好きですよ!!(※決して中身が全裸ではなく)
「無反応こそが最強の反撃」という信念は、あの露出狂に遭いまくった頃に培われたのかもしれない。
@keicoo55 見せるだけで実害はないからですかね。(いや精神的にあるといえばありますが)子供にとってはグロいだけで、それも虫見るのと同じで慣れたらそれまで。おとーさんと同じだしなんか小さくね?くらいになり。いや決して許しちゃいけない事なんですけどね( ̄▽ ̄;)。
「相手の感情をどんな形であれ波立たせる事」が目的の人たちにとっては、批判だろうが罵倒だろうが反応した時点で目的に加担した事になるので。
@keicoo55 よく「小さいって言ってやれ」が撃退法みたいに言われましたね…それもやっぱり怖かったんでひたすら無視でしたが(^^;)。そういえば最近はいるんですかねえ。見せるだけなら可愛いもの、てな犯罪が表面化する事が増えて、目立たなくなっただけなんですかねえ…。
@keicoo55 多分、おそらく、いや確実に、あるんじゃないでしょうか…。色んなご趣味の方もいますからねえ(遠い目)いやいやこちらこそ妙な話ですみませんでした(^^;)。
@keicoo55 あ、はい、マジ楽しみにしています!!(`・ω・´)(そうだ、うえさんにご紹介いただいたという新大久保のお店、美味しかったですよ~)ではまた( ´ ▽ ` )ノ
ツイッターは時にTLが闘牛場になる。その闘牛に興味が無い、または本当に見たくない場合は、観客からも外れる権利がある。
私にとって最も苦々しく見えるのは、その闘牛士たちのいずれを応援するにしても、まるで自分が相手を叩きのめしているかのような高揚感に酔っている人間だ。
拳闘士たちに野次をとばし、勝ち上がった気分になるのは楽しいだろう。自分にだってそんな側面が無いとは言えない。スポーツ観戦とは得てしてそんな面を含んでいるものだ。しかし、それが少なからず真剣に我が身を煩わせている問題であれば、その高揚感を「愉しむ」事などできない。私の場合は。