「エデンの東、East of Eden」ビクター・ヤング Victor Young
「 ジャイアンツ、 Giant 」ジェームズ・ディーン、James Dean
フオークソングを日本に流行らせたのは東芝の高島
評論家の中村東洋
中村とうようさんと音楽三昧の日々
2011.7.21 18:01
再録です。
中村とうよう、といっても今はどこのひと・・といわれるかもしれない。ここ20年、表立った活躍をしていないんだから。もうはるか、遠い昔、ビートルズが日本にやってきて、日本武道館で1回きりの公演をやってきたことがある。その時、券は、発売して、すぐsold outになったが、招待券を、手を回して入手してくれたのが、彼である。
その頃の彼は、ポップスの翻訳をやっていて、レコードのジャケ裏の解説でメシを食っていた。
私も、音楽が好きで、なまかじりの英語で、バイトで手伝っていた。 ビートルズのレコードを出していた東芝音楽工業に高島さん<高島忠夫の弟>や石坂さん<経団連の会長の息子>などがいて、ビートルズの爆発的な人気で、ウハウハの時期である。
レコード試聴会なる業界人の集まりがあって、翌月に発売されるレコードをタダで聴けて、試聴盤もくれていた。帰りにオミアゲつきである。
私は会社勤めはほどほどにして、試聴会へ顔をだしていた。彼は、銀行マンをやめてこの世界へ飛び込んできたのだ。京都大をでて、今はなくなったが、日本信託銀行からの転進である。
そのままいたら、今頃は、もう相談役ぐらいになっていたはずである。
彼は洋楽に目がなくて、手当たり次第に、試聴盤をあつめていた。
それが、その後の彼の宝物となっていった。
何故か彼とはウマがあうというのか、試聴会で隣りあわせでともに、聴いていたのだ。
彼が京都の経済で、私が中央の法科、ともにレコード業界では毛色の変わった人間だったのである。
もう一人、三橋さんがいて、自由国民社で『現代用語辞典』をつくっていた。
東洋さんは三橋さんとで、その後の日本でのフオークブームの先導者となった。
「花はどこへいった」のジョーンバエズ(キングレコード) 「500マイル」のPPM(東芝)らのフオークが日本で若者に人気を博したが、そのブームの火付け役になった。
和製フオークのマイク真木、森山良子、フオーク・クルセダースらを生み、かぐや姫の『神田川』ばんばの「いちご白書をもう一度」と続き、日本に「フオークブーム」が巻き起こるのである。
世界の音楽情報を収集、提供した週刊ベースの情報誌があった。
東洋さんはその後、ネイテイブ・ラテン音楽、アフリカン音楽、ジャズ、とりわけ黒人音楽の原点であるブルースに重点を移してゆくのである。音楽は、その虐げられた民族の叫び声という淵源にさかのぼらなければ、理解できない、という理屈から、かれはそうなっていったのである。彼はロック雑誌「ニューミュージック・マガジン」を創刊した。レコード批評、音楽会批評の雑誌である。
令和の現代でも続いている。
ロック・オペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」「トミー」の日本で初めての紹介記事を私が書かされた。ジャケ裏解説(今はライナーノートという)はビクターのMCAからだったが、なまかじりの英語のそのままの翻訳であった。「ローリングストーンズ」誌の翻訳である。
文化放送に茂木幹弘さん【故人】という名物アナが「ユア・ヒット・パレード」という人気番組でDJをやっていた。東洋さんと私3人で何回しゃべった記憶がある。
みな、若かった時代の思い出である。
私は40年代には、当時勤めていた電機会社で総務の係長をやっていた。
社長から、「おい、いい加減にしろ、どちらか取れ」と強くいわれたことがある、
ジャケ裏解説だけでは、メシが食えないし、もう妻子もいたので、仕方なく、バイトから手を引いたのである。
途端に工場の総務課長になれといわれ、まもなく私は、米国現地法人の立ち上げや工場建設で、急に多忙になり、試聴会には、社長命令で出られなかった。
そのころは、洋楽全盛で、シャンソンは永田文夫、ラテンとロックは東洋、ジャズは油井正一、野口久光、フオークは三橋、東洋、カンツオーネは荒井基弘 らが幅をきかせていた。
彼ほど 幅広くポピュラー音楽を解説できる人を、ほかに知らない。
東洋さんは、独身できままであった。彼は、生涯独身であった。それが、結果的には、音楽界でメシが食べられる原因でもあったのである。
彼は立川に住んでいたので電車で直ぐのところに、武蔵野の閑静な散歩道があり、流れる川のせせらぎが、ここちよかった。その近くにムサビ・武蔵野美術大学がある。
ここに、よく散歩に来ていた。
ポートランドまで会いに来てくれた
彼は、ブルースの発祥地であるニューオリンズに来たといって、帰りにわざわざデルタ航空で、オレゴン州のポートランド郊外まで来て、工場に寄ってくれたことがある。
うちの工場は、2万坪の敷地で、工場だけはでかかったが、稼動前で、人も少なく、
近くにあったインテルの本社で工場見学させてもらったことがある。
彼は、最先端のコンピュータの半導体を、しげしげとみながら、「日本の音楽はこれからどうなるのだろか」とつぶやいていたのが印象に残っている。
昔の知人を、住む世界が違うようになったからといって、粗末にあつかわなかった。
本当に、その時は、うれしかった。
ある人の縁で、ムサビ<武蔵野美術大学>の先生と親しくなり、彼は所蔵していた膨大なレコードコレクシヨンを、この大学に寄贈したのである。
ムサビは今や、ラテン音楽、ブルース、アフリカンなどのレコードの最大の所有者になったのである。実は彼は数々のレコードや書籍、民族楽器類など、海外で仕入れたものの置き場に困っていたのだ。後継者はいないし、渡りに船だったようである、
今にして思うが、身辺整理をしたのである。
その彼が自死した。まもなく80歳になろうかという年になろうか。
もうやることも、その気力も、うせてしまったのだろうか。
晩年の一人暮らしは、切ない。孤独感、寂寥感、他人には、わからない。
「それでは、みなさん、さようなら」という遺書があった。
産経新聞
21日午前10時15分ごろ、東京都立川市柴崎町のマンション敷地内で、マンション8階に住む音楽評論家の中村とうよう(本名・中村東洋)さん(79)が頭から血を流して倒れているのを通行人の女性が見つけ、119番通報した。中村さんは頭を強く打っており、搬送先の病院で死亡が確認された。警視庁立川署は、中村さんが8階の自室から飛び降り自殺を図ったとみて調べている。
同署によると、女性が「ドン」という音を聞き、敷地内を見ると、中村さんがあおむけに倒れていたという。中村さんはこの部屋に1人暮らしで、部屋から自殺をほのめかすメモが見つかった。
中村さんは京都府出身。京都大学経済学部を卒業後、日本信託銀行員を経て音楽評論家となり、昭和44年に音楽雑誌「ニューミュージック・マガジン」(現・「ミュージック・マガジン」)を創刊。平成元年まで編集長を務めた。20年からは武蔵野美術大で客員研究員だった。